sairo

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10/28/2025, 6:50:59 AM

「ねぇ。君は、本当に〝君〟なのかな?」

鏡の中の自分が問いかける。
くすくすと笑いながら、自身の姿を示すようにくるりと回ってみせる。

「始まりの〝君〟と、今の〝君〟と……本当に同じだって言えるのかな?」

時間が巻き戻っていくように、鏡の中の自分の姿が縮んでいく。小さな赤子になり胎児になって、そのまま消えていってしまう。

「髪も、皮膚も、細胞すら、全部が入れ替わっているのに、その体は本当に君のものだと言えるの?肉体だけじゃないよ。真っ白だった君は、成長の過程で知識、経験を得て、常に他者の影響を受けてきているけど、それは果たして君自身の意思だと本当に言えるの?」

耳元で自分が囁く。鏡の向こうの、消えた自分が笑っている。

「見えているもの、聞こえているもの。君の五感で感じられるすべては、他者と同じとは限らない。君自身について考えているその思考、感情、言葉を交わそうとする意思は、必ずそこに他者が絡み、ただの模倣でないとは言い切れない……記憶、魂ですら曖昧で、君の証明にはならない」

鏡の向こうの自分が問い続ける。目を閉じ、耳を塞ぎたいのに体は硬直したまま、鏡から目を逸らせない。
目眩がした。感覚が酷く曖昧で、自分という存在がこのまま解けていきそうだ。

「ねぇ。〝君〟とは、一体誰なんだろうね?」

囁く声に何も答えられず、そっと目を伏せた。



「自分自身とは何か、か……随分と面倒な問いを抱えているな」

話を聞き終えて、彼は重苦しい溜息を吐いた。

「そもそも、なんで私にそんな話をするのか……哲学的な話は専門外だ」

そう言って立ち上がり、彼は黒板に数字と記号を書いていく。
自分には理解できない難しい数式が広がっていく様は、花開いていくようでとても美しい。

「どんな数式も紐解いていけば、必ず答えに辿り着く。だが君のそれには答えが存在しない。どの答えも正しく、誤りであるからだ」

彼の手が止まった。一つの結論を導き出して、数式が完成している。
言いたいことが分からず何も言えないでいれば、彼はこちらを振り向いてゆっくりと口を開いた。

「君は自分自身を、どのように定義している?」
「定義……?」

分からないなりに、必死で思考を巡らせる。
自分と他人と。違うものは何だろうか。何があれば、自分と胸を張って言えるのだろう。
眉が寄る。いくら考えても明確な答えのでない問いに、嘆息しながら思いついたひとつを口にする。

「名前……だと思います」

自信なく答えれば、彼は目を逸らさずはっきりと頷いた。

「そうだな。名というのは、個を明確にする最適な手段だ。名があるから区別され、正しく認識が行える」

けれども彼の表情からは、それが求めている答えではないことが察せられた。それ以外の答えを必死に考えるが、もう何も思いつかない。

「先生……まったく分かりません」

途方に暮れて項垂れた。
自分とは何なのか。考えるほど分からなくなってしまう。鏡の中の自分が言っていたように、自分は本当に自分でなのかも自信がない。

「別に頭が良い訳ではないし、運動ができる訳でもない。特別な能力とかも持っていないし……これが自分だって、自信を持って説明するものが何もないです」

彼が深く溜息を吐く。恐る恐る顔を上げれば、彼は再び黒板に向かっていた。

「最初にある数が在るとする。それはx《未知数》だ。その数は他の数との関連性から明らかにすることができる。それはつまり、他者がいなければ明らかにならないということだ。xはxのまま。だが明らかにならないとしても、その数が変わることは決してない」

確かに分からないからといって、その数が勝手に変わることはないだろう。
それは理解できたが、彼が何を言いたいのかは分からない。首を傾げていれば、こちらを一瞥した彼が再び溜息を吐いた。

「人も同じだ。他者や環境の影響、関わりによってその者の能力は露わになるが、その者自身は変わりようがない……変わらないその部分を、私はその者の本質だと考えている」
「本質……」
「君の中にもあるだろう?譲れない想い、自身の確固とした意志が」

