sairo

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11/8/2025, 5:40:44 AM

ほぅ、と手に息を吹きかける。
白い息が悴んだ指を温めて、空気に冷やされ消えていく。
寒い朝。季節が一つ、移り変わろうとしている。
支度をしなければ。窓の外を見ながら思う。
やがて訪れる、冬を迎え入れるために。

「頑張って、お役目を果たさないと」

囲炉裏に火を入れながら、決意を口にする。それだけで身が引き締まる思いがして、小さく握り拳を作り気合いを入れた。

冬を屋敷に迎え入れ、心を尽くしてもてなす。
それが自分の役目だった。
去年までは、祖母が仕切っていた。屋敷の隅々まで綺麗にし、丹精込めた料理を作る。この屋敷の主は祖母で、だからこそどこか安心していられたのだ。

――冬は、一等気難しいからねぇ。

祖母は何度も言っていた。
些細なことでも機嫌を損ね、屋敷から出て行ってしまうのだと。
屋敷を出た冬は荒れ狂う吹雪となるらしい。山を凍らせ、村を雪に沈めてしまう。
その話を最初に聞いた時、恐怖でただ泣いた。夏の季節でさえ、祖母のいない時には屋敷に近づこうとはしなかった。

屋敷の掃除をしながら、祖母を思う。
長い間、冬をもてなしてきた祖母がいたから安心できたのだ。祖母と暮らす選択をしたのは自分自身ではあるが、そこには少なからず甘えがあった。
祖母がいるから、大丈夫。冬の機嫌を損ねることは、決してない。
ずっとそう思っていた。
けれどももう、祖母はいない。以前の冬の終わり。屋敷を去る冬が、祖母を連れて行ってしまった。

「おばあちゃん……」

埃を落とし、床を掃く。窓を拭く手を止めず呟けば、胸が苦しくなった。
正しくもてなせなかった人を、冬は連れて行ってしまうのだと聞いた。
本当かどうかは分からない。少なくとも自分の目から見て、祖母のもてなしは完璧に見えていた。

――冬は、一等気難しい。

気難しいのか、それとも気まぐれなのか。冬と直接対峙したことがない自分には知りようがない。
小さく息を吐く。頭を振って、考えを散らした。
掃除が終わっても、やるべきことはたくさんある。いつまでも祖母に縋り、思って立ち止まっている暇などどこにもない。
もう一度出かかる吐息を呑み込んで、雑巾を手に台所へと向かう。
一人で料理を作るのは、今回が初めてだ。少しの不安を感じながらも、しかし進む足に迷いはなかった。



「おばあちゃんは、冬をお迎えすることが怖くないの?」

そう問いかければ、祖母は湯飲みを手に目を細めて笑う。

「そりゃあ、怖いさ。誰かをもてなすっていうのは、いつだって怖い」

もちろんそれは、家族である自分に対しても怖いのだと祖母は言った。
首を傾げる。遊びに来る度快く迎えてくれる祖母は、いつだって穏やかだった。嫌な顔をされたことなど一度もない。
顔には出さないだけで、本当は迷惑だっただろうか。不安になって俯けば、祖母は優しく頭を撫でてくれた。

「喜んでくれるのか。不快に思うことはないか……相手のことを思いながらおもてなしの準備をする時は、不安で怖くなるよ。冬だから、特別怖いってわけじゃあないんだ」
「でも、冬は怒ると怖いんでしょう?攫われて、食べられちゃうんだって、前に言ってたよ」

思い出して、ふるりと体を震わせる。その話を聞いた時には、しばらく一人で眠ることが怖くてたまらなかった。

「冬は寒くて、冷たいもん。見たことないけど、絶対に怖い顔をしているんだ」

想像上の怖ろしい形相をした冬に怯えていれば、祖母は楽しそうに笑い声を上げる。

「そんなことはないよ。冬は確かに寒さを運んでくるけどね。だからって怖い訳じゃない。本当は静かで、とっても優しいんだよ」

いいかい、と祖母は頭を撫でながら言う。その目はとても穏やかで、優しい光を湛えていた。

「どうか覚えておいておくれ。冬はとても寂しがり屋なんだ」
「寂しいの?」
「そうだよ。でもとっても我慢強いんだ。皆がゆっくり眠れるように雪の布団を掛けて、音を消してくれている。寂しいのにたった一人きりで、寝ずの番をしているんだよ」

