綺麗にラッピングされた箱。
「開けないの?」
首を傾げて、弟が問う。何度目かのやりとりかも忘れたそれに曖昧な返事を返しながら、それでも箱を開けられずにいた。
今朝早く、玄関の前に置いてあった箱は、送り主が誰かを書いてはいない。ただ薄紅色の可愛らしいリボンが、送り主が誰かを静かに伝えていた。
「開けないの?」
弟が繰り返す。このやりとりにも飽きてきたようで、欠伸をひとつしながらテーブルの上に置かれた箱に手を伸ばした。
「開けないなら、開けるよ」
「ちょっと待って……!」
慌ててそれを止め、溜息を溢す。
仕方がないと、覚悟を決めてリボンに手をかけた。
リボンを解く。殊更丁寧に包みを剥がし、中から出てきた箱の蓋をゆっくりと開けていく。
「――あ」
「へぇ、可愛いじゃん」
弟が笑う。
それをどこか遠くに聞きながら、恐る恐る中のそれを取り出した。
「――可愛い」
思わず呟く。
華奢な白の陶器でできたそれは、一匹の黒猫が描かれた可愛らしいティーカップだった。
こちらを向いて座る黒猫の愛らしさに、無意識に口元が緩む。そっと絵をなぞり、ほぅ、と安堵の吐息が溢れ落ちた。
「今回は普通だな。つまんない」
「そういうこと言わないで」
肩を竦めて少しばかり鼻白む弟を睨み付けながら、そっとカップをテーブルの上に置く。折角の贈り物なのだから、紅茶か何かを入れようかとカップに背を向けたその瞬間。
「やっぱり、今回もだった」
足に擦り寄る何かを見て、弟は楽しげに声を上げて笑う。振り返れば、カップに描かれていたはずの黒猫はいない。またかと嘆息しながらも視線を落とせば、案の定足に体を擦りつけていたのは一匹の黒猫だった。
「で?どうすんの、それ」
ひとしきり笑った弟に腕の中の黒猫を指差され、眉を寄せながら首を振る。
どうすると言われても、どうしようもない。今まで送られてきた贈り物が、如実にそれを示しているというように、視界の端で自由気ままに動いている。
勝手気ままに床を掃除する箒とちり取り。裁縫道具たちが弟が持ち込んだ破れた衣類を縫い繕い、大時計は針を回して人形たちと遊んでいる。
溜息を吐きながら、喉を鳴らして擦り寄る黒猫の頭を撫でた。
「良かったわ。気に入ったようね」
聞こえた声に振り返りながら、恨めしげな視線を向ける。
大きな姿見から現れた彼はこちらの視線を気に留めず、笑みを浮かべて近づいてくる。
「お久しぶり、マスター。相変わらず、姉貴よりも綺麗だね」
「あら、ありがとう」
艶やかな笑みを浮かべて、彼は手にした包みをテーブルの上に置く。包みを解いて、中からティーセットを取り出した。この黒猫と同じデザインで、取り出された瞬間にカップやポットに描かれた猫が次々と抜け出てくる。
瞬く間に猫に囲まれる自分を見かねて、椅子が近寄り座れと促された。
「これ以上、曰く付きの骨董品を持ち込まないでください」
「嫌ならば、関わらないことが一番よ。そうすれば相手から勝手に去って行くわ。いつも言っているでしょう?」
「それは……そうだけど……」
「うちの店の子たちは、特に好き嫌いが激しいもの。それが皆ここにいるってことは、貴女が愛情を持って大切にしてくれているっていう何よりの証明よ」
そう言われてしまえばそれ以上何も言えず、膝に乗り出す猫たちを順に撫でていく。
喫茶店兼骨董屋を営む彼とは幼い頃からの付き合いだが、何においても勝てたためしがない。勉強も運動も、口げんかでさえも、彼は常に自分よりも上だった。
昔から中性的な容姿ではあったものの、女性の格好をするようになった今では自分よりも綺麗になってしまった。
込み上げる溜息を呑み込む。慰めなのか大時計が鐘を鳴らし、キッチンからお茶菓子を乗せた盆を持って日本人形が近づいてきた。
その時に、さりげなく彼の足を踏みつけていったのには、気づかない振りをした。
「あ、ありがとう」
「すっかり懐いちゃったわねぇ」
お盆からお茶菓子を受け取りお礼を言えば、彼は苦笑する。しかしその目が一瞬だけ何の感情も映していないように感じられ、思わず声が漏れた。
「どうしたの?」
「な、なんでもないです」
こちらを見る彼は、いつもと変わらないように見える。気のせいだったかと、首を傾げながら受け取った茶菓子から煎餅を取り囓った。
「姉貴は相変わらず鈍いからな。マスターも可哀想」
「は?」
くすくす笑う弟に、眉を寄せて睨み付ける。それを気にも留めず弟は裁縫道具たちに直された衣類を片手に、笑顔で手を振った。
「俺、そろそろ帰るわ。マスターはごゆっくり」
玄関へと向かう弟は、けれど部屋の扉の前で一度振り返り、彼に視線を向ける。
