どうして
あらゆる物事に対して人間は無知である。
なぜ、どうしてのきっかけから現象の理屈を究明し、発展してきたのだと歴史を見れば分かる。
まあなんだ、上で述べたようなスケールの大きい話じゃなくて私がしたいのは自分が味わっている理不尽に対して、これをどうしたら解決できるか。その道筋のためのきっかけを探っていきたいと思う。言うてそんな長い文章書くつもりはないぜ!
最近新しい仕事を任されているしかしそれがうまくいっていない。自分に足りないものがあるのが明白だ。何から解消していくか、その道筋がわからないところである。発言権は平等にあるはずだ。なのに緊張して仕方がない。自分が言ったことに対して自分が考えを詰めて相手からの問いかけにつまずくことがないだろうか、聞きたい事は明確であろうか。この辺の整理がどう判断つけるべきなのか、私の業務理解の至らなさがここに来て露呈した形だ。
正直、お作法の周知、部署ごとの役割分担の周知といった明確な資料のない部分について温度感のヒリヒリがスゴい。今さらこんなこと聞くの、分かってなかったの、質問してきたのあなたでしょ、と恐怖しかねえ。
ぶっちゃけ、私に反論できる要素は誰も1年間の間に教えてくれなかったじゃん、というものだが子供の理由でしかねえ。どうしたらいいのか聞こうにも言葉遣いが難ありな自分に気づいて言葉狩り状態に。
なぜどうしてと思えるからといって、答えにたどり着けるのは稀なのでは。。
直感でしか生きたことないのに礼儀正しさ求めないで。
夢を見てたい
現実の反対語は理想か夢かで悩んだことがある。ただ、高1の時に答えは出てて理想は"逆"、夢は"対偶"だ。数Aだね。
夢は見るもの、理想は叶えるものなのだ。まぁ夢を叶えるって言い回しも一般的なんだけどね。でも私は将来を指して夢っていうと、寝る時に見る夢と紛らわしいから使い分けてる。
結局、実現可能が人為的に可能なら手の届かなさそうな言葉を使いたくないのだ。泡沫の夢ってやつ?
そんでもって現実に帰ってきたけど、今理想からかけ離れてるんで自分、夢見てもいいっすかーー?
ずっとこのまま。
年が明けて今年はどんな年にしようかと考える。
新年の抱負というやつだ。だが毎年の常として挑戦という言葉を掲げても毎年成し遂げていることはあっただろうか。
試しに去年のことを思い出す。宅建を取るって言ったんだっけ。・・・・・・落ちたな。去年は俺にとって無意味だったのだろうか。そして今年も宅建を取るでいいのだろうか。
改めて、人生を生きることは安定した生活と刺激的な挑戦のバランスで成り立たせることが理想と考えてる自分に気づいた。苦労を感じてないと無味乾燥に思う性質なのだろう。でも最近仕事で気苦労感じてるんだから、刺激なんて求めなくていいのでは・・・・・・ずっとこのままでいいのかな。
あー、文章に一貫性が無くなってきた気がする。まとめよう。
メンタルの維持に【理想】を持つことは大事。
でも仕事がキツい時は【現実】の方が楽。
結局のところ、リソースには限りがあるので自分の振る舞いはどちらかを選ぶしかないし、それを妥協だなんて思わなくてもいいのかもしれない。
答えは出たーー転職しよう、資格を取って。以上。