だからせめて、少しでも快く過ごしてもらえるように精一杯のおもてなしをするのだと。
そう言って微笑む祖母が、とても優しい目をしていたから。恐ろしいはずの冬が、自分と似ていると思ったから。
だからこの時、冬をもてなす準備を手伝うことを密かに決めたのだ。



掃除を終え、料理もほとんどが完成した。
囲炉裏は一度火を消して灰を整え、新たに薪をくべ直してある。
囲炉裏にかけられた鍋から湯気が立ち上り、仄かに柚子の香りが漂っている。
祖母が教えてくれた鍋。何度も試作したおかげで、満足のいく味に整った。
神棚には新米や塩、酒を供え終わっており、日干しした布団の準備も、風呂も沸かしている。
祖母が行っていたことは、すべて行った。支度はすべて終わり、後は冬を待つだけだ。

「大丈夫かな」

それでも不安が込み上げる。食事は口に合うだろうか。湯の温度は熱すぎないだろうか。
掃除をしたばかりの床や壁が気になってしかたがない。
誰かを迎えることは怖いと言った祖母の気持ちが、今なら痛いほどによく分かった。

かたん。
玄関から、小さく音がした。
慌てて居住まいを正し、三つ指をついて頭を下げる。
玄関で迎えることを冬は好まない。屋敷に入り、もてなしを受けるかどうかは、冬の自由だった。
ぎし、と廊下が軋む音がする。入ってきてくれたのだろうか。
胸の鼓動が、痛いほどに激しくなっていく。緊張で震える体に力を入れて、頭を下げ続けた。

不意に、冷たい空気が流れ込む。囲炉裏の側にいるというのに、きん、と冷えた外の匂いがした。
囲炉裏の火の暖かさを感じられない。床にうっすらと霜が降りていく。凍てつく空気が頬を掠め、そっと頭に誰かの手が触れた。

「――っ」

頭を撫でられる。まるで支度が無事に済んだことを褒めるように、優しい手が触れている。
冷たいのに暖かい。その手を、撫で方を、自分はよく知っている気がした。
静かに手が離れ、頭を上げる。
入口に、白い影が佇んでいた。その影に寄り添うように粉雪が舞い、消えていく。
息を呑み、笑みが浮かぶ。
やはり、祖母のもてなしは完璧だったのだ。

「ようこそ、おいでくださいました」

深く頭を下げ、冬を招き入れる。
体の震えはない。迷いも怖れもなくなった。
祖母に教えられた通りに。そして祖母以上のもてなしを。

「今年も訪れてくださり、真にありがとうございます。どうぞ、ごゆるりとおくつろぎください」

微笑めば、冬もまた優しく笑った気がした。



20251106 『冬支度』

11/7/2025, 9:47:58 AM

「どうしたの?」

問われて、何でもないと首を振る。
静かな部屋に、二人きり。彼女の声以外に音はない。
花も虫も、風や月でさえ僅かにも動かず、時を止めてしまった。
もう一度、首を振る。もしかしたら首を振っていると思っているだけで、体は少しも動いていないかもしれない。

「大丈夫」

優しい声音で囁いて、頬を撫でられる。
冷たい指だ。血の通っていないような、凍ってしまったかのような指。
時を止めてしまった部屋に二人。自分と、もう一人。

頬を撫でるこの指の主は、一体誰なのだろう?



「また、あの夢……」

目が覚めて、思わず溜息を吐いた。
窓の外を見る。雲一つない快晴は、夢とは正反対だ。
数日前から見るようになった夢はいつでも暗く、とても静かだ。姿の見えない彼女が誰なのか、未だに分からない。

「おはようございます」

巡回に来た看護師の声に、頭を振って意識を切り替える。
夢の内容をいつまでも気にしている場合ではない。
早く退院して、元通りの生活に戻らなくては。でなければ、今日もまた責任を感じた後輩が見舞いにやってくるのだろうから。
何度も聞いた、涙声のごめんなさいの言葉を思い出し苦笑する。足を滑らせ川に落ちた後輩を助けたことに後悔はない。気にするなと何度も言っているというのに、真面目な後輩は毎日欠かさず見舞いにくる。