「基本的に、マスターのことは応援しとくけどさ……姉貴を傷つけるのは絶許なんで。そこんとこよろしく」
「分かってるわよ。じゃあまたね。今度はお店の方にいらっしゃい」
表面上はにこやかな二人に困惑して、視線が彷徨う。気にするなと言わんばかりに猫たちに擦り寄られ、何も言えずに弟の背を見送った。
気がつけば、部屋の中には自分と彼。そして彼の持ち込んだ、あるいは贈られた古い道具たちだけ。
どこか気まずい空気を掻き消すように、彼はテーブルに広げたティーセットを手にキッチンに向かう。
「お茶の準備をしてくるわね」
「あ、はい」
頷いて、彼を見送る。
それに続くように。猫たちはキッチンへと向かっていった。
一人部屋に残されて、溜息を吐く。
「何だったんだろう」
疑問に答えてくれる声はない。
自分の部屋だというのに、少しばかり居心地の悪さを感じる。これも彼と弟のせいだと、心の中で文句を呟きながら彼が戻ってくるのを待った。
しばらくすれば甘い香りと共に、彼がトレーを手に戻ってきた。
「お待たせ」
トレーの上には暖かな湯気を立てるポットと、カップが二つ。白の皿には色とりどりのマカロンが乗せられている。
それをテーブルの上に置き、ぼんやりと見ている内に彼はお茶の準備を整えていく。
「はいどうぞ。砂糖は二つでよかったのよね?」
「あ、うん。ありがとう……ございます」
受け取ったティーカップには、黒猫が一匹。こちらを向いて座っている。
カップに口をつければ、ほんのり甘い紅茶の香りと味が広がり、口元が綻ぶ。
「おいしい」
「よかった」
嬉しそうに彼は微笑み、自身も白猫の絵が描かれたカップに口をつける。その動作はとてもしなやかで綺麗なのに、カップを持つ手は男の人の手だった。
当たり前のことに呆然としていれば、彼はこちらを見つめ静かに問いかけた。
「そろそろ止められそうかしら?」
「えっと……何を、でしょうか?」
思いつかなくて眉が寄る。彼は静かに笑って、人差し指をこちらに向けた。
「敬語……学生時代は、そんなのなかったでしょう?」
指摘されて、気まずさに紅茶を飲む振りをして視線を逸らす。唇に触れる紅茶の熱さが彼の視線と絡まって、火傷してしまいそうな気がした。
「私が怖い?」
「怖くない、です」
あからさまに嘘を吐く。
本当は怖い。いつもは女性的な彼の、男性的な部分に気づくと途端に怖くなる。
そんな自分に彼は怒るでもなく、静かに笑い告げる。
「今すぐでなくていいわ。いつまでも待ってるから」
優しい声音に俯いた。
見つめるカップの黒猫がこちらを見て、声を出さずに鳴いた。部屋にいる他の道具たちも、皆こちらを見ている気配がする。
「大丈夫よ」
彼は穏やかに囁く。
「皆、貴女が大好きだもの。付喪神はね、愛してくれたならちゃんと返してくれる。貴女を守ってくれるから」
「――うん」
頷いて、カップの黒猫をなぞった。猫の尾が揺れる。
大丈夫。自分に言い聞かせるように心の内で繰り返して、カップに口をつけた。
ほんのり甘い紅茶の味。湯気の向こうで微笑む彼を、ぼんやりと見つめて思う。
彼が与えてくれるものは怖くない。
だからきっといつか、彼のことも怖くなくなるのだろう。
「うん。きっと怖くない」
小さく呟けば、彼は不思議そうに目を瞬いた。
聞き返される前にカップを置いて、皿の上のマカロンを取る。一口囓れば甘さが口に広がり、自然と笑みが浮かぶ。
「おいしい」
「気に入ってもらえたのなら良かったわ。好きなだけ食べなさい」
皿ごとこちらに渡され、彼の優しさに勇気を出す。
顔を上げて、真っ直ぐに彼を見た。
「どうしたの?」
「あのね……ティーセット、置いていって。それでまた……一緒にお茶しよう」
昔みたいに。
震える手を握り締めそう告げれば、彼は驚いたように目を見張った後、ふわりと微笑んだ。
「ええ、もちろん」
その笑顔はやはり自分よりも綺麗で、少しも怖いとは感じなかった。
20251111 『ティーカップ』
そっと、目の前を歩く彼の服を掴んでみる。
「どうした?」
振り返る彼に、何でもないと笑って首を降る。でも、服を掴む手は離せない。
何かがあるわけではない。ただ何となく寂しくなった。
彼は首を傾げて、服を掴む手を見ている。
不意に笑うと、手を包まれた。
「どうせなら、こっちの方がいいな」
手を繋がれる。温もりが彼の手から全身に伝わり染み込んで、寂しい気持ちを溶かしていく。
温かい。嬉しくて、自然と笑顔になった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
