私はよく近所を300円だけ握りしめてスマホも持たずに1人で散歩する。ただし、土地勘のないものだからすぐに迷子になる。でも、300円あれば母上に連絡できたり、美味しいものが食べられたり、なにか良いものと巡り会えるかもしれないと思い、いつもほっつき歩いている。
旅路の果てにたどり着くのはやっぱり家だから、家のすぐ横にあるコンビニで300円の残りを使い肉まんやコロッケを食べる。「旅路の果て」というテーマを見たとき、壮大だな!と思ったが、やはり私の体力で行けるのは近所だから、旅路の果てにたどり着くのは、とっても近いところにしかつかない。でも、ホットスナックはとっても美味しい。
私はコンビニのホットスナックは世界中の人に自信を持っておすすめできる。レジ横をつくってくれた人、私の散歩を、旅路の果てを色鮮やかで美味しくて、幸せなものにしてくれてありがとう。
あなたは、大会の大事なときに下手くそな私のことを助けてくれたり、失敗しても挽回してくれたり。試合中も緊張をほぐそうとしてくれたり。育ってきた環境も何もかもが違って、共通の話題よりも新しい発見のほうが、あなたの会話では多くて新鮮だった。大会のときに組んだ凸凹コンビだったけど私はとても楽しかった。唯一の共通点は、あの固いグミが好きなこと。私は、最後の大会のときにグミを渡そうと思ってあなたの分買っていったの、グミも感謝の気持ちも届けられなかった。終わったら、マックで打ち上げようって話てたのに、あなたらしく、いつの間にか帰ってしまっていた。もう会うことはないかもしれないけど、また会うことがあったらあなたにグミも感謝の気持ちも届けたい。
I Love...と見た時、「I Love You」より先に、
「I Love Chocolate」などが出てくるまでひねくれてしまったという現実を知ってしまった。私にも「I LoveYou」が1番に出てくる時期があったことは確かなのに!!
気付けば、幼稚園の頃憧れた2つ上の唯一仮面ライダーが嫌いと公言していた男の子以来、好きだと一途に伝えたことなんてなかったかもしれない。私は日々常々、結婚したいなどと言ったり、理想の結婚式について友達とお話ししたりているが、結婚だなんて夢の夢なのかもしれない。何より私は、男子よりも女子に大切にしてもらえる方だったようで中学校3年間、異性で1番たくさん話したのは、修学旅行でバスの席がお隣だった子か、半年間委員会で一緒だった子かまたは部活の後輩の3択だと思う。こんなさみしい現実だったとは。自分で書いていて虚しくなってくる。こんなふうに淡々と書いてきたが、華の高校生になったら絶対彼氏作って、バカにしてきた後輩を見返してやりたいと思う。
今はまだ、「I Love...」を見たらいつもバカ話したり、ワイワイしたりする友達を「...」の中に入れたくなる私である。
私は遊びに行く時、よく街に繰り出す。
街に行きだしたのは、中学生になってからだろうか。駅前の祭りにソワソワしながら夜遊び気分で初めて参加したのはいつからだろうか。初めて校則を破ってカラオケに行ったのは、?良いのか悪いのかわからないけど、だんだん大人になってきている気がする。
中でも、最近はカラオケに初めて友達と行って感銘を受けた。まずは、ドギマギしながら予約する。盛り上がる用のペンライトを用意する。そして、キョロキョロしながら、カラオケの中に駆け込む。誰が最初に歌うかじゃんけんするとか、全部の行動が新鮮でワクワクした。やっぱり、友達の前で歌うのはとっても照れて仕方なかったけど、練習してきたのが功を奏したかもしれない。しかし私の練習してきたのは、「恋するフォーチュンクッキー」や「学園天国」など少し時代が過ぎているものだったようだ。ここで私は気づいた。私は時代においていかれてしまってしまっていたことを。
優しさを擬人化したのがこの私だと思う。
私は、多分優しい。ただ、この優しさは多分誰にも気づかれていないと思う。さりげなく道を開けたり、会話に入れてあげたり、友達を仲直りさせてあげたり。
私の優しさを全部表に出せば、ノーベル賞も夢でない。
今までは、優しさという言葉を使ってみたけれど、優柔不断だったり八方美人だったりするだけなのかもしれない。優柔不断も八方美人も良くないとは言うけれど、そのような人がいるから世界は回っていると私は思う!
しかし、こんな偉ぶったことをこれまで書いてはみたものの、私の優しさに溢れた行動の25%はありがた迷惑や、おせっかいという部類になってしまっている気もする。。