「おはようございます。体温測定をお願いします」

後輩のことを思い出していれば、挨拶と共に看護師に体温計を差し出された。いつものように体温を測り、看護師へと手渡す。

「35.2℃。今日もまた低いですね。何かありましたら、すぐにナースコールを押してくださいね」

微かに眉を顰める看護師に、頷いて逃げるように窓の外へと視線を向ける。
川で溺れかけた後から、体温は低くなった。あまり実感はない。

「そういえば……」

ふと気づいたことがあった。

時が止まった部屋の夢を見るようになったのは、おそらく溺れかけた後からだ。



暗い洞窟を、彼女に手を引かれて歩いていく。
左右には、氷漬けにされた植物や動物が並んでいる。

「氷の中に閉じ込めて、時を止めているの」

振り返らず彼女は言う。

「そうすれば、永遠にここにいてくれるでしょう?」

彼女の手にする提灯が揺れ、影が揺れ動く。
動いているのは自分と彼女だけ。他の生き物は皆、時が止まったまま。
寂しくはないのだろうか。ふと込み上げる疑問に、彼女を見た。
彼女は足を止めず、振り返ることもない。提灯の灯りが陰を作り、彼女の顔が分からない。
問いかけようと口を開きかけ、けれども彼女は不意に立ち止まる。
ここが洞窟の終わりらしい。

「皆同じ。植物も、動物も……人間だってそう。氷の中に入れて時を止めていれば、ずっとここにいてくれる」

彼女は提灯の灯りを、奥の氷の壁に向け翳した。
灯りに照らされたそれを見て、目を見張り息を呑む。
目が逸らせない。声が喉に張り付いて、何一つ言葉が出てこない。

氷の壁の中で眠る、一人の成人男性。

それは、数年前に行方不明になった父だった。



はっとして、目を開けた。
暗い部屋の中で、機械のアラーム音が鳴り響く。視線を動かして周りを見れば、いくつもの機械から伸びた管が自分に繋がっているのが見てとれた。
外が騒がしい。扉が開いて、医師や看護師が慌ただしく入ってくる。
皆険しい表情をしていた。自覚はないが、寝ている間に何かがあったのかもしれない。

「私の言葉が分かるかな」

医師に問われ、小さく頷いた。口を開いても、掠れた吐息しか出なかった。
いくつかの質問やバイタルのチェックをされ、ようやく医師は僅かに表情を緩めた。

「急に状態が悪化してね。一時は昏睡状態に陥っていたんだよ」
「え……」
「状態は安定しているようだし、もう大丈夫だろう。明日には面会謝絶を解くが、来週の退院は念のため延期だよ」

退院が伸びたことに、肩を落とす。だが仕方ない。退院後に状態が悪くなるより良いと自分に言い聞かせ、ベッドに横になった。


次の日。
見舞いに来た母に泣かれ、面会謝絶でも毎日来ていたらしい後輩にも、泣かれた。

「ほら、お兄ちゃん。そんなに泣かないの。迷惑でしょう?」
「だって……俺のせいで、先輩が……!」

後輩の背を撫でさすりながら冷静に言い放つ、後輩の妹らしき少女。辛辣ではあるが、仲睦まじい様子に笑みが浮かぶ。
けれども、ふと違和感を感じた。

「なぁ」
「はい。なんでしょう?」

少女に渡されたハンカチで涙を拭きながら、後輩はこちらに視線を向ける。
後輩は普段と変わらない。だが違和感は続いたままだ。

「お前って……妹、いたんだ」

自分でもよく分からない違和感に眉を寄せながら呟けば、後輩はきょとんと目を瞬いた。

「何ですか、急に?休みの日なんか、こいつも一緒に先輩の所に見舞いに来ていたじゃあないですか」

そう断言されると、確かに後輩の隣にいた少女の記憶が浮かぶ。
違和感は、気のせいなのかもしれない。きっと体が本調子ではないからなのだろう。

「頭、ぼけてるかもしれないな。昏睡状態だったらしいし」
「すみません!俺が、あの時もっと足下を見ていれば……!」

また泣き始めてしまった後輩に苦笑して、少女に視線を向けた。
相変わらず後輩の背を撫でながら、少女はこちらを見つめ、静かに目を細めた。



洞窟の中に一人きり。父が眠る、氷の壁の前で立ち尽くしていた。
何故、父はここにいるのだろうか。仕事で山に向かい、そのまま帰って来なかった父を思う。
ふと、父の右足が気になった。氷に阻まれ、服に隠れてよく見えないが、欠けている気がした。
父の顔を見上げる。眠っているように見えるが、血の気が失せた顔をしている。