目を合わせ、互いに笑う。少しだけ大げさに繋いだ手を振って歩いていく。
このままでいたい。きっと笑われるだろう願いを、心の中だけで呟いてみる。
彼はいつだって、先を歩いていく人だ。同じ場所でずっと立ち止まっている姿など、想像もつかない。
「今度はどうした?」
無意識に俯いていたらしい。顔を覗き込まれて、ひゃっと小さく声が漏れた。
「何、その反応。可愛い」
くすくすと笑われて、今度は恥ずかしくなって顔を逸らした。
言える訳はない。この気持ちに相応しい言葉を知らず、例え知っていたとしても、それを彼に伝える勇気はない。
未だ嗤い続けている彼に、伝える代わりに軽く睨む。ごめんと謝りながらも彼は笑い続け、益々恥ずかしくなって彼の手を離し背を向けた。
「ごめんって」
背を叩いて頭を撫でながら謝る彼の手から逃げるように、何も言わずに歩いていく。
ちょうど分かれ道。ここから先は、彼と一緒には帰れない。
「また明日!」
彼の別れの言葉にも、振り返らない。離した手を冷たい風が通り過ぎて、立ち止まれば動けなくなる気がした。
寂しいと叫ぶ心から目を逸すように夢中で走り、家に帰る。
その後のことは、良く覚えていない。
けれど優しい彼の謝罪を受け入れず、挨拶も無視して帰った苦しさは忘れられなかった。
きっとこの時に、罰が当たったのだろう。
そっと、目の前を歩く彼の服に手を伸ばす。
しかしその手は彼をすり抜け、触れることはできなかった。
立ち止まり俯く自分に気づかず、彼は先へと進んでいく。道行く誰もが、自分を気にも留めずに過ぎていく。
あの日。彼を無視して逃げ帰った次の日から、自分という存在は消えてしまったらしい。
誰にも触れられず、叫んでもその声は誰にも届かない。
あれから何日過ぎたのだろう。それすら分からない。考えたくもない。
寂しくて、可笑しくなってしまいそうだった。
「ごめんなさい」
見えなくなってしまった彼の背に呟いた。
その声も、彼には届かない。
「行かないで」
重い足を引きずって、彼の追って歩いていく。
彼ならば気づいてくれるかもしれないという期待はもうない。それでも彼の側にいたいと思ってしまうのは、寂しいからなのだろう。
いつもの分かれ道で立ち止まる。
これから先へは進めない。足が、彼を追って進むことをどうしても拒んでいる。
小さく息を吐いて、分かれ道の端に座り込んだ。
家に帰る気も起きない。帰った所で両親には気づかれず、寂しさが増すだけだった。
「ごめんなさい」
溜息と共に吐き出して、膝を抱えて蹲る。
日が沈み夜が過ぎて朝が来るまで、明日になって彼がこの道を通るまでは、ずっとこのまま。
込み上げる涙が溢れないように、きつく目を閉じ朝を待った。
ふと、背に温かい何かが触れた。
はっとして顔を上げる。
「こんなとこにいたのかよ。風邪引くぞ?」
月のない、暗い夜でもはっきりと分かるほど近くに、彼がいた。
「あ……え?」
「ほら、帰るぞ」
そう言って手を繋がれる。じわりと伝わる熱に涙が込み上げて、耐えきれずに一筋溢れ落ちた。
慌てて俯けば繋いだ手を引かれ、彼の腕の中に閉じ込められる。
初めてのことに混乱し、心臓が落ち着かない。けれども全身を包む暖かさに寂しさが解けて端から消えていくのを感じて、そっと彼の服を掴んだ。
「すっかり体が冷えてるな。しばらくこうしているか」
優しい声に頷いた。背を撫でる手の暖かさに、ほぅと小さく吐息が溢れ、涙が彼の服を濡らす。
「ごめんなさい」
小さく呟けば、彼は笑う。大丈夫だと言葉で、態度で示してくれた。
体の力が抜けていく。涙も次第に収まると、彼はそっと体を離した。
「帰ろうか」
手を差し伸べて、彼は笑う。いつもと変わらない笑顔に、同じように笑ってその手を取った。
離れないようにとしっかり繋ぎ、彼と共に家へと帰る。
「――何それ?」
繋いでいない方の彼の手が、何かを握り潰したのを見て首を傾げる。
「あぁ、これか?ただのお呪い……もう必要なくなったからな」
笑いながら彼は手を開く。ひしゃげた白い何かが風に乗って舞い上がり、端から解けて消えていく。
何のお呪いだったのだろうか。今は何もない彼の手を見つめながら考える。けれど答えは出るはずもなく、彼を見てもただ笑うだけだった。
「気にすんなよ。それより早く帰ろうぜ」
手を引かれ、何も言えずに歩いていく。胸に燻る疑問も感情も、彼の手の熱がすべて解かしていく。
とても静かだった。静かで暗くて、次第に意識がぼんやりとし始める。
「歩きながら寝るなよ。家まであと少しだから頑張れ」
