そっと風が吹き抜けた。
顔を上げて空を睨む。落ち葉を舞上げ去っていく風を、ただ目で追いかけた。
「馬鹿」
そっと呟く声は、誰にも届くことはない。
祈りも希望も、風はすり抜け掻き消していく。
軽く頭を振って視線を戻し、歩き出す。
吹き抜ける風に、もう足は止めない。前だけを見据え、進んでいく。
頬を冷たい何かが伝い落ちるのは、気のせいなんだと言い聞かせた。
ランタンを手に、暗い夜道を歩いていく。
中の炎は時折揺らめくが、決して消える事はない。消えればいいのにと思いながらも、無言で社まで進み続ける。
この古ぼけたランタンは、人の記憶を糧に光を灯すらしい。そしてその炎は、社に納めることでなかったことにもできると言い伝えられてきた。
そんなことはただの迷信だ。そう思いながらも、興味本位で友人たちと試している。
小さく息を吐いた。友人は皆、学校や家での些細な記憶を糧に火を灯し。社に納めてないことにしてしまった。最後は自分だ。
皆と同じようにランタンを灯し、社へと向かう。灯りの糧に選んだのは、自分の中で一番古い記憶だった。
炎が揺らぐ。
友人たちと違い古い記憶のためか、炎の色は赤よりも黄に近い色をしていた。大きく揺らめく度に、周囲の影も大きく揺らぐ。影がまるで社に向かうことを咎めているように見えて、視界に入れないように必死に前だけを向き続けた。
まだ迷いがあるからそう見えるのだろう。ゆっくりと忘れていくのではなく、最初からなかったことにしようとしているのだから。
ランタンの炎を見つめ、そしてランタンを手にしていない方の手に視線を向ける。
一番古い記憶の中で、繋がれ引かれていた手。誰と繋がれていたのかは、もう覚えていない。
顔も、声も分からない誰か。唯一、大きくて硬い手の熱だけが、朧気な記憶に深く刻まれていた。
炎が揺らめく。
ふと目の前に、小さな影が浮かんで消えた。幼い頃の自分の影。立ち止まり、ランタンの中の炎に視線を向ければ、手を繋いだ幼い自分が嬉しそうに笑っている姿が揺れていた。
社に納める記憶の断片。手を繋ぐ誰かを見て笑う幼い自分は、今こうしてなかったことにされるなど考えもしないのだろう。
目を細め、視線を逸らす。ランタンを下ろし、唇を噛みしめ歩き出した。
どれだけ歩いただろうか。
いつまでも変わらない景色に戸惑い、足を止めた。
辺りを見渡す。ランタンを翳しても、道の先は暗く沈んで見えなかった。
ランタンの中の炎は、変わらず静かに揺らめいている。炎に浮かぶ幼い自分の笑顔も変わらない。
何が起こっているのだろう。先に社に記憶を納めた友人たちは、皆異変を口にはしなかった。
自分だけが違う。ランタンの糧にした記憶も、今のこの異変も、自分だけが。
炎が揺れ、小さな影が浮かび上がる。手を繋いだ誰かを見つめている状態で、固まっている。
まるで影絵のよう。一歩近づいても、影が消える様子はない。
もう一歩足を踏み出し、違和感に気づいた。影との距離が縮まっていない。足下に視線を落とし、さらに困惑に眉を寄せた。
ランタンの灯りに浮かぶ自分の影が、やけに濃く感じられる。周囲の影や目の前の記憶の影よりも黒く濃く、足下に張り付いていた。
息を呑んだ。影を認識した途端に、体が硬直する。まるで影に縫い止められているかのように、足が動かせない。
「っ、なんで……!」
恐怖に肌が粟立つ。どこまで行っても変わらない景色。動かない体。ランタンの炎の中の、幼い自分の記憶。
目の前の幼い自分の影が、繋いでいた手を離していく。ゆっくりとこちらを振り返る気配に、咄嗟に目を閉じた。
「――え?」
