「月夜」
ようやく桜が咲いた。晩ご飯を食べながら見たテレビでそのことを知った。例年よりも数日遅い満開宣言だった。温暖化の世では珍しい。最近では桜は入学式までに散るものになっていたが、今年こそは初々しい新入生を満開の花々の中で迎えられそうだ。
「桜見に行こ!」
同居人は季節の行事が好きなので、当然花見にも行く気らしい。テレビの中では撮影クルーが花見客に揉まれて、真っ直ぐ歩くことすらままならないと伝えていた。
「もう少しあとでもいいんじゃない」
そっけなく答えてしまうと、分かりやすくしゅんとする。こういう所が、好ましいと思う。
「でも……早く行かないと散っちゃうかも」
「もう夜だよ?」
「夜桜見に行きたい!」
少し迷ったが、行こう、よりも行きたいと言われた方が行く気になる。天真爛漫なこの子の願いを叶えてあげたいと思うから。
「じゃあ今から行こう」
外に出ると、想定よりも暗かった。月は霞がかったようにぼんやりとしていて、妖しい雰囲気さえ感じる。スマホのライトで照らしながら、近所の川の土手まで歩くことにした。他愛もない話をしながら歩いていくとすぐに着いてしまった。
辺りが夜に包まれており、他に人はいない。花見客も見当たらず、車もろくに通らなかった。しんとした街に、たまにどこからか犬の遠吠えのような声が聞こえる。
「本当に満開だ」
同居人が感極まるように呟いた。去年も一昨年も、きっとその前も何度も見ているだろうに、毎回新鮮に感動している。こういう所も好ましいと思う。
写真を撮ろうとしたが、辺りが暗すぎて綺麗に写らなかったため断念した。同居人は少ししょんぼりしていたが、目に焼き付けると宣言して桜を眺めていた。
「もう少し月が出ていれば良かったのにね」
あまりにも必死に見るのでつい呟いてしまった。雲がかった月は相変わらず十分な光を与えてくれない。
「朧月って言うよね。こういう月」
同居人が言って、視線を月に向ける。写真を撮れなかったことを悔いているのかと思って声をかけた。
「明日、昼に来よう。そうしたら写真も撮れる」
すると、ふふっといたずらっぽく笑われた。
「朧月夜の翌日には雨が降るって言われてるんだよ。きっと明日には散っちゃうね」
桜を愛しているように見えたのに、そんな事を言うのは意外だった。当人は心底楽しげな顔をしていて、より困惑してしまう。なんと声をかけたら良いのか分からず、無言でその言葉を受け流してしまった。
「だから今夜、ここで桜を見れたのは私と貴方だけ。二人だけの夜桜だよ。来て良かったでしょ?」
ぎこちなく頷くと、右手を取られて引っ張られた。散策はもう少し続くらしい。
それにしても、危うい人だ。純真無垢、天真爛漫かと思えば、艶っぽくて扇情的でもある。いったいどれが本物なのだろうかと怖くなるときもある。
それでも、今こうして月夜を行く瞬間は本物だ。朧月の雲が晴れるように、いつか彼女を全て理解できるときが来るのだろうか。
3/8/2026, 5:45:35 AM