楽しそうな彼の声がする。重い瞼を擦りながら彼を見れば、変わらず彼は笑顔のまま。
不意に、彼がこちらを向く。夜のように深く暗い目と視線が合った。
「どうせすぐ忘れるんだろうけどさ、できればちゃんと覚えとけよ。手を離されて寂しくなるのは、お前だけじゃないんだ」
目を瞬く。
あまり深く考えず、何も言わずに頷いた。
頷かなければいけないと、何故か強くそう思った。
気づけば朝になっていた。
頭が重い。何だか長い夢を見ていたような気がして、眉が寄った。
現実と夢の区別がはっきりとしない。どこまでが夢で、どこからが現実だろうか。
昨日は彼の手を離して、挨拶も言わずに帰ってしまったのだったか。謝罪も受け入れず、そして次の日になって何もかもが変わってしまった。
いや、違う。日付を見れば、昨日が彼と一方的な喧嘩をした日だ。半ば混乱しながらも、ベッドから抜け出し頭を振った。
「顔、洗ってこよう」
のそのそと部屋を出る。ちょうど階下から母が呼ぶ声が聞こえ、返事をしながら洗面台に向かった。
顔を洗えば、目も冷めることだろう。朝食を食べて出かける準備が終わる頃には、夢の内容も消えてなくなるはず。
そう自分に言い聞かせる。
燻る違和感は、気にしないことにした。
「おはよう」
いつもの分かれ道。彼はいつものように笑いながら待ってくれていた。
「お、おはよう」
小さく挨拶を交わせば、彼はもう一度おはようと返し、手を差し伸べる。その手を取って歩き出せば、引き摺っていた朝のもやもやとした気持ちが消えてなくなっていく。
「どうした?」
小さく息を吐けば、不思議に思った彼が視線を向けた。
それに首を振りながら、怖ず怖ずと彼に向けて頭を下げる。
「昨日は、ごめん」
「ん?あぁ、気にすんな」
彼は笑って頭を撫でる。ぐしゃぐしゃと髪を掻き回されて、乱れた髪を整えようと手を離した。
「あ……」
途端に寂しさが込み上げる。側にいるのに触れられない気がして、離したばかりの手を繋ぐ。
自分でもよく分からない感情に困惑していれば、彼は穏やかに笑った。
「そんなに焦らなくても、置いてかないよ。お前が望むなら、ずっとこのまま手を繋いでいてやるから」
それならお互い寂しくないだろう。
そう言われて、彼を見る。
朝の光の中で、夜のような目が静かに笑っていた。
20251110 『寂しくて』
「ごめんね」
そう言って、彼女はいつも境界線を引く。
「ううん。大丈夫、気にしないで」
それ以上踏み込めなくて、またいつものように笑みを浮かべてみせた。
本当は踏み込みたい。手を引いて、彼女の哀しみも恐怖も、全部受け入れてしまいたい。
けれど彼女の涙を見た瞬間、いつも何も言えなくなってしまうから。
「大丈夫だよ」
今日もまた。
臆病な自分は作った笑顔を浮かべ、口先だけの大丈夫を繰り返した。
「ありがとう」
彼女は笑う。安堵したように。
けれどもどこか冷めた目をしているように見えるのは、そうであってほしいと自分が思っているからだろうか。
心に引いた境界線に、踏み込んでほしい。壊して、砕いて、すべてを受け入れてほしいと、彼女も願っている。
そんな自分の妄想が、彼女の表情すら歪ませて認識しているのだろうか。
「どうしたの?」
何も言わずに立ち尽くす自分に、彼女は眉を寄せ問いかける。それに何でもないのだと首を降って、いつものような笑顔を作った。
「何でもないよ」
言いながら、彼女から視線を逸らす。赤く染まりだした空を見上げて、それを言い訳にする。
「もうすぐ日が暮れるね……また明日」
いつも通りの別れの約束。それに彼女は、一度も言葉を返したことはない。
分かってはいるが、何も返されないことに少しだけ寂しさを感じながら、彼女に背を向け歩き出した。
「どうして泣いているの?」
ぼんやりとした夢を見ている。
好奇心だけで動いていた、幼い頃の夢。世界がまだ楽しいことばかりで満たされて、怖いものなど何一つなかった。
「ねぇ。どうして?もしかして、悪いやつらにいじわるされたの?」
だからこそ、彼女に対しても何一つ怖れることなく踏み込むことができた。
俯いて泣くばかりの彼女の頭を撫でて、自分の感情のままに繰り返し問いかける。
「教えてよ。全部、教えて?そしたら、半分もらってあげる。それで開いた半分に、笑顔になれるような楽しい気持ちが入るでしょう?」
手を差し出し、半ば強引に彼女と手を繋ぐ。
驚いて目を瞬く彼女に大丈夫だと笑い、強請るように繋いだ手を揺すった。
いつからだろうか。
彼女の答えを待ちながら、今の自分との差異を疑問に思う。