――助からなかったのか。

ふと思い浮かぶ言葉に目を見張り、振り向いた。
足早に他の動物たちの元へと向かう。一つ一つ確認すれば、それぞれ皆、致命傷となる傷を負っているように見えた。

「――あぁ」

思わず、声が漏れた。
彼女が時を止めた理由が、分かったような気がした。



目が覚めると、辺りは暗くとても静かだった。
まるで何度も夢に見た、時を止めた部屋のようだ。
サイドテーブルの灯りを点ける。体を起こし、辺りを見渡した。

「やっぱり、君はあいつの妹じゃないね」

部屋の隅で静かに立ち尽くす少女に向けて、そっと声をかけた。

「聞きたいことがあるんだ」

近づく少女を見つめ、問いかける。彼女は何も言わず側に来て、小さく首を傾げた。

「君が時を止めるのは、それしか助ける方法がなかったからじゃないかな」

息を呑む音がした。
少女の瞳が揺れている。泣きそうに顔を歪め、唇を噛みしめ俯いた。

「俺は低体温症を引き起こしていたけど、そのおかげで助かったんだってきいた……君が助けてくれたんだよね」
「違う……ただ、運が良かっただけ」

そっと少女は呟く。俯いたまま、ぽつりぽつりと語り出した。

「皆、倒れたまま動かなかった。でもそのままにできなくて、凍らせたの。あなたも、あの人間も同じ。動かなくて、息をしていなくて……時を止めることしかできなかった」

俯く少女の目から滴が溢れ落ちた。それは一瞬で凍り、足下に小さな氷が散らばっていく。

「助けたかった。でも誰も助からなかった。それを認めるのは怖くて、時を止めたままにしていたの」
「そっか……でも君が助けてくれたから、俺は助かったよ」

小さく肩を震わせ、少女は顔を上げる。凍った涙を浮かべ、戸惑いを浮かべてこちらを見た。

「私、助けた?」
「うん。助けてくれた……ありがとう」

礼を告げれば、少女は不思議そうに目を瞬き、少し遅れてはにかんだ。それに笑みを返して、手を差し出す。

「助けてくれたお礼をさせてほしい。俺にできることで、何かしてほしいことはある?」

そう言うと、彼女は眉を下げ視線を彷徨わせる。怖ず怖ずと差し出す手に自らの手を重ね、そっと握った。

「友達に……なってほしいな。また、お見舞いに来たい」
「え?」
「駄目、かな?」

反射的に首を振る。手を握り返し、力強く振った。

「これから、よろしく」
「っ、うん!」

顔を寄せ、微笑んだ。
手を離し、また明日とその手を振る。控えめに手を振り返して、少女の姿は暗がりに消えていった。
灯りを消して、ベッドに横になる。すぐに訪れる睡魔に、そのまま身を委ねた。
明日も彼女は見舞いに来てくれるだろう。

明日を楽しみに、笑みを浮かべて夢の中へと沈んでいった。



20251105 『時を止めて』

11/6/2025, 9:41:57 AM

枯れない花があるという。
その花を見ることができたのならば、好きな人と結ばれる。そんな噂があった。
所詮、噂は噂。自分の周りで、実際に見たという話は聞かない。
先輩の友達が。クラスメイトの従姉妹が。隣町の誰かが。
すべてが伝聞で、本当かどうか確かめようがない。
小さく溜息を吐いた。噂に踊らされるなど馬鹿らしいと思いながらも、咲いている花を見るとつい気になってしまう。
そもそもどんな花なのか。噂では花としか聞かず、名前も姿形も分からない。
もう一度、溜息を吐く。視界の隅で揺れる、咲き終わりのコスモスを横目に、早く帰ろうと足を速めた。



放課後。いつものように部活を終えた帰り道。
ふと、甘い匂いがした気がして立ち止まる。
お菓子など、食べ物の匂いではない。ふわりと控えめに薫るのは、花の匂いだ。
辺りを見渡しても、それらしい花は見当たらない。風に乗って届く花の匂いが気になって、香りを便りに辺りを探す。同時に薫る花の名を思い出そうと記憶を辿った。
知っているはずだった。確か、少し前まで毎日のように薫っていたような気もする。
思い出せないもどかしさに眉を寄せながら、道を進む。住宅街を抜けて、寂れた神社の前まで辿り着いた。
花の香りはこの先からしている。

