「怖がり」
私は怖がりだ。
臆病で、何かをするのが怖くて、人に笑われるのが怖くて、結局何も出来ないような人間だ。街で普通に歩いていても、視線を感じたような錯覚に陥る。授業中でも、周りの空気を読みすぎて自分の意見が言えず流されてしまうことがある。自意識過剰かもしれないが、やはり怖いものには変わりない。
でも、怖がりは悪い事だとは思わない。怖がりは、自己防衛をするために大切な精神だと思う。怖いということは警戒心を抱いているということだ。警戒心が強いと周りの目を気にしやすいかもしれない。でもその分だけ周りをよく見て観察しているとも言えると考える。
これはあくまで私の予測の話だが、怖いという感情を持っている人がいたからこそ、人類は今現在も生きていることができるのではないか。もし、怖いという感情がこの世になければ、哺乳類はとうの昔に絶滅していたかもしれない。少し想像してみて欲しい。今、自分は原始時代の人間だとする。原始時代だとまだマンモスも生息していただろう。マンモスに対して「怖い」という感情を持たないとどのようなことが起きると考えられるだろう。具体的に以下のことが考えられる。
case1.マンモスを安易な考えで狩る人が増加し、死傷者が出ることになる
case2.マンモスの肉を適当に食べたことによるウイルス、感染症の危険性
など、他にも考えれば出てくることは沢山ある。そんな危険が日常に潜んでいる原始時代の人間はどのようにして生き延びて今現在の私たちまで繋がっているのだろう。答えは明白だ。
マンモスを単純に「怖い」と思う人がいたからだ。「怖い」という気持ちの大きさは人それぞれだから、少しだけ怖いけど、立ち向かえるという人もいたと思う。ただ、その中でも「怖い」という気持ちの大きさが強い怖がりの存在があったからこそ、どんな人でもある程度の警戒心を抱いてマンモスの狩りに臨んだのだと考える。しかし、これまでの文章はあくまで自論であるため、合っているとか、間違っているとか、そんなことは分からない。あくまで私の空想上の話だからだ。こんな保険をかけるのも、誰かに批判されるのが怖いから。自分の心を守るための怖がりな人間だからだ。
どんな言葉にも、表と裏が存在する。悪く言えば自分も怖がり、臆病者の人間だ。しかし、見方を変えてみると、自分は警戒心が強く、人を見る目があると言えるかもしれない。悪い意味だけを捉えてしまうとどうしても気持ちが暗くなってしまいがちだ。どんなことも見方を変えて、自分にとってプラスの意味で捉えるとこで人生は豊かになって行くと思う。