【今日にさよなら】
こんな諄い表現を使ったことがない。
さよならしなくとも今日は勝手に去っていくのであるから、挨拶は無用である。
別れ際でも「さよなら」などと私は言わない。
「じゃあね」とか「またね」が妥当であろう。
ともすると私は過去に未練があるのだろう。
「さよなら」は、相手に対する決別の意味合いを持っており、「じゃあね」とか「またね」は再開を前提にした挨拶である。
つまり「今日にじゃあね」とか「今日にまたね」というのは、やってこない今日という日の再開を願っているという、時間概念を考慮しない浅はかな言葉であるのだ。
「今日にさよなら」と言ったなら、明日には何と挨拶をすれば良いのか。
「明日におはよう」であろうか。
明日は正確には午前0時~であるから、朝日も昇っていないのにおはようは場違いである。
NHKでは午前4時頃から「おはよう」というようである。
ではそこまでの0時~4時までは何と挨拶をするのであろう。
まだ夜であるから「こんばんは」が妥当か。
だが私たちは始まりの挨拶を「おはよう」と考えなしに発している。
一日の始まりが「こんばんは」とは聞いて呆れるってもんである。
こんなときに使いやすい挨拶は「お疲れ様です」である。
社会人になると知らぬ間に毒されているこの言葉は再現性が非常に高い。
まだ疲れてもいないのにお疲れ様。
これから訪れる疲労を前提として「お疲れ様」と前もって挨拶をするのだ。
「明日にお疲れ様です」ということだ。
それならば「(陽が昇ってないけど)明日におはよう」でも扱いは同じではないか。
が、そう言ってしまえば私が考えたこの時間が無駄になるので、この結論は論外である。
こんな下らないことを考えながら、私は今日にさよならをするのである。
実に間抜けだ。お疲れ様である。
【お気に入り】
このフレーズを聞いた刹那、私は『オリビアを聴きながら』が頭から離れない。
『オリビアを聴きながら』を聴きながら書く。
お気に入りがあると得意になる。
「これ私のお気に入りなんだ」と言うとあら不思議、急に通ぶることができるのだ。
ジャンルに分けてお気に入りのラベルを貼る。
ただ増やせばいいってもんでもない。
抱えすぎるとそれは執着となるのだ。
時折断捨離をすることで、私のお気に入りは少数精鋭となる。
お気に入りが大して周りの目を惹いていない時、少々喜ばしい。
私にとってだけのお気に入りと思えるからである。占有感を感じずにはいられない。
街を歩くと現れるお気に入りの空間。
端から見ると何ともないのだが、私にとっては自然のバランスが妙妙しく、何とも言えない心地となる。
私の感情が動くとき。
それが何時なのか私にもわからない。
わからないからこそ、お気に入りに出逢うことができた喜びは大きいのだ。
お気に入りだけの世界ならばなと常日頃思う。
このような無駄なストレスを抱え、虚しく過ごす夜が幾重も訪れることを何とか乗り越えられるからだ。
誰かと出逢いお気に入りのラベルを貼ったとしても、その相手からストレスを感じてしまうこともある。
人と付き合っていく上での障害であり、避けては通れない道なのだ。
どうしていくか私が考え、私が決めていかねばならないのだ。
「出逢った頃はこんな日が来るとは思わずにいた。」
おっと、『オリビアを聴きながら』の最後のサビが侵食してきたようだ。失礼。
【誰よりも】
私は誰よりも自己開示が苦手である。
MBITとかエニアグラムとかやるのだが、大概自己開示が苦手と指摘される。
生年月日でやるやつなんかも指摘される。
ここまでくると運命めいたものを感じる。
最近では人との会話が面倒となり、自己開示云々でなくなってきているのは危険信号である。
思えば、私が好きなものを親に伝えることができたのも高校でやっとであった。
自己開示はいわば自身の弱みを提示することであり、全裸で相手と会話するようなものである。
寸胴な私の裸を見せたところで、である。
元来秘密主義である私は、全視線から逃れる必要があるのだ。
私を知りたいなら頑張って私と仲良くなれといった具合である。
こんな傲慢さは、次第に自己開示が得意な人たちを羨ましく思うようになってしまうのだ。
なぜここまで自己開示ができないのか。
私は人と仲良くなりたくないのではないか。
いや、そもそも他人は他人に興味など持たないのではないか。
そんな相手に自己開示する必要があるのか。