幼い頃は、こうして遠慮を知らずに彼女の心に踏み込んだ。彼女の引いた境界線も形を持たぬほどに弱く、手を繋ぐことは容易だった。
いつからだろう。
一体いつから、彼女の涙が怖くなったのだろうか。
「――いいの?」
涙に濡れた目をして、彼女は問う。
迷いがあるのだろう。声は震え、視線はまだこちらから逸れている。
「いいよ」
それに自分は迷いなく答え、繋いだ手に力を込めた。
「じゃあ――」
彼女の目がこちらに向けられる。唇が何かを伝え震えるが、それは声として届くことはなかった。
夢の終わりが近いのだ。薄れていく彼女の姿や周囲の景色に、そう思った。
何もかもが白に染まる中。
彼女が続けた言葉が何だったのかを、ただ考えていた。
聞こえるアラームの音に、目を開けた。
まだ残る夢の名残に、小さく息を吐く。あんな風に、彼女の中に踏み入ることができたらと、自分のことだというのに羨ましく思った。
「話してくれたら……その気持ちを……」
幼い頃の自分の言葉をなぞる。彼女にもう一度伝えたのなら、あの境界線は少しでも揺らぐだろうか。
それを想像して、落ち着いてなどいられなくなった。急いで着替え、部屋を飛び出した。
朝食も摂らずに家を出て、いつもの場所へと駆けていく。彼女が必ずそこにいるとは限らないというのに、気持ちは急いて落ち着かない。
彼女は待っていてくれる。根拠のない確信が、只管に足を速めていた。
「おはよう。今日は随分と早いのね」
木に凭れ、ぼんやりと空を見ていた彼女が、こちらに築いて視線を向ける。小さく首を傾げる彼女に説明する余裕もなく、足早に近づいて手を握った。
「え?」
「君のことを教えてほしい」
言葉にして、今更ながらに気づく。
彼女に対して、自分は何も知らない。どこに住んでいるのか、何が好きなのか。
名前さえ、聞いたことがなかった。
「今更、聞くの」
冷たい声に、驚いて彼女を見る。
冷たい目。初めて見る穏やかさのない彼女に、小さく息を呑んだ。
「あの時は、逃げて行ったくせに。また、同じことを繰り返すつもり?」
「同じ、こと?」
彼女は何を言っているのだろうか。記憶にないそれに、意味もなく視線を彷徨わせた。
同じこと。覚えていないのは、何故なのか。
そう言えば、と夢の最後を思い出す。
あの時、彼女は何と言ったのか。自分は何を見たのだろうか。
背筋に、冷たく嫌なものが走って行く感覚がした。
「折角分かりやすいように境界線を引いてあげたんだから、それを今更壊そうとしないで」
手を解かれそうになり、慌てて離れないように強く手を握る。彼女の目が鋭さを増し、けれどもその目は薄く張り出した涙の膜に揺れていた。
彼女の涙の理由の一つが自分なのだろう。これ以上苦しませる前に手を離すべきだ。冷静な自分がそう告げるが、今この手を離したら二度と会えなくなる気がして離せない。彼女を知りたいと叫ぶ気持ちが背を押して、境界線が引かれ直す前にと無遠慮に踏み込んだ。
「ごめん。でも、全部教えて欲しい。前に教えてもらったのかもしれないけど、何も覚えていないんだ。だからどうか……今度は忘れたりしないから」
「嘘つき」
冷たい目をして彼女は言い捨てる。忌々しいと言わんばかりに顔を歪めながら嗤い、痛みを覚えるほど強く手を握られた。
手を引かれ、顔が近づく。彼女の目を揺らす涙の膜が溢れ落ち、光を反射して煌めいた。
「そんなに言うなら、また見せてあげる。逃げ出したいなら逃げれば良い。私ももう会うつもりもないから」
そう囁いて、額が触れた。
「――っ」
途端に流れ込んで来たのは、際限なく続く痛みと悲しみだった。目を覆いたくなるほど、逃げ出したくなるほどの記憶の奔流に、必死で歯を食いしばり耐える。
手を離す代わりに、強く彼女を抱き締めた。
子供ならば、女ならばこうあるべき。そうやって無理矢理彼女を型に嵌めようとしながらも、長子としての責任を押しつける。
血筋、伝統、しきたり。それらが彼女を縛り、終わりのない責め苦を与えている。その中の一つに、幼い自分がいた。
無邪気に近づき、甘い言葉を囁いた。だが彼女に触れれば、忽ち恐怖に泣きじゃくりながら逃げていく。
ようやく思い出した。あの時もこうして彼女の記憶に、心に触れて、残酷にも逃げてしまったのだ。
そして自分を守るために何もかもを忘れ、しばらくして何事もなかったかのように再び彼女の前に現れた。
傷をつけられながらも、彼女は何も言わず自分のために心に境界線を引いた。そんな彼女の優しさが、流れ込む記憶よりも痛くて、ただ愛おしかった。
「――あの時言ってくれたお願いは、今も有効?」