ランタンを持っているのとは逆の手に、誰かの熱が触れた。
驚いて目を開けるが、辺りには誰の姿も見えない。目の前にいたはずの、影の姿も消えていた。
手に視線を向ける。誰とも繋いでいない自分の手。それなのに、確かに温もりが感じられる。
ランタンの炎が揺れる。灯りに影が揺れて、ほんの一瞬誰かの影が浮かんだ気がした。
あぁ、と声が漏れる。その影を、自分は確かに知っていた。
一番古い記憶の中の誰か。胸が苦しくて、息が詰まる。
唇を噛みしめ俯くが、込み上げる涙を止めることはできなかった。
「ごめんなさい」
泣きながら、只管に謝り続ける。誰に向けてなのかは、自分でも分からない。
手を繋ぐ誰かなのか。過去の自分になのか。あるいは両方なのもかもしれない。
ランタンの中の記憶。なかったことのしたかったものは、手を繋いだ思い出でも、繋いでいた誰かの存在でもない。
無邪気に笑っている、あの頃の自分自身なのだから。
炎が揺らぐ。
幼い自分の影が浮かび、ランタンに手を伸ばした。そっと触れれば、炎は一度大きく揺らいで音もなく消えた。
途端に脳裏に浮かぶのは、静かな銀杏並木。大きな手と手を繋いで、銀杏の葉で黄色に染まる道を二人歩いていく。
繋ぐ手の熱が記憶の中のそれと重なり、耐えきれず膝をついて声を上げてただ泣いた。
見えない手が頭に触れる。優しく撫でられ、そのまま体を包み込むように誰かの体温を感じた。
幼い頃、すぐに泣く自分を慰めるため、こうして抱き締められながら頭を撫でられていたことを思い出す。忘れてしまった誰かとの記憶。褪せて霞んで分からなくなっていた誰かの輪郭が、ゆっくりと明確になっていく。
不意に、ランタンに再び灯りが灯った。涙で濡れた目を擦り、ランタンを目の前に翳す。
炎の中で揺らいでいるのは、自分と友人たちだ。一人がランタンを掲げて、興奮気味に何かを話している姿が見える。
ぼんやりとそれを眺めていれば、温もりが離れていく。繋いだ手を軽く引かれ視線を向ければ、うっすらと誰かの大きな影が揺れていた。
もう一度手を引かれ、頷いて立ち上がる。ランタンを翳し、社に向けて足を踏み出した。
手を繋いで歩いて行く。この記憶を社に納めたのならば、誰の記憶もなかったことにはならない。ランタンの存在すらなかったことになるのかもしれない。
けれどきっと、それが正しいのだろう。
ランタンが照らす道の先に社が見えた。繋いだ手に僅かに力を込めて、社の元へと進んでいく。
そっと繋いだ手の先を見た。記憶の中でさえ霞んで見えなかったはずの誰か。
大きな硬い手。優しい温もり。
穏やかな目をして微笑む、本当の父と目が合った。
20251118 『記憶のランタン』
かたんかたん、と列車が揺れる。
窓から見える景色は、うっすらと雪の白が混じっていた。
「寒くないか?」
問われて首を振る。
「全然。コタツ、あったかいもの」
そう笑えば、彼も淡く微笑んでくれる。
暖かい。外は冬に向けて季節が移っていくのに、列車の中は少し暑いくらいだ。
ふと思い立って、彼の肩に凭れてみる。驚いたように小さく息を呑んだ彼は、けれど次の瞬間には目を細めて笑った。
「どうした?」
「なんでもない。コタツ列車って初めて乗ったけど、なんかいいなぁって」
「気に入ってもらえてよかった」
頭を撫でられて、心地良さに段々と眠くなってくる。
冬も悪くない。
堂々と触れ合える季節に向かう列車の中、一人幸せに笑っていた。
「おひとつどうだい?」
不意に向かいに誰かが座る気配がして、目の前に手が差し出された。
その手に乗っているのは、一個のみかん。柑橘系の爽やかな香りに、微睡み出していた意識が戻ってくる。
