#過ぎた日を想う
稲が黄金色に輝いている。
ヒデオさんは強張る身体をゆっくり伸ばし、目を細めてそれを眺めた。
そろそろ稲刈りの時期だ。
最近歳のせいでぼんやりしてしまうことが多いが、子供の頃から携わってきた自分の田のことはよく分かる。
明日辺り、隣のヤスさんにコンバインを頼むか…と考えていると、ひょっこり当のヤスさんが現れた。
ヤスさんは軽トラックを乗り付け、いつものように大きな段ボールを持って、軽快に降りてきた。
「ヒデさん、頼まれたもの買ってきたよ。ついでに銀行もね」
「いつもすまないね」
「なんの、なんの。ヒデさんは俺の田の先生じゃないの」
ヤスさんは、週末だけこちらに住んでいる兼業農家だ。
移動手段のないヒデオさんの代わりに、日用品の買い物をしたり、医者を連れて来てくれたり、ついでだからと田植えや稲刈りも手伝ってくれる。
二人三脚で農業をやってきた妻が亡くなって二十年、親族は皆土地を売って何処かへ行ってしまい、子供のいないヒデオさんにとっては、近所の人たちが身内のようなものだ。
その近隣の住人も次々人が変わってゆくが、親切なのはずっと同じだった。
21××年、もう何十年も土地を離れていないヒデオさんは、気づいていなかった。
世の中がずいぶん変わってしまって、自分が最後の稲作農業者であることを。
集落全体が保護区になっていて、田も家もヒデオさん自身も文化財であり、時々代わる親切な隣人たちが、国から派遣された職員であることも。
彼の暮らしが変わらぬよう、全力で守られていることを知らなかった。
「来年もこの景色が見れるかねぇ…」
ヒデオさんの目の前には、稲穂の海が遠い昔の日のまま、輝くように波打っている。
10/7/2024, 8:09:42 AM