「君と歩いた道」
六月の、夏の暑さも感じる風が病室を包み込んだある日のこと。私は一人、病室で読書に浸っていた。この日はやや風が強いらしく、風が純白のカーテンを大袈裟に揺らしていた。白いベットと鉄パイプの椅子、白い壁、そして蒼い空。無駄をすり減らした美しさすら覚える部屋の中で、私は自らを見失いかけていた。
入院とは暇をかなり持て余す物だとは知っていたが、いざ体験すると何もすることがない。自宅にいた頃に何をしていたかも忘れてしまいそうな程に、私の過去は病室の白い壁に吸い込まれていった。とにかく、私はただその日が過ぎ去るのを見つめているだけだった。
見舞いに来る人もいない。遠縁の親戚はいれど、最後に会ったのは十数年前のことである。妻はいたが、彼女が四十三の時に乳癌で先立った。妻との間に子は儲けなかった。私含め二人とも収入も時間も無く、貯金には少ししか回せなかったのだ。だから、最後の時まで二人で支え合っていた。そして、ふと思うのだ。子も儲けず、金銭的な余裕が無いが為に、妻に旅行や贅沢もさせてやれなかった。私は彼女に何を残せただろうか。時より、そんな後悔に襲われる。もし妻にもう一度会えるなら、会話ができるのなら、謝りたい。そんなことを薄目で澄んだ空を見ながら考えていた。
私ももう長くはないだろう。この空を眺めるのも、明日を迎えるのも、限りが見え始める歳だ。その時、特に強く風が吹いたようで、最近切っていなかった髪が揺らされる。私も若い頃は日中外へ出て、色んなところで遊んでいた。それも、今の身体と精神ではとても再現出来そうにない。
「時の流れとは残酷よな」
そんな考えに、私は私に自嘲のこもった鼻笑いを一つした。とんだ贅沢な考えである。ならば、そんな事すら考えることの出来なかった彼女はどうなる。余命宣告をされた後、空を眺め続けていた彼女の姿をまたも忘れかけていた。ずっと共にいると誓ったはずなのに。自分のことが嫌になることが増えた。
なぁ、君は幸せだったか?初めて二人で歩いた古書店街、必死にバイトをして行った沖縄も大学時代の話で、就職し結婚してからはこれといった思い出は無い。それでも君は文句一つ言わず、最期の時まで一緒にいてくれた。私は与えられてばかりの人間だったんだ。だから、君に謝りたかった。贅沢な暮らしをさせてやれなかったことを、何も返すことが出来なかったことを。
私もいずれ逝く。だから、もう一度君と話をしたい。どんなに辛いことがあっても支え合っていたあの頃のように、退屈なんてなかったあの日々に...
夕方に差し掛かる時刻
老人は写真を手にして眠っていた。
了
6/8/2025, 11:22:36 AM