「鍵はこの家のどこかにあるよ。頑張って探してね」
そう言って笑いながら消えた彼女を思い出し、何度目かの溜息を吐く。
探し始めて何時間が経過したのだろうか。広い屋敷の中から、小さな鍵を見つける。途方もない行為に無理だと察してはいたが、やはり手がかりひとつ見つからない。
近くの椅子に腰掛け、眉間に刻んだ皺を伸ばす。
もう、諦めてしまおうか。
何度も込み上げた気持ちを、何度も同じように否定する。
諦める訳にはいかない。
鍵がなくとも、生きることに支障はない。だが鍵がなくては生きる意味がないのだから。
その懐中時計は壊れていた。
ガラスはひび割れ、黒の針は沈黙を続けている。耳を澄ませても、僅かにも音は聞こえない。
「どうして、壊れた時計を持っているの?」
幼子の問いかけに、青年は微笑み答えた。
「いつか、必要になる時が来るからだよ」
首を傾げる幼子の頭を優しく撫でながら、時を止めた懐中時計に視線を落とす。
「僕の時間を必要とする誰かが現れた時、時計はまた動いてくれるんだ」
穏やかに、残酷に。
青年は幼子に向けて語る。
その微笑みは慈しみに満ちて、幼子の目には何故か泣いているように見えていた。
ぽとりと紅の花が落ちた。
美しかった花は落ちた瞬間に腐り、褪せた花びらを地面に散らしていく。
酷く醜い。咲き誇っていた花を愛でていたことも忘れて、顔を顰めた。
目を逸らして、咲き始めの花に視線を向ける。
これから美しく咲くであろう花。だがやがては地に落ちて、腐っていくのだろう。
また一つ花が落ちる。
咄嗟に手を伸ばした。手の中で花びらを散らすが、腐る様子はない。
地に視線を落としても、そこに落ちた花は一輪もなかった。
「どうして」
何故かそれが悲しくて、寂しくて、胸が苦しくなる。
思わず膝をつきかけた瞬間。
「何してんだ?」
訝しげな声と、肩に触れた熱。
感じた苦しさなど千々に消え、気づけば道の真ん中で立ち尽くしていた。
手を繋いで歩いていく。
ここがどこなのか、どこにいくのかは分からない。
ただ繋ぐ手の熱が、自分にとっての唯一で、すへてだった。
目を覚ます。
まだ薄暗い部屋の天井をぼんやりと見つめながら、低く息を吐いた。
夢を見ていた。
一本道を、手を引かれながら只管に歩いている夢。
辺りは暗く、手を引く誰かの姿すら見えない。覚えているのは、引かれている手の熱くらいなものだ。
繋がれていた手を上げ、目の前に翳す。
今は繋がれていない手。だが夢の中では、確かに繋いでいた。
もう一度息を吐いて、手を下ろす。
変な時間に目が覚めてしまったせいで、夢と現実との区別がはっきりとしないのだろう。
そう結論付けて、目を閉じる。
もう一度夢に落ちていく刹那、するりと誰かに手を繋がれた感覚がした。
霧が深い朝だった。
数歩先の景色すら曖昧に溶けて、どこまでが道で、どこからが空なのかも分からない。
それでも歩かなければ、と胸の奥で何かが囁く。
昨日までのことなら分かる。
今日すべきことも知っている。
けれど、この先だけはどうしても見えない。目を凝らしても、耳を澄ましても、未来の気配はまったく掴めなかった。
「……どうなるんだろうね、これから」
独りごとが霧に滲む。
怖くもある。でも、その怖さの奥に、微かに灯る熱のようなものがあった。
誰の声でもない、自分の底に沈んでいた小さな願い。
――見えない未来へ、行きたい。
足を一歩、霧へと進めた。
音もなく、景色がほどける。
けれど不思議と、背中を押す手の温度だけははっきり感じられた。