「――思い出した」

ふと思い出した。
甘く、尾を引く香り。
その花の名前を。

「キンモクセイ、だ」

思い出して、けれども今度は疑問が残る。
キンモクセイの花の時期は疾うに過ぎている。近所の木もすべて花が散り終わって、地面に散らばる橙の花の名残すらすべてなくなってしまった。
それに、と密かに困惑しつつ、神社に足を踏み入れる。
この神社の裏手に、確かにキンモクセイの木はあった。しかし今は、もうないはずだ。
一ヶ月ほど前に、キンモクセイの木は急に枯れてしまった。
原因は分からない。古い木だから、何かの病気になっていたのだろうと近所の人たちが話しているのを聞いた。
枯れた木は危ないからと、切り落としてしまったはずだった。

枯れてしまったキンモクセイ。切り落とされてしまった老木。
なのに何故、花の香りがするのだろう。

神社の裏手に回る。
キンモクセイの花の香りが強くなる。
その中に、微かにお香のような匂いが混じった気がして、気がついた時には、空気が変わっていた。


「――あ」

思わず立ち止まる。
足下に一面広がる、橙の花。
風もないのに花が散り、その度に甘い香りが広がっていく。
見上げる木には満開のキンモクセイの花。散っても散っても、花は変わらず満開のまま。
枯れない花。そんな噂が頭を過ぎたが、それは違うと思い直す。
枯れないのではない。キンモクセイが散る、その一瞬でこの場所は時間を止めてしまったのだ。

異様な空間に怖くなって、一歩足を下げた。視線を彷徨わせ、そこで初めて木の根元に誰かが座っていることに気づく。
男の人の膝を枕に横たわる、年老いた女の人。
そう見えた。見えたはずだった。

「え?あれ?」

なのに一瞬目を逸らした瞬間、女の人の姿が若返っていた。
自分と同じくらいの少女が、眠っている。

「迷い込んでしまったのですね」

不意に、男の人から声をかけられた。突然のことに、小さく肩が震わせながら男の人へと視線を向ける。

「ごめんなさい。このままではいけないと、理解はしているんです。けれど、もう少しだけ……本当にごめんなさい」

少女の頭を撫でながら、男の人は謝り続ける。
酷く悲しげな声だった。泣きたいのを堪えているような感じがして、怖さがなくなっていく。
少女は目を覚まさない。もしかしたら、ずっとそのままなのかもしれない。
何故か胸が苦しくて、泣きたいくらい痛くなった。

「謝らないでください。えっと……私は、大丈夫ですから」

慰めにもならない台詞を吐けば、男の人が顔を上げてこちらを見た。眉を下げて、それでも笑みを浮かべてくれる。

「ありがとう。もう少しだけ、彼女と一緒にいさせてほしい」

そう言って、男の人は少女を見つめる。好きがたくさん詰まったような、優しい目をしているのが分かった。

「好き、なんですね。その人のことが」

気づけば言葉に出していた。
驚いたように顔を上げた男の人は、くしゃりと泣くように笑う。キンモクセイの花を見上げて、そうだね、と呟いた。

「好きだよ。大好きだ。記憶が散っても、この気持ちは消えなかったくらいに」

キンモクセイの花が散る。少女の上に降り積もって、とても綺麗な光景だった。

「花が散ると記憶も散ってしまう。だから何度も散りたくないと願った。彼女の側に、いつまでもいたかった。好きだと、一言だけでも告げたらよかった……でも、いつまでもこの場所に彼女を縛りつけられないから、いかないと」

急に強い風が吹いた。
地面に散った花を巻き上げ、目の前を覆い隠してしまう。

「ありがとう。君には後悔しない選択をしてほしい。俺と違って、君は同じ人間に恋をしているのだから」

男の人の声が聞こえた。風は益々強くなって、目を開けていられない。
一際強い風が吹く。甘く、切なくキンモクセイが強く薫って消えていく。

次に目を開けた時にはキンモクセイの木は消え、男の人たちもいなくなっていた。
目の前には、小さな切り株がひとつ。鼻の奥に残る香りが、ここにキンモクセイの木があったことを示していた。

「後悔しない選択……」

男の人の言葉を繰り返す。
大好きな先輩の姿を思い浮かべてみる。卒業後は県外の大学に進学するのだと、先輩は言っていた。
卒業まで、数ヶ月。あと何回、会うことができるのか。

