さっきから焦点の合っていない目でふわふわしていたと思っていたら、気づいたらこいつは突っ伏していた。――相変わらず弱い。全然進歩していない。
今日も担いで帰るのか――そう考えると少し面倒だが、誰かに押しつけることはできない。そこまで治安もよくない。
くせの強い赤毛がまとめられた首のあたりが見える。こいつのここはそこまで敏感じゃない。撫でても唇で触れてもあまり反応しない。だからつい放っておいてしまっている。他の部分でもっと感じるようだから、そっちを優先している。
君たち、本当に酒とセックスばかりですね――いつだったかソレイユに言われたし、こいつも言われたらしい。たしかそのときはこいつがすねていて、しばらくしたら子供みたいな誘い文句で飯に誘ってきたから、市で変なものばかり食べさせてやったっけ。カエルの足を提案したときは全力で、ちょっと涙を浮かべながら拒否されたのもまだ憶えている。可愛いやつなのだ、こいつは。
オルステラにも好意や愛情を言い表すのにいろんな言葉がある。が、面倒な言い回しは分からない。そこまで分かろうとも思わない。愛しいというのもよく分からない。たぶん違う。こいつのことは、可愛いとか、生意気とか、そういう言葉で形容することが多い気がする。
高価いものは散々見てきたが、それでも私は高貴さとは縁遠い。学者のような知識層でもない。だから面倒な言葉は知らない。こいつもたまに知らない言葉で、(たぶん)愛情を表現することがあるが、やっぱり分からない。ただ、そのときのこいつの顔を見れば程度はともかくその気持ちが好意や愛情であることだけは分かる。だからそれでいいのだ。
もし、私にもそんな細かな言葉が分かるとしたら、こいつに何を言ってやれるのだろう。何を言いたくなるのだろう。そう、答の出ようもない疑問がよぎる。奪われたことのない者でも失うことの不便さや悔しさを考えることはできる。切られたことのない奴でも、痛いということくらいは想像できる。でも、たとえば赤という概念を知らない者が赤を思い描くことはできない。私の今の感覚も同じだ。知らない言葉など捻り出しようもない。
「だが、」
目の前で静かに眠っている男を見やる。
今日はもういいか。
ポケットの中で数枚の硬貨を選び、立ちあがってこいつの横から腕をさし入れ、肩で支える。服ごしに熱を感じる。立ちあがってゆっくりカウンターに寄ってコインを投げ出すと、馴染みのバーテンダーがこいつを見て微笑んだ。
いつかこの男に飽きることもあるのだろうか。
この男が離れていくことがあるのだろうか。
だが。
この男は、今このときは、私のものなのだ。
このひ弱で知らない言葉を発する変な男は。
そう、誰にともなく気を吐いて、私は酒場の扉を押した。
2/13/2024, 1:18:46 AM