薄墨

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赤焼けの空に、童謡のメロディを奏でるチャイムの音が高らかに響く。
午後5時だ。

真っ黒なカラスのシルエットが、陽気なチャイムともの悲しげなヒグラシの喧騒の中を、突っ切っていく。
晩夏の蒸し暑い夕暮れは、のろのろと過ぎていく。

私は、動かしていた手を止めた。
雑巾は、拭き取っていた液体を十二分に吸い上げて、ぶくぶくと太っていた。
爪の間から指先の第一関節までを、赤黒いものが染め上げている。

今日は8月31日だった。
そして、今、目の前で、赤黒い内容物に塗れて、物言わないただの物体になれ果てている彼は、8月31日を、死ぬほど嫌っていた。

彼は、面倒くさいほど繊細で、優しい人だった。
洗剤の泡が残っているのが許せず、いつまでも丁寧に皿を流しているような人だった。
よく「眠れない」と唸るように言いながら、パラパラと錠剤を飲み干すような人だった。
そして、「死にたい」が口癖のような人だった。

彼は、この家から外の、世の中のありとあらゆる何もかもを憎んでいた。
自分の身体を外の奴に触らせたくない、といつも言っていた。

だから、私は今こうして、部屋の掃除をしているのだった。
身体を屈めて、一人で、午後5時の童謡を聴き流しながら、彼の遺した痕跡を拭き取っているのだった。

今日は8月31日だった。
8月31日、午後5時。

私は今も、彼を拭き取っている。
呑気にノロノロと、童謡を模ったチャイムの音が流れている。

ヒグラシが鳴いている。
カラスが、夕日を横切っていく。

8/31/2025, 2:34:41 PM