胸に手を当てる。とくとくと緩やかに鼓動を刻む心臓の音を感じながら、考える。
自分の思い。考え。たったひとつの意志を。
すぐに浮かび上がるのは、一人の姿だった。
ふふ、と思わず笑みが浮かんだ。

「――先生」
「何だ?」
「先生です。譲れないもの。私の定義」

彼の目が呆れたように細められる。
でもこれが正しいのだ。
彼の側にいること。彼を幸せにすること。
両親の代わりに色々なことを教えて育ててくれた彼が、自分という存在の証明だった。

「ありがとうございます……今日はよく眠れそう」
「――よく分からんが、それは良かったな」

立ち上がり、礼をして教室を出る。重苦しかった足取りは、今は軽やかだ。
今夜は、はっきりと答えを述べられる。今から夜が楽しみだった。



「答えは出た?君は本当に〝君〟だと言える、絶対的な答えが」

鏡の中の自分が問う。
それを真正面から見据える。笑みを浮かべ、高らかに答えた。

「先生だよ。先生がいるから私がいる。体が変わっても、関係性が変わっても、先生の隣にいること。それだけは絶対に変わらない、私の本質だよ」

鏡の中の自分も笑う。きっと今の自分の笑顔と同じだろう。

「じゃあ、隣にいるために君ができることは何?」

自分が問う。
彼のためにできること。彼を幸せにする方法。

「そうだなぁ。先生の負担を減らせるように、家事をもっとこなせるようになるとか?料理とか、もっとレパートリーを増やしたらいいかな」
「なら、まず何をするべき?その目的のための過程をどうやって辿っていく?」

問いかけは終わらない。
彼のためではなく、自分のため。自分の本質をなくさないための、問いは尽きることがない。

笑みを浮かべ、思考を巡らせる。
自分自身から目を逸らさず、思いつく限りを言葉にしていった。



20251026 『終わらない問い』

10/26/2025, 2:39:20 PM

赤や黄色に色づいた葉に紛れ、空から白い何かが舞い降りてきた。
手を伸ばし、風と踊るそれを掴み取る。見ればそれは、小さな白い羽根だった。
辺りを見渡しても、この羽根の主は見当たらない。
落ち葉よりよほど軽い羽根。陽に翳しながら見つめていれば、突然駆け抜けた一陣の風に乗り、羽根は空高く舞い上がった。

「――あぁ」

不意に込み上げる感情に、思わず胸に手を当てた。悲しくなどないはずなのに、涙が流れ落ちる。
空を見上げても、あの羽根はもうどこにも見えない。

行かなければいけない。
漠然とした思いに突き動かされ、足は自然と動き出していた。

羽根を追いかけ、風に背を押され、只管に歩いていく。
何処へ向かうのか、何故向かうのか。何一つ分からないままに、それでも足は止まることはない。
視界が悪いのは、涙が止まらないからだ。そのせいで自分が今、どこを歩いているのかも分からない。
涙を拭う。僅かに輪郭を取り戻した世界は、けれどもすぐに滲んでしまう。
涙が止まらない。何故泣いているのかも分からないのだから、止めようがない。
諦めて、もう一度涙を拭おうとした手を下ろす。幸い向かう先は、滲む視界でも分かるほど平坦な道だ。段差や障害物などは全くない。
足は止まらない。風が強く背を押した。きっと向かう先に答えはあるのだろう。
そう思い、ただ前だけを見て歩き続けた。



しばらく歩き、辿り着いたのは寂れた神社の裏手だった。
背を押していた風が止まり、足もまた止まる。
目の前には小さな社。ぼんやりと滲んで揺れている。

ばさり、と。
上から音がした。
見上げれば、大きな白い何かがいた。滲む視界で、白い塊が木々の合間に佇んでいる。
鳥だ。何故かそう思った。
大きな白い鳥が翼を折りたたみ、木の上からこちらを見下ろしている。ずっとこの寂しい場所で、一羽で待っていたのだ。
途端に胸が苦しくなった。息が詰まり、嗚咽が溢れ出す。
何も分からない。分からないのに知っている。その矛盾に目眩を覚えながら、そっと鳥に向けて手を広げた。
ただ抱き締めたい。理由の分からない想いが、鳥《彼女》に触れたいと願っていた。

