千春

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 冷たい風がばちばちと耳に当たって、ありとあらゆる音が掻き消される。ラミネート加工を施された手書きの「きけん」が剥がれて飛ばされ泥まみれになっている。
「なんで、そんなところにいるんですか」
 きみの声がした。もう聞けないはずの声がした。
「きみに会いたいからだよ」
 涙があふれてくるのに、風がすべてを飛ばしては無かったことにする。変なところに力が入って不細工な、ぼくの顔だけが残る。
「欲張りだなあ」
 これ以上何を求めているのかと聞かれている気がしたから、壁打ちとわかっている独り言を続けた。「ぼくは、また君と、話したい。手を繋ぎたい。ハグをしたい。……キスも、まぐわいも、ぜんぶしたい。また、もう一度」
 こんなに欲張りになってしまったのは、きみが勝手にいなくなったのが悪いんだ。
 ぼくがいるのに、ぼくがいるのに、きみはお構いなしにぼくを置いていったじゃないか。
 愛してるって言ってくれたじゃないか。それなのに。
「お前は、もうちょっと、楽に死んでいいと思うけど」
「ぼくが楽に死にたかったら、寿命を全うして死ぬさ。きみと同じところで死ねば、すこしは近づけそうなんだ」
 コンクリートから、足音がよく響く鉄へ素材が変わる。雨が降っていたから、いまにも滑ってしまいそうだ。
「また同じ時間に生きようよ」
 背中から、重力に身を任せて、真っ逆さまに。
 ああ、きみも、この景色を見たんだね。


落下

6/18/2023, 2:08:56 PM