月風穂

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3/1/2024, 1:15:37 PM

【欲望】

また趣味の映画の話である。
書くことがないときに趣味が役に立つとは。
このように使われていては映画も困り顔であろうが。

私が言いたいのはミケランジェロ・アントニオーニの『欲望(1966)』の話である。
ミケランジェロとアントニオーニという、いかにも芸術家だぞ私は、といった名前である。
しかしこの人はすごいのだ。
何がどうすごいのかと言われると、ここでは話しきれないので割愛する。
赤いポスターはデザインの巧みさも相まって、映画好きの間では流行ったようなのだ。
私が生まれる何十年も前の話である。
同世代でアントニオーニの話ができる人と私は対面したことがない。
SNSではたまに見かけるが、話しかける勇気はない。私はこう見えてシャイである。

映画の話に戻るが、私がこの映画と出会ったのは18の頃である。
それまで映画といえば現実逃避のアイテムであり、わかりやすいものばかりを観ていた。
しかし映画を少しかじっていくと、通ぶりたい私は難解な映画にも手を出すようになる。
そして今回の『欲望』に至るのである。
今見直してみるとそこまで難解ではないが、当時見た私は驚いた。
「なにこの終わりかた?」気が抜けてふっと笑ってしまうほどであった。
強制終了したかのような衝撃であったのだ。
今でもこの映画のラストシーンは私の記憶のなかに残っている。
忘れっぽいこの私がである。


映画初心者の頃はこうした衝撃を幾度も体験した。
今ではすっかり通ぶっているため、映画を観て大して驚くことも減ってきてしまっている。
これぞ感性の衰えであろう。
今でも好きな映画は学生時代に観たものばかりである。
私の人生が学生時代に集約されてしまうかのようである。
集約できないよりはましか、と思えばあの頃の私の体験も捨てたものではない。
困った。またアントニオーニの作品を観たくなってしまった。

2/28/2024, 1:17:38 PM

【遠くの街へ】

数年前のこと。
早朝耳元で携帯が鳴った。
人は睡眠を阻害されるとストレスを感じるようである。
こんな時間に電話をかけてくるとは不届きな野郎だと、迷惑電話に苛立ちを抱えて画面を見ると父からであった。

私の父方の祖母が亡くなった。
祖母は東北に住んでおり、私の記憶にはほとんど面影を残していない。
私たちは東北へ向かうこととなった。
金がないので新幹線や飛行機は使えず、車で早朝から夜遅くにようやく着く次第であった。
いつぞやぶりに会う親戚たちは、ほぼ初対面も同様であるが、私の巧みなコミュニケーション能力で何とか乗りきることができたのである。
祖母との思い出があまりない私は、少々申し訳ない気持ちとなった。
けれど、最後をおくることに意味があるとすれば、私はこの場にいるだけでも良いのかなと思ってもいるのだ。
祖母がいるから今の私がいるのである。
根本的な存在意義に立ち返った私は居心地の悪さにさよならをし、平静を取り戻した。


こんな何百キロも離れた地でも、数多の人が生活をしている。
現実味がなく、私たちが来たから急遽この世界ができたのではないかとラッセルの世界五分前仮説のような思考を巡らせる。
日頃過ごす街並みと趣の異なる景色は、違和感のある特異感を引き寄せている。
知らず知らず定型化した私の頭の中の街は、その土地特有のルールにより歪な形を見せる現実の街を受け入るのが困難でもある。
2日ほどしかいることはなかったが、まだ見ぬ地に足を踏み入れることの面白さも痛感するのである。

見かけたことのない品物や店。
一風変わった道路や建物たち。
岩を殴り付けるような波と、変わらず生き続ける私。
祖母の死がきっかけではあったが、祖母が存在していたこの土地は、祖母や私の親戚にとって何ものにも代えがたい故郷であるのだ。
次にあの街へ行くのは何時だろうか。
できれば良い報を迎えられれば、また違った喜びの街を望むことができるであろう。
そして私たちは帰路に着き、再び日常を繰り返すのである。

2/27/2024, 1:14:19 PM

【現実逃避】

現実逃避をしたところで現実は変わらぬのだ、とわかってしまった頃から、私は少々大人になった心地がする。
今では減ってきてはいるが、まだ現実逃避をすることはある。
時折意図的に紡ぐこの不用意な時間は、私の心を潤しているようにも思えるのである。

私は現実逃避にパターンを持たせている。
他人が完成させた小説や映画は特にお薦めである。
私以外の人間が作った世界を知ることで、いかにちっぽけな悩みを持っているかが判明する。
聖書のように神が救ってくれるわけではないが、人を救うのは人と思えば、神の出る幕ではない。
こんなところでいちいち出られていては、神も気が休まらないってもんである。

次いで自分会議である。
脳内の何人かの自分と話し合うのである。
自分だけなので結論は予定調和であるが、まるで他人が会議しているかのような錯覚を感じさせ、物事を客観視する時間となる。
ひとりだと寂しいので、私は分身を何人か作ることで気をまぎらわせるのだ。
敢えて時間を置くことで、頭をクールダウンさせつつ、次はどう行動すべきかを読むのだ。