顔だけを離して、彼女に問う。
あの時、いいよと言った自分に、彼女は一つ願い事をした。それに自分はあの時何と答えたのかまでは覚えていないが、もう一度その願いに答えを返したかった。
すぐには思い出せなかったらしい彼女が、不思議そうに目を瞬く。少ししてそれが何かを思い出し、一瞬で顔が赤くなる。
「な、なんでっ……今、それを言うの!」
顔を逸らされ、嫌なのだろうかと気分が沈む。しかし触れた腕から暖かさが、そうではないのだと伝えた。
心地の良い暖かさ。嬉しいという感情が直接流れ込んで、戸惑いながらも嬉しくなった。
今度は自分から伝えてみよう。そう思い口を開くが、慌てる彼女に両手で口を塞がれる。
「これ以上何も言わないでっ!境界がなくなってるんだから、お互いのすべてが伝わってるのよ。言う前にもう伝わってるんだから!」
「え?伝わってる?」
「何よこれ!なんであなた、私の全部を知って好きだって思えるのよ!……あぁもう、一回離れてっ!」
彼女の手が体を押しのけるが、まだ離れたくはなかった。
お互いの気持ちが伝わっている。恥ずかしさよりも幸せな気持ちが勝り、押しのける彼女を強く抱き締めた。
「俺のお嫁さんになってください」
そう願えば、彼女の動きが止まる。
――じゃあ、私のお婿さんになってくれる?すべて見せたら、結婚しないと駄目なの。
あの日、彼女が願ったこと。
改めて自分から伝えれば、彼女から暖かな感情ばかりが伝わってくる。
嬉しい。幸せだ。大好き。自分のこの想いも彼女に伝わっているのだろうか。彼女を見れば、赤い顔を隠すように肩に額を預けている。
「馬鹿」
小さく呟いて、胸を叩かれる。顔を上げず、彼女はさらに小さな声で呟いた。
「婿入りするんだからね。私の家は厳しいんだから、今のうちから覚悟しなさい」
彼女なりの了承の言葉に、笑みが浮かぶ。
「愛している。もう絶対に逃げないから」
「馬鹿。逃がすわけないじゃない」
想いを伝えれば、憎まれ口が返る。
彼女の嬉しいを感じながら、心の境界線がなくなったことを実感する。
「本当に馬鹿なんだから」
その言葉に、怖くて踏み出せなかった自分を思い出しながら、まったくだと心から同意した。
20251109 『心の境界線』
空から何かが降ってきた。
ふわりと軽い何か。光を反射して煌めいている。
雪ではない。
雪が降るのはまだ早く、雪よりも透明だ。光を反射しなければその存在に気づかないほどのそれを、見失わないように目を凝らす。
きらきら、ゆらゆら。風に乗って緩やかに落ちてくる何かは、静かにこちらへと降りてくる。あと少しで手が届きそうだ。
そっと手を伸ばしてそれを取る。光に翳して、それが何かを知った。
羽根だ。硝子のような透明な羽根が、空から降ってきた。
空を見上げても、青空が広がるばかりで羽根の主は見当たらない。
そっと羽根を鞄の中に仕舞い込む。
心臓が激しく動いている。まるで全力疾走した時のように落ち着かない。
気づけば笑顔になっていた。透明できらきらとした羽根。自分だけの秘密を持ったようで、嬉しくて堪らなかった。
家に駆け込めば、ちょうど玄関にいた母がその勢いに驚いたように目を瞬かせる。
「どうしたの?そんなに急いで」
不思議そうに首を傾げ問いかけられるが、それに答える余裕はない。
何でもないと返しながら、母の横を通り抜け階段を駆け上がる。自分の部屋に飛び込んで、ようやく一息吐く。乱れた呼吸を整えながら、机に鞄を置いて椅子に座った。
走ってきただけではない、胸の鼓動の激しさを感じながら鞄を開ける。そっと手を差し入れるが、求めるものはいくら探っても触れることはなかった。
「え?どうして……?」
慌てて鞄をひっくり返し中身を机の上に出すが、どれだけ探してもあの透明な羽根は見つからない。最初からなかったかのように、欠片も残ってはいなかった。
きゅっと唇を噛みしめる。家に帰るまであれだけ浮かれていた気持ちは、今はすっかり萎んで悲しさだけが込み上げる。
自分だけの特別で、秘密だった羽根。それが一瞬でなくなって、じわりと涙が込み上げてくる。
止められない涙を必死に拭っていると、戸を叩く音がした。
こちらの返事を待たずに戸を開けて、母が声をかけてくる。
「これ、落としてたわよ。あなたの……泣いていいるの?」
少しだけ驚いた声がして、振り返れずにいる自分の側に母が近寄ってくる。そっと背を撫でられて、その手の温かさにさらに涙が溢れてくる。
「これ、玄関に落ちてたわよ。探してたのは、これじゃないの?」