ばさり、と。
翼を広げて、彼女は静かに社の前に降り立った。
待ってくれている。そう思った瞬間、足は彼女に向けて駆け出していた。
涙を拭いながら、彼女の胸の中に飛び込む。強くしがみつけば、しっかりと抱き返してくれるそれは人の腕だ。

「しばらく会わない内に、随分と泣き虫になったんだね」

静かで優しい声音。微笑む彼女の姿が溢れる涙で滲み、白の鳥に成り代わる。
何か言わなければ。気持ちは焦るが、口から溢れるのは嗚咽のみ。何度もしゃくり上げながら、震える唇と喉を必死で動かした。

「――ただいま」

間の抜けた声に、それでも彼女は笑う。

「うん。おかえり……この言葉が正しいかどうかは分からないけどね」

そう言って、彼女は止まらない涙を拭ってくれた。



泣き疲れた体を横たえ、彼女の膝を枕に赤く染まり出す空を見上げていた。
風が赤や黄色の葉を舞い上げる。ひらりひらりと揺れ、舞い落ちる葉に混じり、白の羽根が落ちてくる。
ふわり、ひらりと羽根が揺れる。無数の羽根が体に降り注ぎ、白に沈めていく。
この羽根は彼女のものだろうか。それとも自分の羽根だったのだろうか。
ぼんやりとする意識で考える。

「帰りたい?」

頭を撫でる手を止めず、彼女は静かに問いかける。
遠い空を見つめ、そして彼女を見る。目を細め、ゆるりと首を振った。

「別に。歩くことには慣れたし、もう飛び方も忘れてしまった」

自由に空を飛んでいた頃の記憶は霞み、涙で滲んでいた世界よりも朧気だ。翼があった所で、二度と飛ぶことはできないのだろう。
羽根が静かに降り積もっていく。仄かな暖かさを感じながら、目を閉じた。

「私は一人でも歩けるよ。だから私のことは置いていっても大丈夫」

精一杯の強がり。ただの意地でしかないけれど、飛べない自分はもう彼女と一緒にはいられない。

「会いに来てくれて、嬉しかった。ありがとう」
「――馬鹿だね」

さよなら、と別れの言葉が音になる前に、彼女は呆れたように呟いた。
目を開けて、彼女を見つめる。こちらを見下ろす彼女の目が、星のように煌めいた気がした。

「素直でないのは相変わらずだけど、一人で完結する癖くらいは直して欲しかった」

彼女の手が視界を塞ぐ。暗闇の中、彼女の声だけが頭の中に響く。

「この場所でずっと待っていた意味を考えて欲しいのだけれど。こうして抜いた羽根で飾り立てている意味もね」

ただ降り積もっているのではなく、飾り立てている。意味が分からず身動げば、体に纏わり付いた羽根が揺れるのを感じた。
ますます困惑する自分に、彼女は静かに告げる。

「黄昏に、境界を訪れることの意味……気づいた所で、もう手遅れなんだけどね」

視界を覆う彼女の手が離れていく。眩しさに目を細めながら見上げた空は、先ほどと変わらない茜色。
気づけば風は止まり、陽は凍り付いたように動かない。
切り取られた時間と空間の中に、彼女と自分だけが存在していた。

「千切られた羽根の変わりならいくらでもあげる。飛び方を忘れたというなら寄り添って飛ぶことだってできる……ここまで言えば分かるよね?」

人として生きることを許さない。そういうことなのだろう。
視界の端で羽根が揺れる。
忘れていた記憶を彼女の言葉が、目が突きつける。

それらから逃げるように目を伏せて、小さく頷いた。



20251025 『揺れる羽根』

10/26/2025, 6:34:56 AM

――この箱を開ければ、すべてが変わる。

そう言われて渡された、小さな木でできた箱。
何が変わるのか、何の説明もなく押しつけられた箱を手に、小さく息を吐いた。
開ければというものの、何か仕掛けがあるのか箱が開く様子はない。そもそも、箱を渡してきたのが誰なのかもよく分からなかった。
箱を振れば、からからと音がする。中に何かが入っているのは確かなようだ。