「後悔しないように」

もう一度、呟いてみる。柔らかな風が吹いて、背中を押してくれた気がした。

強く頷いて走り出す。ポケットからスマホを取り出し、アドレス帳から先輩の名前を探す。
走りながら、迷わず通話をかけた。

「――もしもし」

数コールの後、先輩の声が聞こえた。震えないように声を張り上げる。

「あのっ!突然で申し訳ないのですが、今から会えませんか!」
「え?いいけど……どうした?」

不思議そうな先輩の声に何でもないと返して、待ち合わせる。
通話を終えてスマホをしまうと、走る速度をさらに上げた。

「後悔しない。絶対に」

どんな結果になろうと、伝えられない後悔よりはよっぽどいい。
さっきの男の人の姿を思い出そうとして、思い出せないことに気づいた。滲んでぼやけて、輪郭すら曖昧だ。
記憶が散ってしまったのだろうか。
きっとそれが正しい。何故かそう思った。

「頑張りますから」

思い出せない姿に告げる。
甘く優しい、キンモクセイが香った気がした。



20251104 『キンモクセイ』

11/5/2025, 9:44:07 AM

――行かないで。

呟いたはずの言葉は、けれど声にならず空気に解けていく。
遠くなる背をただ見送りながら、強く唇を噛みしめた。

「行かないで」

言葉が声になっても、もう誰もいない。
一人きり。待つのは苦手だ。
無理矢理に口角を上げてみる。いつものように大丈夫と心の中で繰り返す。
ぴり、と。噛んだ唇が痛み、誤魔化す自分を責め立てた気がした。

「行っちゃったね」

足下の影が囁いた。

「行かないでって、言えばよかったのに。いつまでも嘘を吐いていると、いつか本当になっちゃうよ?」
「――本当になればいい」

俯いて、首を振る。本当になればいい。心から大丈夫だと、笑って見送れるようになれば、きっとこの苦しさから解放されるはずだ。

「後悔するよ」

影は言う。呆れたような、悲しんでいるような声音だった。

「後悔しない。後悔できるはずがない……大丈夫って心から思えるようになったら、きっと私は待たない。先に進んでいく中で後悔の苦しさを感じても、それが何の後悔かは分からないのだから」

後ろを振り返り、届かなくなったものを思うからこその後悔だ。前だけを見て進んでいるのなら、後悔のしようがない。

「――そうだね。私は後悔しないんだろうね」

小さく影は呟いて、ゆっくりと起き上がる。両手を繋ぎ、影は笑った。

「しばらくその嘘を本当にしよっか。後悔したら戻してあげる」

繋いだ手から、反転する。影が自分に、自分は影に。
そうして成り代わった影は、笑って手を離した。

「もう一度元に戻るまで、ゆっくりとお休み。早く戻れればいいね」
「戻れなくてもいいよ」

静かに告げて、地面に落ちていく。心は凪いでいたが、成り代わった影の笑顔は悲しげだったのが気になった。





「何かあった?」
「え?何が?」

唐突な問いかけに、意味を図りかねて首を傾げた。
何か、とは随分と抽象的な言葉だ。日々を過ごす中で些細な変化など常にある。それを一々報告することは、ただの時間の無駄に過ぎない。
だが真剣な彼の目は、そんな小さな何かではないと語っている。見極めるようにこちらを注視し、そしてある一点を見て目を細めた。

「俺のやったお守り、今日は着けていないんだな」

言われて、右手首を持ち上げ視線を向ける。そこに普段着けているはずのブレスレットはない。

「どこにやった?」
「さあ?どこだったかな。覚えてないや」

呟けば、彼の目が鋭くなった。持ち上げていた手首を掴まれ、至近距離で目を合わせられる。
強い目だ。それでいて必死な目。思わず笑いが込み上げる。

「あのさ。そうやって必死になりすぎると何も見えなくなっちゃうって、気づいた方が良いと思うよ」

彼の目が揺らぐ。微かな困惑が目の奥に見えるが、理解している様子はない。
相変わらずの鈍感さだ。溢れそうになる溜息を呑み込み、口を開く。

「いかないでって、願われたから私はここにいるの……置いていくくらいなら、いっそ完全に手を離してほしい」

息を呑む音。手首を掴む力が弱まり、そっとその手を離した。

「俺は……そんなつもりじゃ……」

分かっている。だからこそ、今までずっと何も言わずにいたのだから。
でも何事にも、限界というものはある。

「――待たなくていいかなって、私はそう思ったの」
「え?」

呆然とこちらを見つめる彼に、静かに微笑んで見せる。

「さよならすることを大丈夫って心から思えるようになったら、これを最後に待つのを止めようって思った」
「なんで……」
「そうしたら、先に進めるでしょう?私も……あなたも」