だがやはり、そんな現実逃避も歳を重ねると変わっていく。
結局のところ私は現実に不安を感じる。
現実逃避をしているのに現実の不安が頭を過るため、いてもたってもいられなくなるのだ。
現実逃避をするために現実と向き合う。
つまりは現実と向き合った後で現実逃避を実施することもあるのだ。
これはご褒美という名目となり、順序を変えるだけで意味が変わってくるのだ。
かといって現実といつ向き合おうが、順序を変えようが結末は変わらないのだから、とっとと現実に折り合いをつけてから挑むのがいいところである。
物事に愛を見出だせば、何だか現実とも戦えるように思えるのだ。
要は愛と勇気である。
私はアンパンマンか。

2/26/2024, 12:11:02 PM

【君は今】

“君は今”となると、大概の人は特別な人を想像するであろう。
私は大して何でもない人の事を思ったりしている。

例えば、一緒のクラスになったが大して話すこともなかったあいつとか。
例えば、たまたま授業が一緒だったとなりのクラスのあの娘とか。
例えば、就活で偶然同じ企業を受け、その時なぜか面接後一緒に喫茶店でダベっていたあの人とか。
私にとって、人生においてどうでもいい人たちを思い浮かべることがあるのだ。
大概こういった人たちは私の事を微塵も覚えていないだろうが、別にそれは良いのだ。
私の記憶にいたという事実があるからである。
こう考えると、私は私自身が気持ちが悪い奴であるような気がしてならない。
人生において影響を与え得ることのない相手を覚えていることは、果たしてどんな意味があるのだろうか。


ふっと息をつき、椅子に座り込む。
何も考えずぼけ~っとしていると、時折過去の記憶が巡ってくる。
90年代のパソコンほど容量の少ない私の脳みそは、こんなに忘れても良い人の記憶を保存している。
私のキャッシュの削除の仕方は不明である。
データの削除方法も知らない。
無理やり削除しようとすると、身の回りの大事な記憶も忘れてしまいそうである。
なんと不器用な脳みそであろうか。

精密でなくともぼんやりと覚えている記憶。
私は今でも過去を生きているのだなと自らの未練がましさに嫌気が差す。
もう会わない人とは死人も同然なのだ。
わたしはもっと“今”の人に会いたいのだ。

まあそんな私にとってどうでもいい人たちであっても、今皆幸せでいてくれれば良いのである。
こんな未練ともおさらば!できるほど私の脳みその処理能力は高くないのである。
次のアップデートはいつだ?

2/25/2024, 12:01:57 PM

【物憂げな空】

いつになれば私は毎日楽しすぎるほどの人生を歩めるのであろう。
毎日が平凡であり、代わり映えのない日常は時に私の精神を疲労困憊へと導くのだ。

巷では充実した人生をなどと偉そうな講釈を垂れる広告は多い。
私だって充実した人生を送りたいのだ。
ささやかな幸せを毎日感じられなくさせているのはそちらのほうである。
ありもしない幸福を掲げ、他人の高貴な生活と一般人の生活を横並びにさせているのだ。

私は元来小さなことに幸せを感じる者である。
しかしそれでは物足りない。
私は欲張りでもあるのだ。困ったものである。
人は無い物ねだりをする。
可能であれば明日から働かず、毎日色々な場所へ行き、色々な人と出会い、色々な本や映画に触れ、色々な空の色をみたい。
生産され尽くした人生では、私は満たされなくなってきたのだ。
今の仕事は先が見えない。このままで良いのだろうか。
私本来の価値とは何か。
私が金を稼げなくなるとしたら、次にどんな人生が訪れるのだろうか。
なぜ私は金を稼がねばならぬのだろうか。
人として生きているからである。
私は資本主義社会の小さな歯車なのだ。
私は誰と競いあっているのだろうか。


連休最終日の夜はこれだから困る。
何の価値もない他人の人生観を自分に当てはめ、これだから私の人生は良くないと自己嫌悪に陥らせる。
空の色はピンク色などとふざけた事を言った子どもの頃の私は、今や空は青色などと至極つまらないことを言う大人へと成り果てた。

私の日常の空は物憂げであるが、時折日が差すことがある。
確かな予報などないが、私が歩んできた道は間違っているわけではないのだ。
空は平等で誰かの目からみればピンクにもなり、曇りは晴れとなる。
物憂げであろうが、空は空なのだ。
もしかしたらスーパーマン辺りが私を助けに来てくれるかもしれない。
では私もあり得ない未来を夢見て、明日を生きていけば良いのだろう。
楽しすぎる毎日にはほど遠いが、ちょっと楽しい毎日を感じていければ良い。
活発な空はそれはそれで下界の人間は大変であろう。
明日から少しは幸福を見つけてみようと頑張る私なのであった。終わり。

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