すべてが変わるという、小さな箱。
箱を開けるべきか否かを、ずっと悩んでいた。



「開けないの?」

箱の中から声がした。
幼いような、年老いたような、男か女かすらも分からないような声。頭の中に直接響くそれに、眉が寄る。
不思議と怖いとは思わなかった。その代わりに得体の知れない不快感が声と混じり、体中に広がっていく。

「開けないの?」

声が笑う。開けることができない臆病さを嗤われるが、それでも指は机の上の箱にかからない。

くすくす。けらけら。
不快感が込み上げて、立ち上がり箱に背を向けた。

「開けてしまえば楽になれるのに」

耳元で囁かれる誘惑。それを振り切り部屋を出る。
やや乱暴に扉を閉めれば、嗤い声も囁きも途端に聞こえなくなり、そっと安堵の息を吐いた。

そのまま外に出れば、冷たい空気が思考を冷静にさせていく。深く息を吸い込んで内に澱む不快感ごと吐き出せば、箱の中身に対する疑問だけが残った。

何故、箱の中から声が聞こえるのか。
声は何を知っているのか。
箱の中には何が入っているのか。
すべてが変わるとはどういう意味なのか。
どうすれば、箱を開くことができるのか。


そこまで考えて、いつの間にか箱を開けようという思考に成り代わっていることに気づく。
気づいて怖ろしくなった。このままでは自分の意思とは無関係に箱を開けてしまいかねない。
心細さに視線を彷徨わせる。
だが不安を宥めてくれるような誰かも、何かでさえも見つけられはしなかった。



「すみません。ちょっといいですか」

ふらふらと当てもなく歩いていれば、不意に声をかけられた。
視線を向ける。この辺りでは見かけない制服を着た少女と目が合い、会釈した。

「その子、返して頂いてもよろしいでしょうか。好奇心が旺盛なので、良く脱走して困っていたんです」

心当たりのなさに眉を寄せながら、少女の指先を追って視線を下げていく。

「――あ」

いつの間にかズボンの右ポケットが膨れていた。
そっとポケットに手を差し入れる。四角い何かが指に触れ、嫌な予感を感じながらゆっくりとそれを取り出していく。

「開けないの?」

家の中に置いてきたはずの箱が、けらけらと嗤っていた。


「開けないの?」
「止めなさい。困っているでしょうが」

静かな少女の声に、嗤う声が止まる。
硬直する自分の手の中から箱を取り上げ、彼女は疲れたように息を吐いた。
箱に何かの札を貼り、鞄の中に無造作にしまわれる。

「ごめんなさい。管理はしているんですが、ちょっと今ごたごたしてて……色々逃げ出してしまったんです」

全く理解できていない自分に、少女は丁寧に頭を下げる。
それに幾分か落ち着きを取り戻してきた思考が、疑問を口にさせていた。

「あの箱は……何なのですか?中には一体何が入っているのでしょうか?」

頭を上げた少女は眉を下げ、苦笑を顔に浮かべて答えた。

「秘密の箱、です。好奇心旺盛で隠されているものが好きなので、誰かの秘密を中に閉じ込めてしまうんです」

鞄越しに箱を撫で、彼女は深々と溜息を吐く。
随分と疲れている様子だ。これ以上引き留めるのは申し訳ないと思いながらも、さらに問いかける。

「箱を開けるとすべてが変わると言われて、箱を手渡されました。それに箱を開けないのかと何度も囁かれて……箱を開けていたら、どうなっていたのですか?」
「中身が出てくるだけです」

少女は肩を竦めて言う。

「中に閉じ込めた秘密に飽きてしまったのでしょう。だからあなたに箱を開けさせて、いらなくなった秘密を出して、代わりにあなたの秘密を閉じ込めようとした……誰かの秘密があなたの秘密になり、あなたの秘密は箱の秘密になる。そして飽きたらまた、別の誰かの秘密と入れ替えようとするのです」

だから開けたらすべてが変わるのか。
納得して、怖ろしくなった。知らない誰かの秘密が自分の秘密になる。それがどんな秘密であれ、他者の秘密が自分の秘密に成り代わるのは、恐怖でしかなかった。