「あ、ありがとうございます」
お礼を言って、みかんを受け取る。差し出した誰かに視線を向ければ、白髪の女性が穏やかに笑った。
「ようやく、くっついた祝いさ。嬢ちゃんの側にいるために努力を惜しまないっていうのに、いつまで経っても何も言わないんだ。あげくに振られたと言って戻ったかと思えば、機嫌は悪くて運転は荒れてたからねぇ」
態とらしく溜息を吐いてみせながら、それでも女性は笑っている。気になって彼を横目で見るも、表情を変えることなく黙々とみかんの皮を剥いていた。
「知ってるかい?こたつはねぇ、いつもは小雪《しょうせつ》の駅を過ぎないと出さなかったんだよ。それが寒露《かんろ》の駅を過ぎたら出してくるんだから、本当に大事にされているんだね」
楽しそうに言われて、思わず頬が熱くなる。
みかんを剥き終わったらしい彼は、手に乗せたままのみかんと交換して、また黙々とみかんの皮を剥き始めた。
その表情は変わらないけれど、よく見ると彼の耳が赤くなっている。それに気づいた瞬間に、益々頬が熱くなった。
「おやおやこれは……邪魔者は退散した方がよさそうだ。それじゃあね、お嬢ちゃん。頑張るんだよ」
彼から視線を逸らし手の中のみかんを見ていれば、女性は席を立ち去って行く。
何を頑張ればいいのだろう。
落ち着かず、みかんを見ながら考えてみる。けれど何も思いつかなくて、小さく息を吐いた。
「みかんは嫌いか?」
静かに問われて、首を振る。
「何を頑張ればいいのかなって」
「あまり気にするな。この列車の乗客は、おせっかいな奴らが殆どなんだ」
彼も同じように息を吐いて、剥き終わったみかんをもう一つ手の上に置いた。
食べないのだろうか。視線を向ければ、彼は白の手袋を嵌め帽子を被り、席を立つ所だった。
気づけば列車の速度が落ちている。もうすぐ次の駅に着くのだろう。
「次の駅は立冬だ。少し長く停まることになる」
車掌として駅に降りて仕事をしなければいけない彼に頷いて笑ってみせる。
「行ってらっしゃい。お仕事頑張ってね」
待つことは嫌いじゃない。窓から見える景色も、働く彼の姿も、見ているだけで心を躍らせる。
そんな気持ちを込めて伝えれば、彼は帽子を深くかぶりドアの側へと歩いていった。
かたん、かたん、と列車が速度を落とし、駅に停まる。
がたがたと、乗客が立ち上がる気配がして、ドアが開くのと同時にたくさんの客が駅へと降り立つ。その中に先ほどの女性がいて、目が合うと微笑んで手を振ってくれた。
それに会釈を返して、みかんを一房取り口に入れる。甘く爽やかな味に、口元が綻んだ。
窓の外では、彼が忙しそうに動き回っている。彼の言うとおり、この駅は乗客の出入りが多いらしい。
「ここは冬の始まりだからね」
声が聞こえて視線を向ける。
列車に乗る時に別れた彼女が、向かいの席に座って笑っていた。
「先輩」
「久しぶり。まあ、正しくは車掌の影だから、先輩じゃないけどね」
くすくすと笑いながら、彼女はどこからか湯飲みと急須を取り出すと、お茶を入れ始めた。
「やっぱみかんにはお茶だよね。あと、おせんべいもあるから、食べながらのんびり出発を待とう」
再びどこからかせんべいやみかんが乗った皿を出し、コタツの上に置いて彼女は笑う。それに曖昧な返事を返しながら、また一房手の中のみかんを口に入れた。
窓の外を見る。彼の様子に変化はない。しかしその足下には、やはり影はなかった。
「心配しなくてもあいつは大丈夫だよ。双子みたいなもんだと思ってくれていいし」
「そうなの?」