私はこう感じるのだろうな。これが思考の癖ってやつである。
もっとフラットに考えるのならば、私が相手を舐めており、私のことを教えたくないと深層で考えているのであろう。最低なやつである。
もちろん自己開示をする人は選ぶ。
誰これ構わず自己開示をするのは、そういう特性を持った人間かただの変態かである。
私はただ自己開示が苦手なだけで、距離を置いているわけではなく、本当に苦手でできないのだ。
私がこんな話をしても…と何度も頭を過り、どう思われるかを死ぬほど気にしているのだ。
実際発言すればどうってことはないのだが、そこに至る過程を考えすぎているのだ。
じゃあ考えなければ良いと思ったそこのあなた。
それはできない。私は考えすぎる性格なのだ。
残念ながら私の長所であり短所である。
私はこの場でこうして自己開示をしている。
他のところではできないし、ここでは誰も何も言えないからこそ価値があると思っている。
文章にするとできるんだがな。
相手がいるとわかると途端にできなくなるのだ。
つまり何も考えずにアホみたいに話すやつが最強ということである。
あぁ、やっぱり私は人を舐めてるな。
【10年後の私から届いた手紙】
自分宛に手紙など書くのか。
私はこれまでの人生で、自分に手紙を書いたことはない。
ここで一通。17歳のときの私へ10年後の私より。
私へ。
平凡で慎ましやかな学生生活を送っていますか。
華の17歳で日々楽しいことばかりですか。
勉強、生徒会、進路、恋愛、友だち、家族。
どれも悩んでいませんか。
今のあなたも自分のこれからを悩んでいるでしょう。
これからやりたいことをもっと見つけていきたくない?
今の私はもっとやりたいことを見つけたい。
本当の自分をいまだに見つけられなくて苦しい。
尊敬する人のように、私のことも周りのことも大切にしたい。
あなたはもっとあなたを大切に。
たまには自分のことを褒めてあげてほしい。
考えすぎるあなたは、周りの目を気にして苦しい思いをしていないですか。
親の意向通りに生きていかなくてはいけないと思っていないですか。
あなたのことを本当にわかってくれている人がいなくて苦しくないですか。
死んでも誰も悲しまないだろうと思っていませんか。
元気を出してとは言わない。
私のことはこれでもわかっているから。
難しいと思うけど、もっと自分や人のことを信じてあげてほしい。
可能性を留めないでほしい。
あなたがあなたを信頼すればなんとかなるので。
ではまた。
こんな手紙をもらったら過去の私は嬉しいのであろうか。
「え、全然そんなこと思ってないんですけど。笑」「これほんとに私が書いた?いたずらでしょ。」などと言いそうであるが、これが今の私である。
次の10年後に私から届く手紙は、ニューヨーク辺りから高額な小切手が同封されているであろう。
夢は大きい方がいいのだ。
私だって幸せになる権利ぐらいはあろう。
あの時の苦しみを笑えるぐらいでなければ、私は私でいられないのだ。
【バレンタイン】
この時期のチョココーナーは面白い。
主婦、学生、会社員、おばあちゃんなど、あらゆる女性が悩みながらチョコを選んでいる。
この時期にしかみないチョコ製造メーカーであるが、こんなにあるんだなと驚く。
フランスやドイツなどの国名が出るほど、すごいんだろうかと思わざるを得ない。
貰われた人はそんなこと気にも留めないのだろうだろうが。
バレンタインはいつから始まったのだろうか。
女性が男性にチョコを渡す。
企業絡みとしか思えないが、このイベントは今では学生を中心に喜ばしい結果をもたらしている。
悲鳴をあげる人も多いだろうが、私は純粋にこのイベントを楽しんでいる。
あげる人も貰う人もニヤニヤしている。
女子同士であげあったり、家族でチョコを食べたり。
さも気にしてませんよ、と強がっているあいつはきっと誰からも貰えないのだ。
チョコを渡すなんて変なイベントである。
相手に気持ちを伝えるという名目だが、気持ちはいつでも伝えられるであろう。
その口火を切るのがこのイベントなのだ。
誰かのためにチョコを買って(作って)渡すってのが粋なのだ。
この瞬間の感情は、次のバレンタインまで続くはずはないのだから今渡しておくべきだ。
それに比べてホワイトデーの取って付けた感は何なのだろうか。
3月の何がホワイトなのか。う~む不思議である。