「泣かないよ」
あからさまな同級生からのイジメ。主犯はクラスの学級委員長だろう。それにしても相変わらず馬鹿みたいだ。典型的なイジメすぎる。先生に見つかったらどうなるかとか考えてないのだろうか。
朝学校に行くと机の中が画鋲まみれだったり、テストの答案を書き換えられてたり...
もっと上手くできないのかと考えながら、証拠を残しておこうといつも通りスマホで写真を撮る。こんなのももう慣れっこだと自分の心に言い聞かせる。そうしないと心が辛いから。自分は人に虐められやすい性質なのだろう。小、中とずっといじめられ続けてきた。
誰しも先生に相談すればいいと思うだろう。だが、それは出来ない。なぜなら、学級委員長は先生の“お気に入り”だからだ。だから、私は何も出来ない。ただただ目の前のことが現実だと受け入れることしか出来ない。
今日はゴミ当番を代われと言われた。いつもよりはマシだ。掃除が終わり、ゴミ捨て場へ向かう。そうすると、そこには学級委員長とその取り巻きがいた。こういう人達は1人で行動できない。可哀想な人たち。すると、学級委員長が話しかけてきた。
「ねえ、相変わらず汚いね〜」
「ほんとに、近くにいると汚れるからやめてほし〜」
「ほら、ゴミ以下。ゴミと一緒にこれも捨ててやるよ」
それは、母の形見だった。
母は元々身体が弱くてあまり外に出れない人だった。お淑やかで、お上品な人だった。そんな母が私は世界で一番大好きだった。母は亡くなる直前にあるものを私に渡した。
「私が死んでから開けなさい。」
という遺言を残して。
お葬式も終わり、母から貰ったものを開けた。それは、私の中学入学祝いのシャーペンだった。私の名前も入っていて、とても思い入れのあるものだ。
そのシャーペンが今捨てられようとしている。
「それは、、、やめて。」
「は?あんたに拒否権なんてないんだけど笑」
「なんで、そんなことするの?楽しい?」
「あんたには関係ないでしょ」
「関係ある。私は被害者、あなたは加害者。」
「だから何?別にいじめる理由なんでどうでも良くない?ただの暇つぶしだよ」
「ただの暇つぶしにそんなに時間かけられるんだ。凄いね。」
「あんたバカにしてるでしょ」
バカにしてるに決まってる。なんであなた達みたいな脳みそ空っぽな人に自分の時間を割かなくてはならないのだろう。
「あ〜もう頭にきた!このシャーペン捨ててやる。」
反論したい気持ちを抑えた。
「おい、泣けよブス」
取り巻きの1人が言った。1人が言うと他の人間も口々に言い始める。
「私は、、、泣かないよ。泣いたら負けだと思うから。」
自分にしては頑張ったと思う。
「あっそ。じゃあね、シャーペン。」
そう言って学級委員長はシャーペンを足で粉々してその場から立ち去った。
言葉にならない怒りと悲しみが押し寄せてくる。今まで思ったことの無いような感情だ。
泣いたら負け、泣いたら負け、、、と言い聞かせる。
、、、ガサガサ、、、
え、誰かいる?
そう思って周りを見渡すと、そこには悲しそうな顔をした父の姿があった。そういえば、今日は先生と父の2者面談だった。少し沈黙の時間が流れた。沈黙を破ったのは父の言葉だった。
「大丈夫か、、、?」
「うん」
「そうか」
「うん」
会話が止まってしまった。父も、これ以上話しかける言葉がなかったんだろう。
「帰るか。」
「うん」
帰り道。再び沈黙が訪れる。
......
「お父さんが言えることでもないんだけどさ、」
「うん」
「泣いたら負けでは無いと思うよ」
「うん」
「泣いてもいいんだ、お父さんもお前と同じ状況なら、ああ言うと思う。でも、お父さんとお前の違いは、お父さんは弱い事だ。俺は弱い。こんなこと言ってるけど、未だにお母さんのことを引きずっている。たぶん一生乗り越えられないんだろうな。でも、お前は違う。お母さんを思い出として心にしまって未来へと踏み出している。お前は負け組でも、弱くもない。お前は強いんだよ」
「うん、、、」
「だから、あんな奴ら気にするな。前を向け。泣きたい時に泣いて、笑いたい時に笑え。それが、強い人だ」
「う、、、グス、ん」
その日、私は今までで1番感情を出して泣いたと思う。でも、心は晴れた。
もう、どんな事があっても怖くない。泣かないよ。
次に泣くのは、たぶん、きっと、合格発表の日。
終わり
「怖がり」
私は怖がりだ。
臆病で、何かをするのが怖くて、人に笑われるのが怖くて、結局何も出来ないような人間だ。街で普通に歩いていても、視線を感じたような錯覚に陥る。授業中でも、周りの空気を読みすぎて自分の意見が言えず流されてしまうことがある。自意識過剰かもしれないが、やはり怖いものには変わりない。
でも、怖がりは悪い事だとは思わない。怖がりは、自己防衛をするために大切な精神だと思う。怖いということは警戒心を抱いているということだ。警戒心が強いと周りの目を気にしやすいかもしれない。でもその分だけ周りをよく見て観察しているとも言えると考える。
これはあくまで私の予測の話だが、怖いという感情を持っている人がいたからこそ、人類は今現在も生きていることができるのではないか。もし、怖いという感情がこの世になければ、哺乳類はとうの昔に絶滅していたかもしれない。少し想像してみて欲しい。今、自分は原始時代の人間だとする。原始時代だとまだマンモスも生息していただろう。マンモスに対して「怖い」という感情を持たないとどのようなことが起きると考えられるだろう。具体的に以下のことが考えられる。
case1.マンモスを安易な考えで狩る人が増加し、死傷者が出ることになる
case2.マンモスの肉を適当に食べたことによるウイルス、感染症の危険性
など、他にも考えれば出てくることは沢山ある。そんな危険が日常に潜んでいる原始時代の人間はどのようにして生き延びて今現在の私たちまで繋がっているのだろう。答えは明白だ。
マンモスを単純に「怖い」と思う人がいたからだ。「怖い」という気持ちの大きさは人それぞれだから、少しだけ怖いけど、立ち向かえるという人もいたと思う。ただ、その中でも「怖い」という気持ちの大きさが強い怖がりの存在があったからこそ、どんな人でもある程度の警戒心を抱いてマンモスの狩りに臨んだのだと考える。しかし、これまでの文章はあくまで自論であるため、合っているとか、間違っているとか、そんなことは分からない。あくまで私の空想上の話だからだ。こんな保険をかけるのも、誰かに批判されるのが怖いから。自分の心を守るための怖がりな人間だからだ。
どんな言葉にも、表と裏が存在する。悪く言えば自分も怖がり、臆病者の人間だ。しかし、見方を変えてみると、自分は警戒心が強く、人を見る目があると言えるかもしれない。悪い意味だけを捉えてしまうとどうしても気持ちが暗くなってしまいがちだ。どんなことも見方を変えて、自分にとってプラスの意味で捉えるとこで人生は豊かになって行くと思う。