「誰よりも〇〇」という言葉を見聞して真っ先に思い浮かべるのは、それが誰にとっての一等賞なのか、ということだった。
〇〇の中には、ある事柄に対して優劣をつける言葉を当てはめることができる。普通とか平凡とかでも可。自分で選んだものに自分で評価を下すことができる。
僕は一等賞だと言った。しかし、マイナス評価をつける場合は最下位になるのではないか、と疑問を抱くかもしれない。その通りだと思う。しかしあえて一等賞という言葉を使っているのにはワケがある。ありきたりなフレーズになってしまうけれど、自分という存在がオンリーワンだからだ。
唯一無二の自分に、たったひとつの言葉を与える。そこには個人以外の要素は一切、介入していない。「誰よりも」という前置きがあるとはいえ、その「誰」というのは、言ってしまえば「不特定の何者か」でしかない。そのようなものと比較したところで、一番輝くのは、名乗ることのできる自分に決まっている。名乗りとは、個人の存在を明確にする魔法のワザだ。
例えば、他者が僕や君に、何かしらの評価を与えるとしよう。そのとき彼ら彼女らは、「誰よりも〇〇だね」と告げるだろうか。恐らく、そのようなことは起こり得ない。「Aさんは〇〇だね」と評する可能性のほうが高い。「誰よりも」という表現は強い比較級であり、他者が他者にそれを用いるのは、不適切な場合が多いからだ。
テレビに映るアスリートに対して、視聴者は「この選手は誰よりも〇〇」と口にするかもしれない。しかしそのとき、記録を更新する者が現れる可能性を考慮しなくても良いのだろうか。絶対という保証はどこにもないのだから、断定で締めくくるのは正しくない、と言えそうだ。「かもしれない」や「だろう」といった推量の表現のほうが、より適切なように思える。
長くなったけれど、「誰よりも〇〇」というのは「個人にとっての一等賞」と仮定して、僕は筆を置かせていただく。
2/17/2024, 12:06:28 AM