「いくらからくり箱で簡単には開けられないとはいえ、興味を引かれて開けてしまう人はいるんです。現にあなたに会う前に、誰かの秘密を取り込んでいるみたいですし。それにこの子は特に、誰にも言えないような深い秘密を好むので……開けなくて本当によかったですね」

そう言って少女はもう一度深く頭を下げると、そのまま去っていく。
何も言えずにその背を見送り、姿が見えなくなってから力尽きたようにその場に座り込む。

「開けなくて良かった」

胸に手を当て、深く息を吐く。
心臓が痛い。恐怖と安堵で、頭がくらくらする。
しばらく座り込み落ち着くのを待ってから、ゆっくりと立ち上がる。覚束ない足取りで家路に就いた。

早く帰ろう。その思いが足を速める。
誰にも言えない、手放すことのできない秘密が待つ家へ。
帰りたくて堪らなかった。



20251024 『秘密の箱』

10/25/2025, 9:51:44 AM

気づけば誰もいない砂浜で一人、座って空を見上げていた。
周囲には誰もいない。一人きりだ。
辺りを探索しなくとも、この狭い島には他の人はいないことを理解していた。
目を閉じる。寄せては返す波の音を聞きながら、記憶を手繰り寄せる。
無邪気なあの子の笑顔に、頭が痛くなるのを感じた。

――働き過ぎは体に良くないんだって!

テレビで得たばかりの知識を、得意げに披露していた彼女。次の瞬間に訪れた、抗えない微睡み。
ここは夢の中なのだろう。無人島にいる夢。

彼女のズレた優しさに、目眩がしそうだった。

「休憩するには波の音とかが良いんだって!ヒーリング曲?とか言ってた」

不意に隣から聞こえた声に、出かかる溜息を呑み込んだ。
視線を向ける。褒めてと言わんばかりに輝く笑顔を見てしまい、何も言えなくなってしまった。

「なんで、無人島?」

代わりに口をついて出たのは、純粋な疑問。彼女はその問いに、胸を張って答えた。

「テレビでやってたから!無人島でサバイバル体験!」

ある程度予測できてはいた答えに、乾いた笑いしかでなかった。



「テレビで見たからね。ちゃんと無人島に行くなら、何が必要かは分かってるよ。用意もしてあるの」

いつの間にか背負っていたリュックを砂浜に置き、彼女は笑う。
チャックを開けて、一つ一つ中身を取り出して見せた。

「えっとね。まずは水でしょ?それから食料と……ナイフと、ロープと……」

次々と取り出される物品が、砂浜を埋めていく。思わず口元が引き攣るが、彼女はまったく気づく様子はない。

「それからね、おやつとお弁当と……」
「待って!?」

段々と可笑しくなる荷物の数々に、咄嗟に待ったをかける。
そこまで行くとサバイバルではなく、ただのピクニックだ。けれど彼女は何故止められたのかを理解できず、ただ首を傾げて目を瞬いた。

「ちゃんとチョコレートもおせんべいもあるよ?お弁当には卵焼きも入れてあるし」
「いや、そうではなくて」

心底不思議そうな彼女に、どうしたものかと視線を彷徨わせる。純粋にこちらを心配しての行動だけに、頭ごなしに否定するのは気が引けた。

「必要なのは、全部用意できていると思うんだけどな」

広げた荷物を見回して、彼女は不思議そうに呟く。
思いつかないのか、その表情は次第に険しくなっていく。
眉を寄せ、立ち上がる。その姿が不意に揺らいで、咄嗟にその手を取って引き留めた。

「待って!どこ行こうとしてんの!?」
「え?足りないものを探しに行くだけだよ。だからちょっと待ってて」

彼女の姿がさらに揺らぐ。
何も理解していない彼女に頭が痛くなるのを感じながら、思いを乗せて声を上げた。

「足りないものなんてないから!寧ろ多すぎるんだって……そもそも、無人島に行くならば、君がいれば十分だってば!」
「――え?」

きょとんと目を瞬く。
遅れて意味を理解したのだろう。彼女の頬が赤く染まり、恥ずかしげに視線を逸らした。



波の音を聞きながら彼女と二人、砂浜で寝転び空を見上げた・

「なんで急に、無人島に行こうなんて思いついたの?」
「だから、テレビを見て……」

言いかけて、問いかけの意図が違うと気づいたのか、彼女は寝転んだままこちらに視線を向けた。

「最近、ずっと忙しそうにしてたから。いつもどこかぴりぴりしてるし、寝てる時だって魘されてることもあったし」

だからね、と彼女は眉を下げながら続けた。

「一回全部なくして、全然違う場所でゆっくり過ごせたのなら何か変わるかなって思ったの。ちょっとだけでも心が元気になったら、前みたいに笑ってくれるかなって……それだけなの」