机の上に散らばった鞄の中身を見て、ある程度察したのだろう。背を撫でながら、母は小さな鈴のついた鳥のストラップを渡してくる。
涙でぼやける視界の中、見覚えのないそれに眉が寄る。だが涙を拭いストラップを受け取りよく見ると、じわりと胸が熱くなるのを感じた。
あの羽根を手にした時のような高揚感とはまた違う、ゆっくりと染み込んでいく熱。暖かく、切ない気持ちに戸惑いながら母を見る。
「これじゃない。見たこともない……知らないのに、何だか懐かしい」
ストラップを両手で包み込む。ちりん、と小さく鈴が鳴る音を聞きながら、無意識に目を閉じた。
自分の気持ちが分からない。ただ、今の自分の思いを、母に聞いて貰いたいと思った。
「今ね、すごく気持ちがぐちゃぐちゃしてる……最初はすごく嬉しかったの。外で透明な羽根を見つけて、自分だけの秘密を見つけたみたいで、すごくドキドキした」
「透明な羽根?」
「うん。光に透かすときらきらしてる、綺麗な羽根……鞄に入れたのになくなっちゃって、今度はとっても悲しくなった」
母の手が背を撫でる。手の中で、鈴がちりちり、音を立てている。
感じる温もりと、聞こえる澄んだ音色を取り込むように小さく息をした。
「でもこのストラップを見たら、暖かいのに切なくなったの。知らないはずなのに、とても懐かしい感じがして、自分が良く分からなくなってきた」
「そっか……あなたもあの羽根を見たんだね」
母の言葉に、驚いて目を開け視線を向ける。どこか懐かしそうに、寂しそうに微笑んで、母は窓の外を見つめた。
「あの羽根はね、誰かの想いや願いなのよ。祈りって言った方が正しいかも知れないわね」
「祈り?」
母の視線を追って、窓の外を見る。けれど自分には広い青空しか見えなかった。
背を撫で、そして頭を撫でて母はそうよ、と頷く。
「言葉にはできなかった願い。誰かに会いたい。声を聞きたい……どうかいつまでも笑顔で、幸せでいてほしい……そんな誰かを想う祈りが、風に乗って届くのよ」
「誰かを、想う……」
そっと手を開き、中のストラップを見つめる。
知らないはずなのに、懐かしい。優しくて、暖かく、そして切ない。
誰の羽根だったのか、分かった気がした。
「ねぇ、お母さん」
ストラップから目を離さず呼べば、母は答える代わりに頭を優しく撫でた。
「手紙を書いたら……読んでもらえるかな?」
遠くへ引っ越してしまった幼馴染みに。
離れたくなくて、一方的に責め立て別れてしまった。あれから一度も、連絡をしていない。
「読んでもらえるわよ。だからちゃんと謝りなさいね」
「――うん」
頷いて、立ち上がる。
手紙を書くために、便箋を買いにいかなければ。
放り出していた鞄の中身を元に戻し、ストラップを鞄につける。母と共に部屋を出て、玄関へと向かう。
「――そう言えば」
ふと気になることがあり、母を見た。
母は何故、透明な羽根のことを知っていたのだろうか。
それを問いかける前に、母は僅かに頬を染めて笑う。
「お母さんもね、透明な羽根を手にしたことがあったのよ」
「それって……お父さん?」
父と母は元々遠い場所で、お互い接点もなく暮らしていたという。離れていたのにどうやって出会えたのか、どうして結ばれることになったのかまでは聞けていなかった。
もしかしたら、二人の話が聞けるかもしれない。期待を込めて視線を向ければ、母は人差し指を唇に当て。
「それは秘密よ」
楽しそうに笑うだけで、それ以上は何も教えてはくれなかった。
20251108 『透明な羽根』
陽が落ちて、辺りは暗く沈んでいく。
広間で小さな蝋燭の火を囲み、子供たちはくすくすと笑いながらその時を待った。
「まだ?」
「もう少し」
囁く声は、待ちきれないと弾んでいる。そわそわと、閉じられた戸が開くのを待っている。
不意に、板張りの廊下が軋む音がした。誰かがゆっくりと近づいている。
皆、息を潜めて戸を見つめた。近づく音に、誰かが唾を飲み込む。
音が止まる。戸越しに、淡い灯りが漏れている。
暫しの沈黙。誰一人、視線を逸らすことができない。
静かに戸が開かれていく。広がる灯りが蝋燭の明かりと溶け合い、ゆらりと揺らぐ。
「――お待たせしました」
提灯の灯りを手に入ってきた女性に、子供たちは歓声を上げて近寄った。
「遅いよ!」
「早く、早く!」
子供たちに手を引かれ、提灯を手に女性は広間の中心に向かう。
短くなってしまった蝋燭の傍らに座り、手にした提灯の中から光源の蝋燭を取り出した。
花や蝶など、美しい絵が描かれた和蝋燭。それを短くなった蝋燭の上に乗せれば、炎は大きく揺らいだ。
