イオリ

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何もいらない

 ウォームアップを済ませてスタートラインに立つ。誰もいない真夜中のトラック。自分のタイミングだけで走り出した。

 2周だ。僕は800mのみやっている。いや、やっていた、か。大会前に、靭帯を痛めて出場できなかった。最後の大会だった。

 100mを超えた。痛みはない。オープンコースに入り中に位置を取る。ここでいい位置を取れるかが800mの鍵だ。前回の大会ではここで失敗した。というより、相手が上手かった。あいつ、なんて名前だっけ。

 思い出せない。が、均整の取れた体格と力強いストライドは覚えている。速かったな、あいつ。

 そんなことを考えていると、いつの間にか目の前を疾走する影が浮かんでいた。

 あいつだ。あいつの背中だ。僕はまた、あいつの背中を追っている。

 頭の中で鐘がなる。1周目を超えた。おそらく自己ベストを4秒ぐらい上回っているはず。だが、以前、あいつは僕の前を走っている。わずかに体を傾け、軽やかにコーナーを過ぎていく。僕も離されずに食らいついていった。

 調子はいい。おそらく今までで1番。怪我さえなければおそらく、全国にも……。いや、今はいい。今は目の前の背中を見ろ。それだけに集中しろ。

 あいつに悟られないように、ゆっくりとギアを上げる。じわりじわりと距離を詰める。

 最後のコーナーの手前で仕掛けた。もう一つギアを上げ、からだ一つ分、外に出た。まだだ。まだ追い抜かなくていい。プレッシャーをかけるだけ。僕に気付いたあいつがほんの少し、フォームを乱した。いける。

 直線で完全に並んだ。ラストスパート。ここからは、技術も駆け引きもない。肺も心臓も悲鳴を上げたがかまうものか。今度こそ勝つ。それだけだ。

 ラスト50m、まだ並んだまま。もう少し、もう少しだけ速く。速く。

 フォームが崩れた、と思った。地面を蹴るはずの足が、空回りしたような感覚。どうした。なにがあった。急いで呼吸し脳に酸素を送る。

 ゴール直前で倒れた、らしい。今になって、靭帯がまた痛みを訴えてきた。またお前か。まったく。

 荒い呼吸のまま大の字になって空を見た。月がぼんやりと光っている。

 ああ、また負けたか。やっぱり速かったな、あいつ。そういえば、まだ名前思い出せないな。北高だっけ、それとも西高だったかな。まあいいや、もう会うこともないだろうし。

 足が痛い。とっても痛い。歩いて帰れるかな。親にはなんて説明しよう。また病院か。嫌だな。
 
 でもいい走りだった。間違いなくベスト。

 高校で辞めるつもりだったけど、結局、自分にはこれしかないのだ。走るだけでいい。走っているときだけは、自分が自分でいられる。走ることさえできれば、何もいらない。

 なかなか落ち着かない呼吸をしながら、しばらく空を仰いでいた。
 
 

4/20/2024, 11:55:46 PM