柔らかな微笑み。気づけば彼女の手を引いて、強く抱き締めていた。

「ありがとう」

一言だけを告げて、目を閉じる。
波の音が心地好い。暖かな陽射しに眠気が誘われる。
何より彼女の優しさが、嬉しかった。

「流石に無人島は無理だけど、今度一緒に遠出しようか」

夢見心地で思いついたことを口にする。言葉にしてそれはとてもいい考えだと、口元が緩んだ。
彼女が用意した大層な荷物は必要ない。計画だってなくても、彼女と一緒ならば気の向くまま、楽しめることだろう。
目を開ける。顔を上げた彼女と目を合わせて、どちらともなく笑い出した。

「約束だからね。嘘吐いたら、もう口をきいてあげないから!」
「それはやだな。だから絶対に約束は守るよ」

くすくすと笑い、小指を絡める。指切りげんまん、と詠う声に波の音が混じる。
指を離して小さく欠伸を漏らせば、彼女も同じように欠伸をした。

「何だか眠くなってきたな……夢の中だって分かってるけど、このまま寝ちゃおうか」
「賛成!夢だから寝ちゃ駄目なんて決まり事はないんだし、のんびりお昼寝しようよ。遊ぶのも良し、のんびりするのも良しってやつだよ」

仰向けに寝転んで、彼女はくすくすと笑う。笑いながらもその瞼はゆっくりと落ちていき、しばらくすれば穏やかな寝息が聞こえ出す。

「おやすみ」

小さく呟いて、同じように目を閉じる。
波の音。風の音。彼女の寝息。
何もかもが心地好く、ささくれ立った気持ちが凪いでいく。

微睡みに浸っていれば、ふと昔聞いたことのある問いかけを思い出した。

――無人島に一つだけ持っていくとしたら。

同時に浮かぶ答えに笑みが浮かんだ。
隣で眠る彼女の手を繋ぎ、暖かな陽射しに誘われて眠りに落ちていく。

何も持たなくてもいい。
ただ彼女と一緒に行けたのなら。

そこはきっと、夢の中のように楽しい場所になるのだろう。



20251023 『無人島に行くならば』

10/24/2025, 9:53:57 AM

冷たい風が吹き抜けた。
空はどこまでも青く遠く、悲しいほどに澄んでいた。

あの時言えなかった言葉が胸を締めつける。
あるのは後悔と、寂しさ。そして、今も消えないこの想いだけ。

風に手を伸ばす。舞う葉を指先で追いながら、そっと唇を震わせる。

「――さよなら」

言葉にしてみれば、少しだけ救われたような気がした。





誰の記憶からも消えた少女の一欠片を抱きながら、男は社の前で祈っていた。
少女が笑っていられることを。幸せであることを。
他の者と同じく、男の記憶からも少女の姿は消え失せてしまっている。姿も声も、思い出せるものは何もない。
唯一男が留めていたものは、少女へ対する仄かな想いだけだった。
暖かく愛おしい想いは、男にとって終わりのない苦しみをもたらしている。しかしそれは、最後に残された拠り所でもあった。
男が恋をした少女は、確かにいたのだという証明。それだけが男を留めていた。
かつての激しい感情は、男にはない。記憶の中から少女の姿が消えたと同時に、感情はすべて凪いでしまった。
今の男は、少女を想い祈ることで日々を生きている。