「そうなの。ただ側にいてもいなくても、お互い見聞きしたことは通じてるから、双子というより、もう一人の自分って感じに近いのかな」
首を傾げる彼女に、同じように首を傾げる。まったく理解はできていないが、そういうものなのだろうと無理矢理に納得した。
みかんを食べ、淹れて貰ったお茶を飲みながら車内を見渡す。
乗客が降りてがらんとしていた車内は、すぐに別の乗客が乗り込み賑わいを見せている。しっぽの生えた子供たち。りっぱな角を持つ男性。木彫りの面を被った人影の群れなど、不思議な乗客たちで列車は満員になっていく。
「季節の移り変わりは、訪れるものも去るものも多いんだよ。特に冬は境が薄くなってしまうからね」
音を立てて茶をすすりながら彼女は言う。
駅の外。遠くへ飛んでいく白い鳥の姿を見ながら、駅を降りることの意味を考えた。
冬へ向かい駅を降りる。その先に向かい、自分もいつか駅を駅を降りるのだろうか。
「どうしたの?」
窓の外を見たまま動かない自分に、彼女は不思議そうに声をかける。静かに首を振って、同じように駅を降りた客を見送る彼を見た。
真っ直ぐな視線。自分が駅を降りる時も、彼は見送ってくれるのだろうか。
その姿を想像して、小さく笑う。彼に見送られるのは、とても贅沢で、幸せなことのように感じた。
「見送る姿がかっこいいなって……あんな風に見送られているお客さんたちが羨ましい」
呟けば、彼女は途端に咽せ込んだ。
突然のことにどうすればいいのか分からず視線を彷徨わせていれば、足音荒く彼が近づいてくるのが見えた。
どうやら出発の時間が来たようだ。影になって彼の足下へ消えていく彼女を何も言えずに見送って、恐る恐る彼を見る。
帽子を深く被っているため、表情は見えない。けれど何も言わずに席に座るその耳が、真っ赤に染まっているのが見えた。
かたん、かたん、とゆっくりと列車が動き出す。白が混じる景色が過ぎて、遠くなる。
お互いに何も言えないまま。どこか気まずい空気が、周囲の賑やかな雰囲気に解けていく。
少しだけ寂しくなって、そっと彼の手に触れた。微かに息を呑む音が聞こえ、触れていただけの手を繋がれる。
そのまま手を引かれ、彼の胸に倒れ込んだ。強く抱き締められ、そっと囁かれる。
「俺は見送りたくはない。もしも駅を降りる時が来たならば、そのまま俺を連れて行ってくれ」
指を絡めて繋ぎ直される。離れないという宣言のようで、煩いくらいに胸の鼓動が高鳴った。
顔が熱い。何も言葉が出ず、返事の代わりに彼の胸に擦り寄った。
かたんかたん、と列車が冬へ向けて走っていく。
外は雪が降り積もっているのだろう。
だけどこの列車の中は、コタツだけでない温もりに溢れ。
少しばかり暑いくらいだった。
20251117 『冬へ』
白い月が浮かぶ夜。
少女は一人、月明かりを浴びて踊っていた。
くるりと回り、高く飛び上がる。
広がる白のスカートが、まるで羽根のように見えていた。
夜は少女のためだけの舞台。月明かりというスポットライトを浴びて微笑む少女は、誰よりも何よりも美しかった。
惚けたように少女を見つめていれば、不意にこちらを見つめる目と視線が合った。
息を呑んで硬直していれば、少女はふわりと微笑みこちらへと近づいてくる。
「こんばんは」
透き通った、美しい声音。意味もなく視線を彷徨わせながら、小さく頭を下げてみる。
「こ、こんにちは」
くすくすと笑う声すら美しい。不躾に見ていたことが恥ずかしくなって、顔を俯かせ、もごもごと口を開いた。
「あ、えっと……勝手に見てて、ごめんなさい。その……すごく、綺麗だったから……」
今まで見てきた何よりも。