子供たちは蝋燭と女性を囲うように、再び座り直している。期待に目を煌めかせる彼らの姿を見渡して、女性は微笑み居住まいを正した。
「――さて、今宵はどなたから始めましょうか」
その言葉に、子供たちは我先にと手を上げる。
「僕がいい!」
「私がいいわ!」
「あ、ずるい!さっき、順番を決めたじゃん」
言い合いながらも、その表情は笑顔に溢れている。ふざけてじゃれ合い、やりとりを楽しんでいる。
敢えて言葉にしなくとも女性がすべてを理解して、選ぶべき子を選ぶと信じているのだろう。
「では、そちらのお方にしましょうか」
白い指先が、一人の少年へと向けられた。
無邪気に喜ぶ少年に周りも笑い、誰一人否を唱える者はなく静かに座る。
「えっとね。ぼくは鳥がいい!大空を自由に飛ぶ、大きな鳥がいいな」
少年の言葉が紡がれると同時、蝋燭の炎が揺らめき、広間は姿を変えた。
薄暗い畳の部屋は、雲一つない青空が広がる草原へ。
風が吹き、草が揺れ音を立てる。遠くで鳴く、甲高い鳥の声。
願った少年は静かに立ち上がり、空を見上げて眩しそうに目を細めた。
「これが……空。初めて見た。とっても綺麗で……飛べるかな……?」
鳥が鳴く。少年を呼ぶように、誘うように、軽やかな囀りが風に乗って響く。
その声に答えるように、少年は空に向けて手を広げた。
その手は指の先から色を、形を変えていく。白の羽毛に覆われて、風を受けて羽根が靡いた。
「飛べるかな」
繰り返し不安を口にしながら、白い鳥となった少年は大きく翼を広げる。風を纏い、ゆっくりと羽ばたいた。
遠く、空の向こうに鳥の影が見えた。近づくことのない影は、少年がここまで飛ぶのを待っているのだろう。
一声甲高く鳴き、鳥となった少年は柔らかな風を起こして空へ舞い上がる。瞬く間にその姿は遠くで待つ鳥の元へと飛び去って、辺りはまた薄暗くなっていく。
少年の姿が見えなくなれば、そこはまた蝋燭の明かりが照らす広間へと形を戻していた。
「――ちゃんと、飛べたな」
「飛べたね……本当に良かった」
子供たちが優しく笑う。少年がいた場所を見ながら、誰もが自分のことのように喜んでいた。
「――次は、どなたに致しましょう」
穏やかに、女性が問いかける。顔を見合わせた子供たちは、互いに頷き笑い合う。
「次はわたし!」
元気よく手を上げ、少女が立ち上がる。
「わたしはね、公園が良いの。桜がとっても綺麗でね……ママとパパと行った、最後の思い出の場所なのよ。だからもう一度、ゆっくり歩いて見たいの」
少女の言葉に、蝋燭の炎が揺らぐ。
そして広間は再び姿を変え、少女の最後の願いを映し出した。
「最後は貴女ですね」
一人の少女と女性を残し、広間には誰もいなくなった。
蝋燭は大分短くなり、炎は静かに揺らめきながら最後の願いを待っている。
「私はいらないわ」
だが少女は微笑み首を振る。女性に深く礼をして、静かに立ち上がった。
「本当によろしいのですか」
問う女性に、少女は小さく頷く。微笑むその目は、しかし悲しい色を湛えていた。
「願いはないの。見たい景色はないし、過去の優しい思い出も、今はとても苦しくなるだけだもの。偽物も嘘も、もうたくさん」
悲哀を滲ませる少女の言葉に、女性は何も言わずに蝋燭の明かりを消した。
刹那、広間は暗闇に沈む。女性が立ち上がる音が聞こえ、小さな音と共に淡い光が部屋を照らした。
「それならば、私と行きましょうか」
提灯を手に、女性は少女へと手を差し伸べる。少女は目を瞬き差し出された手を見つめ、迷うように視線を彷徨わせた。
戸惑う手を胸に抱き動けないでいる少女に歩み寄り、女性は優しく告げる。
「お嫌でなければ、私と共に参りましょう。大した話はできませんが、道中の退屈しのぎにはなりますから」
「でも……」
「向かう先は同じなのです……無理にとは申しません。どうぞご随意に」
少女の揺れる目が女性を見つめ、恐る恐る手が伸びた。女性の差し出す手と重ね、そっと握れば、女性もまた柔らかく握り返す。
ただそれだけの行為に、少女は俯き震える吐息を溢した。
「ありがとう」
「どう致しまして。では参りましょうか」
女性に促され、静かに歩き出す。手は繋いだまま、行くべき場所へ二人、向かっていく。
「――本当は、もう一度だけ誰かと手を繋ぎたかったの。願いが叶ってしまったわ」
「それは大変よろしゅう御座いました。私の手で申し訳ありませんが、少しでも貴女を満たすことができて光栄です」
提灯の灯りが、夜の闇を淡く照らす。
穏やかに語る二人を見守るように、提灯の中の蝋燭は微かに音を立て炎を揺らしていた。
20251107 『灯火を囲んで』