無理矢理にでも先に進み始めたら、きっといつか心から笑うこともできるのだろう。全部過去の思い出にして、穏やかに今日のことを語れるはずだ。

「そんな、こと……嫌だ……」

彼も理解している。ただ感情が、想いがそれを拒んでいる。
震える手が伸びるのを、そっと距離を取り否定する。静かに泣く彼を見て、足下の影が微かに揺らいだ気がした。

「――いかないで」

微かな声に、何も言わずに彼を見る。

「置いていかないでくれ。もう少し……もう少しだけでいいから。それが駄目なら、どうか」

膝をつき、俯く小さな姿に動揺した影が起き上がる。
続く言葉を怖れているのだろう。その必死さに苦笑して、そのまま入れ替わった。

「どうか――」
「いかないよ!まだ、どこにもいかないから」

強く彼を抱き締める私は、泣きながらいかないと繰り返す。
この際だからすべて曝け出してしまえと私の背を叩く。小さく背を震わせてこちらをちらりと振り返る私に、頑張れと手を振りつつ影に戻った。

「あの、ね……」

視線を彷徨わせながらも彼に向き直り、口を開く。

「行かないで、ほしかった」

目を瞬く彼の胸に顔を埋める。優しい温もりと匂いに勇気を貰い、顔を上げて彼と目を合わせる。

「行かないでって、ずっと願ってたの。でもいつも立ち止まって、戻ってきてはくれなかった」

彼の目が驚いたように見開かれた。それに力なく笑みを返し、彼が何かを言う前に思いを口にする。

「私のために、色々頑張ってくれているのは分かるの。でも……一人になると、寂しくなる。夜が怖くて、このまま朝を待てなくなりそうになる」

だから、と続くはずの言葉は、彼に強く抱き締められたことで途切れてしまう。

「ごめん」

謝る声が震えている。どちらともなく嗚咽が溢れ、抱き合ったまま二人で泣いていた。



「――帰ろうか」

しばらくして、そっと彼が囁いた。顔を上げれば、彼は泣き腫らした赤い目をして微笑んだ。

「俺たちの家に帰ろう」

その言葉に、また涙が溢れ落ちていく。言葉が出ない代わりに、強く頷いた。
そっと影を見た。もう影は何かを語る様子はない。

ただ笑われているような気がして、急に恥ずかしくなった。

「どうしたの?」

不思議そうな顔をする彼に、何でもないと首を振る。

「行かないでって、心の中で願っていた時は叶うことはなかったのに、言葉にしたら叶っちゃったなって」

そう言って笑えば、彼もまた笑ってごめんと呟いた。



20251103 『行かないでと、願ったのに』

11/4/2025, 5:34:05 AM

ことり、と棚に箱を置く。
数を確認して、深く溜息を吐いた。
ようやく元通りになった棚は、何も変わらないとばかりに佇んでいる。

「疲れた」

言葉にすれば、余計に疲労を感じてしまう。
今日はもう休もう。
そう決めて、しっかりと棚に鍵をかけた。



次の日。
いつものように部屋に入れば、棚の中は空だった。

「は?……え?」

状況が理解できず、硬直する。確かに鍵をかけたはずで、その時には箱は一つも欠けなく揃っていたはずだった。

「なんで?……え、どうして?」
「どうした?何かあったか?」

部屋の入口から動けないでいる自分に気づき、従姉妹が声をかける。肩越しに中を覗き込み、状況を理解して豪快に笑い声を上げた。

「な、何を笑って……また、箱が……!」
「心配しなさんな。箱はどこにも行ってない。ちょっと形を変えただけさ」

背を押され、部屋の中へと入る。棚に近づけば、その変化にようやく気づいた。
箱は一つも消えてはいない。ただ見えなくなっただけだ。

「いやぁ、こうしてみると個性があっていいねぇ」

従姉妹は楽しそうに笑って見ているが、自分にはそんな余裕は欠片もない。
棚に収まっている箱は、それぞれ誰かの秘密を閉じ込めているのだから。
箱に閉じ込められ、封じられていたはずの秘密。箱が透明になったことでその内側が透け、露わになってしまっている。
小さな嘘から禁を犯した大きなものまで、様々な秘密がその場面を只管に繰り返している。

