『静寂に包まれた部屋』
目が覚めると、そこは白い部屋だった。
机があり、ベッドがあり、ちゃんと外に出られるドアがある。
壁と床が真っ白なだけで、内装も家具も、何の変哲もないないものだった。
____音がない。その点以外は、普通の部屋だ。
歩いても、壁を叩いても、叫んでも、音が出ない。その部屋全体が、音というものを切り取って隔絶された空間だった。
ここがどこかはわからなかったが、なにせ鍵がかかっていないので、普通にドアから外に出られた。
開けた先は家の近くの麦畑で、振り返るとそこにはすでに何もない。
ほんの1分にも満たない、不思議な部屋の体験だった。
だがあの静寂の部屋を出ても、辺りの麦畑に人はいない。
弱い風がさわさわと麦穂を揺らしているが、聴覚への刺激はまったくこない。
____昔、おじい様から聞いた話。
「静寂の部屋」は、静寂に包まれた場所にのみ、なんの予兆もなく現れる。
何も起こらないが、人の心を安らげる……不思議な部屋。
たしかにそこは、本当に何も起こらなかった。
『別れ際に』
飛行機が飛んで行く。
ずっと目で追っていたそれは、機体が水平になる頃にはすでに大きな雲の向こうへと消えてしまった。
38A
たしかチケットにはそう書いてあった。窓側の席だ。
なら、あの子にもちゃんと見えているのだろう。私たちの視界を隔ててしまった、この憎ましい白い雲が。
「ねぇ、今度________。」
別れ際、あの子はそう言った。
…………残酷だ。
「今度」がないかもしれないことを、……きっと誰も、あの子に知らせていないんだろう。
『通り雨』
たった2分の通り雨。
それだけでも、すべてをもっていくにはじゅうぶんだ。
今日のために買ったブラウス。
黒のハイヒール。
ゆるく巻いてアップにした髪。
春に合わせた淡いメイク。
ぜんぶ崩れた。
濡れて、泥がはねて、巻きは取れて、顔もぐちゃぐちゃ。
沖縄の雨は突然なもので、激しく降ったかと思ったら、数分後には、雨上がりの輝かしい空が広がっている。
まるで、この綺麗な虹のためにさっきの雨は降ったんだというように……嘘のようによく晴れる。
その雨で崩れてしまったものに、空は寄り添ってくれない。
久しぶりに、1人で気兼ねなく出かけられると思っていたのに。
もういいや。
…………………………………………帰ろう。
『秋🍁』
春は恋の季節だと言うけれど、私にとっては秋こそが恋の季節。
私が求めているのは、桜のような淡い桃色ではなくて。暖かくて穏やかな空気でもなくて。
美しいけどちょっとドライな、涼しくて心地いい、さっぱりとした秋のような……そんな恋。
甘い空気は、私にはいらないから。
だから、この心地のいい関係のままで……できるなら、ずっと。
『声が聞こえる』
夜の砂浜。
潮風とさざ波の音だけが耳を掠める。
何の目的もなく、ただ一人で砂浜を歩いていた。
そのとき、声が聞こえた。
少し離れた崖の上。一人の少女が立っている。童謡のようなリズムで、素朴な声が言葉を紡ぐ。
歌詞はたぶん、英語だと思う。
儚げで、決して大きな声ではないけれど、下にいる私にもよく聞こえた。
少女は自らの腹部に手を当てて、時々撫でているように見えた。歌うときの癖なのかもしれない。
少し叩けば壊れそうな歌声だった。泡沫のようだ。
綺麗なのに、とても痛々しい。
彼女の見えないところに、まだかさぶたができていないジクジクした傷があるような気がした。
____あの子の傷を、潮風が刺激しませんように。
てきとうに歩いていたこの砂浜でも、ふと聞こえてきた声の先にも、きっとこんなふうに、物語が広がっているんだろう。
それは楽しい話かもしれないし、悲しい話かもしれない。
でも、声が聞こえるだけで、その先を思い描けるなら。それはきっと、本や映画よりもよほどリアルなノンフィクションになると思う。
それが見えるなら、こういうてきとうな散歩も悪くないかもしれない。