からん、と本坪鈴を鳴らし、手を合わせる。
冷えた空気にまた一つ季節が過ぎて行くのを感じ、吐息を溢した。

「来月、妹が結婚するよ。長くはないと医者に言われ続けてきたのに、今では俺よりも元気なくらいだ」

幸せそうに微笑んでいた自身の妹の姿を思い出し、男の口元が僅かに綻んだ。だがその目は切なげに細まり、唇を噛みしめた。
男の妹は、不治の病に冒されていた。年若くして散るはずの命を家族と共に男も惜しみ、悲しんでいた。
しかし数年前、奇跡が起きた。妹の病は癒え、幸福な未来を歩み続けている。

「君にも見て貰いたかった……できることならば、俺の隣で同じように」

自嘲して、男は目を閉じた。
一呼吸すれば、叶わぬ欲などすぐに凪いでいく。
残るのは、仄かな愛おしい想いだけだ。

「君の幸せを願うよ。どうか心穏やかに、笑顔でいてほしい」

例えその笑顔を思い出せなくとも。二度と愛することができなくとも。
男は只管に願い続ける。穏やかに祈るその姿は、どこか清廉さを纏っているように見えた。

からん、と誰も触れていない鈴が鳴った。
その音に男は目を開け、振り返る。
いつの間にか、男の背後には面布をつけた巫女がいた。その姿は酷く朧気で、向こう側の景色が透けている。
巫女は何も語らない。男も何も言わず、静かに彼女の姿を見続けていた。

からん、と鈴が鳴る。
立ち尽くす巫女に、男はそっと手を伸ばした。その手は巫女をすり抜けて、触れることはない。
男の目が一瞬、悲しげに揺れた。しかしその感情はすぐに凪ぎ、深く礼をして一歩退いた。
男の目の前を、巫女は通り過ぎていく。いつの間にかその巫女の後ろにも、同じように面布をつけた巫女たちが立っている。次々と社に向かい歩いていく巫女を、男は頭を下げたまま見送った。
祀られた神の眷属だろう巫女たちが、社の中へと消えていく。先頭にいた巫女が他の巫女たちがすべて社に戻ったことを見届けて、本坪鈴を鳴らした。
からん、からん、と鳴る鈴の音に男は頭を上げ、巫女を見つめる。巫女は変わらず何も言わない。他の巫女のように社の中へ去ることもなく、面布越しに男の顔を見返していた。

「祈りは届けられました」

不意に、巫女が呟いた。歌うようなその声音に、男は息を呑む。

「純粋な祈りは、対価と引き換えに願いを叶えることでしょう」

残酷な言葉だと、男は思った。男にとってそれは仄暗い誘惑であり、破滅を呼ぶ祝福であった。
唾を飲み込み、巫女を見る。
それ以上を語らない巫女に、男は喘ぐように口を開いた。

「あの子の幸福を……どうか……」

震える声は、純粋な祈りだけで止まらない。凪いだはずの執着を、気づけば男は口にしていた。

「あの子の側に……もう一度」

手を伸ばす。その手は今度はすり抜けることはなく、巫女の腕を掴んだ。
無抵抗な体を引き寄せ、面布を取る。露わになった巫女の素顔を見て、男は泣くように顔を歪めた。

「もう一度……今度こそ二人で幸せに……」

強く抱き締める。
からん、と鈴が鳴り。

そこで、目が覚めた。





冷たい風が吹き抜けた。
ぼんやりと男は空を見上げ、過ぎていく薄い雲を目で追った。

酷く悲しい夢を見ていた。
込み上げる空しさは、後悔からなのだろうか。
あの時、最後まで願いを口にしていたのならば。
夢の内容を思い返し、もしもを想像して男は空恐ろしい気持ちになる。
おそらくは、その願いは叶ったことだろう。ただしその対価として、誰かが犠牲になっていたのかもしれない。
その可能性に背筋が粟立ち、同時に気づく。
消えた少女の献身に。怖ろしいまでの純粋な、その祈りに。

風が過ぎていく。手を伸ばし、周囲で舞い踊る葉を一枚掴む。
赤く色づいた葉を暫し見つめ、手の中に閉じ込める。
消えない想いはもう、手放さなければならない。それを理解して、男は静かに口を開く。

――さよなら。

だが唇はただ震えるだけで、執着がそれを言葉にすることを拒んでいた。



20251022 『秋風』

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