そう心の中で付け足した。
それほどに少女の踊りは美しかった。他の誰かの踊りなど、比較にもならない。幻想的で儚さすら感じるその姿は、この世のものではないかのようだった。
そんな美しさを、自分は知らない。人も、絵も、景色も、少女ほど綺麗なものを見たことはなかった。
「ありがとう。そう言ってもらえると、とても嬉しいわ。寝坊をしたと気づいた時は途方に暮れたけれど、こんなに綺麗な月と褒めてくれるあなたに出会えたのだから、逆に幸運だったのかもね」
「寝坊?」
くるりくるりと可憐に舞う少女の意外な言葉に、目を瞬いた。幻想的で遠い存在に思えた少女が、一気に身近に感じて、知らず強張っていた体の力が抜ける。
「そうよ。目が覚めたら、一人きりなんですもの。最初はとても慌てていたのよ」
そうは言うものの、少女は穏やかに月を見上げた。
白くしなやかな指先が月に照らされ。淡く浮かぶ。夜を掻き分けるかのように、静かに揺らめいた。
「どうしてそんなに綺麗に踊れるの?」
可憐な動きに目を奪われながら、気づけば胸の内に込み上げた思いを口にしていた。
「後悔したくないから」
その問いに少女は月に向けて微笑みながら、歌うように囁いた。
意味が分からず、少女の視線を追って月を見上げる。煌々と輝く白の月は、けれども少女の後悔の意味を教えてはくれなかった。
「何を後悔するの?」
首を傾げて、さらに問いかける。困惑するばかりの自分に、少女は優しく楽しげに笑う。
「だって、たった一度だけの、こんなにも綺麗な月夜なんですもの」
夜に解けていく涼やかな声音。その言葉の意味は、やはりよく分からなかった。
「明日も月は出るのに?」
「明日の月は、今日の月ではないわ。今、この瞬間の私を照らしてくれるのは、今日のこの月だけ」
「今日の、月……」
月と少女を見ながら、目を細める。意味を理解できないけれど、何故か分かったような感じがした。
「明日も、また会える?」
夢見心地に、そう問いかける。
「私は、今日だけよ」
少女は笑う。
そうだろうな、と自分も笑った。
「起きたのが今日で、本当によかった。後悔なんてほんの少しもしないで、自由に咲き誇ることができるもの……ありがとう。私を見てくれて。綺麗だって言ってくれて、とっても嬉しい」
心からの微笑みを湛えて、少女はスカートの裾を持ち上げ可憐にお辞儀をした。静かな夜のステージで、月のスポットライトに照らされながら、少女は再び踊り始める。
くるりと舞えば、スカートの裾がふわりと広がる。月明かりを浴びて白く煌めきながら、優雅にステップを踏み続ける。
ふと空を見上げた。月は静かに、冴え冴えとした白を湛えている。
いつもと変わらない、澄んだ夜空に浮かぶ月。
けれども――。
少女を照らす今夜の月は、初めて見るような荘厳な美しさを秘めているような気がした。
次の朝。
少女と出会った場所を訪れると、やはり彼女の姿はどこにもなかった。
代わりに残されていたのは、咲き終わり朽ちて萎んだ一本の花。夜にだけ咲くというその白い花に、そっと指先を触れさせた。
たった一夜。ひっそりと咲く花には、確かに昨日はなく明日もない。
見上げる空には、月はない。雲一つない青空にあるのは、眩しい陽だけだ。
「今日だけの、特別……」
もう一度花に触れ、静かに立ち上がる。少女の動きを真似て、ゆっくりとステップを踏み出した。
少女の踊りとは比べものにならない、拙い動き。それでも必死で記憶の中の少女を追いかける。あの時一緒に踊れたのならばよかったと、小さな後悔に思わず苦笑した。
後悔のないように。
