花束なんて自分自身がもらうことはないのだけれど、贈ったことならある。
大学に進学して遠く離れた祖母に誕生日プレゼントとして花束を贈った。祖母は物欲がないし、しかし花は好きで花ならきっと喜んでくれるだろうと思った。案の定とても喜んでくれた。想像以上に喜んでいた。孫のために表向き喜んでいるとかではなく心から喜んでいるのがわかった。
この場合は成功したけれど、プレゼントで花束を贈られることを嫌がる人も多くいるらしい。花瓶にいけるのが大変とか、枯れていくのを見るのが悲しいとかそういう理由らしい。プレゼントを選ぶのって難しいと思わされる。
私はというと花を贈られたらとても嬉しいと思う。花が部屋にあるとの心も華やぐ。私はむしろ消え物をもらう方が好きだしそれに花はなかなか自分では買わない贅沢品だからそういう点でも嬉しい。
考え方は人それぞれ。一番は気持ちだろうからなんだかんだでもらったら嬉しい人が多いのではないだろうか。
勿忘草
勿忘草、、、よく聞くけれど私には馴染みのない植物だ。この植物の名を文学とか歌とかの中で時々見かけるもののどのような姿なのかも知らないままであった。そこで調べてみるとどうやら私の住んでいるところには群生していないようだ。どうりで馴染みがないわけだ。
ところでこの名称は中世ドイツの悲恋伝説に由来するらしい。それで花言葉が「真実の愛」とか「私を忘れないでください」だという。
このようにロマンチックな花であるから文学などによく登場するのだろう。ロマンチックとは程遠い私の人生にはやはり縁のない植物のようだ。
大丈夫。あなたは愛されているから。
いつもあなたのしあわせを願っている。
言葉もなく遠くからただ想うだけど
その愛が人を守ると
私は信じている。
私のことには気づかなくていいから
想いだけは届いてほしい。
しあわせでいて。
I love this world.
I love you.
I love me.
かつてはこんな世界嫌だ、いっそ破滅してしまえばいいなんて思っていたこともある。
でも今は愛してる。この世界に溢れる愛に、優しさに
感謝している。
ひたむきに生きるいのちを愛しく思う。
いつも家の中に引きこもってばかりで、これではいけないと、目的もなく、街へ繰り出すことがある。あてもなく街をさまよって何を買うわけでもなく何をするでもなくただひたすら歩いて帰る。わざわざ街へ来たのだからカフェにでも行けばいいのに、店へ入って注文をするという単純なことが私にはハードルが高く、また、ひどく拗らせた貧乏性も相まっていつも店に入ることができない。こうして何もせずに帰ってくるたびに人生損してる気がして自己嫌悪に陥る。臆病で過剰に自分を守り失敗や恥をかくことや傷つくことから逃げている。人と関わる勇気がもてない。いつまでもこのままでは生きていくのにも支障が出る。どこかで変わらなければならない。それは今日だってできるはずなのに。いつも後回しにしてしまう。明日は、明日こそは、、、その明日は来るのだろうか。そうこうしているうちに人生が終わってしまう。明日人生が終わるとしたら、そう本気で思えたら、今度こそできるかもしれない。でもいつもできないから、私はつまり今この時を真剣に生きていない。だからいつも人生に不満があるのだ。傷ついてもいいから本気で生きよう。本気で生きてたらその傷なんてなんてことないものだ。仮に致命傷になったとしても、本気の結果ならそれはそれでその運命を受け入れよう。愛すべき人生のために今度こそ本気で生きる勇気を持とうと思う。