「面白いねぇ。ほら、これなんていけ好かない叔父殿の秘密じゃあないか?」

棚の上段。右側にある箱を指差し、従姉妹は言う。視線を向ければ直視したくない光景が目に入り、慌てて視線を逸らした。

「な、なんで、そんなに平然を見てられるんですかっ!ここにあるのは秘密なんですよ!見ず知らずの他人の知られたくないことを、そう簡単に……!」

思わず声を荒げてしまう。
だが仕方がない。今は棚に収まっている箱は先日まで、自身の中身を満たすために棚から逃げだしていたのだから。すべて集めることができたものの、箱はすべて中身が満たされた状態だった。誰のものかも分からない秘密を覗き見る訳にもいかず、どうするべきかを悩んでいたというのに。

「相変わらず真面目だなぁ。心配しなくとも、ここに収まっているのは本家や分家の者たちの秘密だよ」

けらけらと、従姉妹は笑いながら箱を示す。
差し締めされた箱は、確かに見覚えのある人たちの秘密のようだった。
だからといって、気軽に見れるものではない。眉を寄せて従姉妹を見れば、彼女はこちらの考えなど見透かしているような顔をして、それに、と言葉を続けた。

「箱の中に収まっているということは、持ち主はそれを手放したってことだ。そして新しく持ち主となった箱は、それを内包するのではなく外へと誇示した……子供が作る標本のようなものさ。秘密の標本だ」
「秘密の、標本……」

棚の中の箱を見る。相変わらず箱は透明で、中身が曝け出されている。
子供が自身の捕らえた昆虫を磔にし、箱に収めて周囲に見せるようなもの。そう考えると、焦りや不安が消えていくような気がした。
小さく息を吐く。従姉妹は標本として晒されている秘密を見ながら、ふと何かに気づいたのか小さく首を傾げた。
考え込む姿に、不思議に思って声をかける。

「どうしました?」
「いや、なんていうか……秘密というのは、本来誰にも知られないように隠すからこそ秘密なんだ。それがこうして人目に晒されているとなると……それは秘密ではなくなるな」
「確かに……」

従姉妹の言葉に、思わず頷いた。
露わになった秘密は、秘密とは言えないだろう。

「隠されていたとはいえ、これらはすべて過去に起きた事実だ。そこにある分家の坊主のつまみ食いも、そっちの隅の曾祖父の隠し財産も……隠していたからこそ秘密であったものは、今やただの過去だ」
「えっと……つまり……?」

冷や汗をかきながらも、分からない振りをしてみる。
無駄だとは分かっているが、事実を受け止めるだけの覚悟を持てそうにはなかった。
だが従姉妹は眉を顰めて首を振る。諦めろと暗に言われ、嘆息して項垂れた。

不意に、部屋の外から甲高い悲鳴が聞こえた。箱を一瞥し、従姉妹と顔を見合わせる。

「今のって……」
「ただの過去となった秘密だったものが、周囲に認識されだしたんだろうな」

従姉妹の言葉に、口元が引き攣った。
もう一度、箱の中身を見る。
つまみ食いなど、小さな秘密はまだいい。問題は、隠し財産などの大きな秘密だ。
ばたばたと、何人もの人が忙しなく走り回っている音が聞こえる。一方的に相手を責め立てる金切り声。怒声や悲鳴がひっきりなしに聞こえている。

「当分はここでおとなしくしていた方が吉だな」
「そうですね」

苦笑する従姉妹の言葉に、力なく同意する。
面倒なことになったものだ。ここ数日、休みなしに逃げ出した箱を追いかけていたというのに、まだゆっくりとはできそうにないらしい。
溜息を吐く。眉を寄せて箱を睨むが、元に戻る様子はない。

「そう疲れた顔をするんじゃないよ。折角だから、どの秘密が一番被害が大きいか、予想してみるのはどうだい?面白そうじゃあないか」
「結構です。そこまで悪趣味ではありません」

けたけた。けらけら。
従姉妹の笑う声に合わせて、箱も笑う。
呑気なものだ。面倒なことに巻き込まれ兼ねないというのに。
外ではまだ、騒がしさが続いている。収まる気配は微塵もない。

喧騒と。笑い声と。
聞いている内に疲れを感じて、何度目かの溜息を吐く。
早く収まってほしい。
叶うことがないだろう願いを思いながら、八つ当たり気味に従姉妹の背を叩いた。



20251102 『秘密の標本』

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