少女と違い明日がある自分は、この先も何度も後悔しながら進み続けるのだろう。
――大丈夫。あなたには明日の月が照らしてくれるわ。
吹き抜ける風が、彼女の声を運んだ気がした。
動きを止めず、過ぎていく風を視線で追いかける。
「――あぁ、本当だ」
風を追って見上げた空。
朧気に浮かぶ白の月に、思わず笑みが溢れ落ちた。
20251116 『君を照らす月』
懐かしい歌が聞こえた。
あの子ではないと知りながら、視線は声の主を求めて彷徨う。遠くで駆けていく子供たちの姿に、あの子ではなかったことを認めて肩を落とした。
何度繰り返しただろう。少しも前に進めないことを自嘲する。馬鹿だと思いながらも、葉の落ちた木々にまたあの子の思い出を重ねて足を止めた。
青々と葉が茂る木々の下、木漏れ日を浴びてうたた寝をするあの子の幻を見る。
瞬きの間に、幻は跡形もなく消えていく。近づいて地面に触れても、そこには温もりの欠片も残ってはいない。
「本当に、馬鹿だなぁ」
木漏れ日のような暖かな笑みを浮かべたあの子の跡は、この先も消えはしないのだろう。
すべては自分の選択の結果だ。それなのに今も醜く縋る心に、吐き気がしそうだった。
先日、あの子の手を離す選択をした。
気づけば常に側にいたあの子。自分以外には見ることのできない、特別な存在。
悲しい時も、寂しい時も、あの子がいれば耐えられた。
あの子が笑えば、自然と自分も笑うことができた。
そんな大切なあの子と、このままずっといられたのなら、それはとても幸せなことだろう。自分は一人ではない。導いてくれる絶対的な味方がいることは、自分を穏やかにさせてくれていたことだろう。
けれど、だからこそ手を離そうと思った。
あの子の優しさを犠牲に、甘えて楽な道を進む訳にはいかない。自分の笑顔のために、あの子が笑う陰で苦しんでいるのではないかと思うと落ち着かなかった。
理由はそれだけではないだろう。
成長していく自分と、変わることのないあの子。その違いがこれ以上大きくなっていくことが、きっと耐えられなかったのだ。
両手に視線を落とし、強く握り締める。
あの時から、あの子に一度も会えていない。影すら見えず、それが何よりも痛かった。
ふと、歌声が聞こえた。
あの子がよく歌ってくれた歌。もう聞くことのできない歌。
気づけばまた、足は歌声が聞こえる方へと進んでいく。街路樹を過ぎ、住宅街を抜け。そうして町外れの雑木林の中へと進んでいく。
今は誰も近づかなくなったこの雑木林は、あの子と二人だけの秘密の遊び場だった。懐かしさに目を細めながら、声を求めて奥へと向かった。
「――あ」
強く風が吹き抜けて、思わず目を閉じた。次に目を開けた時、目の前の景色は一変していた。
葉が落ちた木々は、時計の針を戻すかのように葉が生い茂る。落ち葉で覆われた地面は、色鮮やかな花の咲き乱れる花畑へと変わる。
木漏れ日の下、花に囲まれながら、あの子が――大切な自分だけの友人が楽しそうに歌っていた。
友人の目がこちらに向けられる。歌が止まり、柔らかな微笑みと共に両手を伸ばされる。
「悲しいの?歌ってあげるから、おいで」
囁く言葉と同時に、その腕に駆け込んでいた。
「泣かないで。もう大丈夫だよ」
頭を撫でられながら、大丈夫だと繰り返される。優しく、甘い声音。込み上げるのは、手を離した後悔ばかりだ。
「ごめんなさい」
謝罪の言葉を繰り返しながらも、その優しさに縋る。小さな体にしがみつけば、友人は小さく笑ったようだった。
「いいよ。このまま、側にいてあげる。今までそうだったように、これからもずっと」
「ずっと……?」
友人の言葉に、頭の芯が冷えていく。
自分の幸せのために、友人がこれからも消費され続けていく。自分に繋ぎ止められて、苦しんでしまう。
笑顔の裏で泣く友人の姿を想像して、歯を食いしばり体を離した。
「ずっと……じゃなくて、いい。もう少し……今だけ。お願い……」
俯き、震える声で伝える。
友人の顔が見れない。喜んでいても、悲しんでいても、見てしまえば、決意が揺らいでしまう。
友人は何も言わない。静かにこちらを見つめる視線を感じながら、必死に涙を堪えていた。
「今だけ、ね」
不意に友人は呟いて、次の瞬間には強く手を引かれた。
咄嗟のことに逆らうこともできずに、そのまま友人の胸に倒れ込む。
「っ、何、急に……」
「今だけ、だよ」
頭を抱かれ困惑する自分を気にせず、友人はそっと歌い出す。
悲しい時、いつも歌ってくれた歌。離れようと伸ばした手が、力なく友人の服を掴む。
「少しお休み。また、起きた時にね」
ぽんぽんと、あやすように背を叩かれ、瞼が閉じていく。染み込んでいく歌声に、意識が沈んでいく。
目が覚めたら、今度こそ。
木漏れ日のように暖かで優しい、友人の手を離さなければ。笑って、送り出せるようにならなければ。
何度目かの無意味な決意をしながら、夢の世界に落ちていった。
穏やかな寝息を立てる少女の頭を撫で、少年は静かに立ち上がる。
その表情は少女に見せていた柔らかさなど欠片もない。酷薄に口元を歪め、眠る少女を見下ろしていた。
「今だけ、ね」
少女の言葉を嘲笑い、少年は懐から小さな砂時計を取り出した。
砂時計の砂が落ちていき、周囲の時が反転していく。花は枯れ木の葉は落ちて、瞬きの間に物寂しい元の景色へと変わる。
「今回も駄目か。強情め……いや、臆病と言った方が正しいか」
くつくつと喉を鳴らして嗤いながらも、その目には強い怒りが浮かんでいた。
「この俺を手放せると思うなよ。お前が受け入れるまで、何度でも繰り返してやろう。それまで手を離したことの後悔に苦しむといい」
どんな理由があれ、少女が手を離したことを少年は許すつもりはなかった。故に少年は同じ時間を繰り返す。
少女が孤独に耐えかねて少年の跡を求め、そして永遠に受け入れるまで、何度でも。
「俺の手を取った時から、お前は一人では生きては行けぬと、いつになったら気づくのだろうな。お前の笑顔のために必要なのは、俺くらいだというのに」
眠る少女に向けて、少年は冷たく言い放つ。
暖かな木漏れ日を失い、その跡を求めて身を丸くする少女に眉を寄せた。
眠る少女の体には、いつの間にか無数の傷ができている。傷が痛むのか、その表情もどこか苦しげだ。
「また増えているな。心が痛み苦しむだけだというのに、何故意地を張って手を離すのか」
静かに膝をつく。傷口に手を触れ、傷も痛みも消していく。触れた後には、傷跡一つ残らない。
身を縮め、少女は静かに涙を流す。その姿に少年は怒りを堪えるかのように、唇を噛み締めた。
「ほら、元通りになった。だからもう泣くな。痛みもないだろう?」
少女の頬を伝う涙を拭い、頭を撫でる。次第に少女の口元が綻ぶのを見て、少年もまた淡く微笑んだ。
「さて、今度こそは求めてくれればいいのだが。お前が受け入れなければ、契約は成立しない」
呟いて少年は立ち上がり、少女に背を向ける。
景色が歪み、少女の部屋へと形を変えた。
「また、後でな」
小さく笑い、少年は歌いながら去っていく。
一人残された少女は何も知らず、同じ時を繰り返す。
作られた舞台に気づかずに。
少女にとっての木漏れ日を求めて、またその跡を追いかける。
20251115 『木漏れ日の跡』