風の向きが変わった。
空を見上げれば、雲ひとつない快晴。広がる薄い青は普段と変わらない。
目を閉じて、深呼吸をする。微かに薫る花の匂いを感じて、息を吐いた。
嫌だなと、誰にでもなく呟いて歩き出す。
この予感は、きっと当たることだろう。
「また来たね」
きゃらきゃらと笑う彼女は、いつもと変わらず木の枝に腰掛け足を揺らしていた。
「風が――」
言いかけて、その前に彼女が小さな石を投げ渡してくる。それは黒く艶々としていて、まるで目のような縞の模様が浮き上がっていた。
「気休めではあるけれど、頑張って」
手を振り、彼女は止める間もなく去っていく。
小さく息を吐いて、手の中の石を握り締めた。
冷たい石に手の熱が移り、生き物のような暖かさを持ち出す。
「気休め……」
呟いて、手の中の石に視線を落とした。
彼女はどこまで知っているのだろうか。何かを尋ねる前に、彼女はいつも去っていってしまう。
会えるのは、予感を感じた時だけ。気休めとして石を託して、何も言わせずに姿を消す。
もう一度息を吐いて、石をポケットの中に入れて歩き出す。
どこからか花の匂いがした。
家に帰れば、険しい顔をした大人たちが忙しそうに動き回っていた。
ポケットの中の石を握り締め、家の中に入る。誰にも声をかけずにいれば、誰からも声をかけられることはない。
そのまま部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
花の匂い。そして何かが燃えたような匂いが立ちこめている。
「嫌だな」
溜息と共に溢れ落ちた言葉に、眉を寄せた。
漠然とした、嫌だと思う気持ちが胸を締めつける。何が嫌なのか、どうして嫌なのかも分からない。
ただ何となく、この先に嫌なものが待っているのだという予感だけは確かにしていた。
「――ちょっといいか?」
声がして、返事も待たずに部屋の扉が開く。
視線を向ければ、どこか険しい顔の父が部屋に入ってきた。
「頼みたいことがあるんだ」
「――なに?」
嫌だという気持ちを隠し、体を起こす。
父に向き直れば、小さな鍵を差し出された。
「朝からお祖母ちゃんと連絡が取れなくてな。様子を見に行ってほしい」
込み上げる溜息を押し殺し、鍵を受け取る。
そのまま部屋の外に向かえば、硬い声が小さく聞こえた。
「気をつけてな」
その言葉に何も反応せず、外に出る。
いつの間にか大人たちはいなくなり、落ち着かない静けさが広がっている。
鍵と、石と。両方を握り締めながら、家の裏の山へと足を踏み入れる。
祖母はこの山奥で一人暮らしている。
巫女としての役目なのだと祖母は言うが、本心ではただ住み慣れた生家を離れたくないだけなのだろう。その証拠に、山にある社はいつ訪れても手入れが行き届いているようには見えなかった。
また荒れているであろう社を思い、溜息が出る。
祖母の様子を確認して、帰りにまた軽く掃除をしに行こう。
そんなことを考えながら、しかしそれは叶わないだろうと根拠もなく確信があった。
不意に、冷たい風が吹き抜けた。
花の香りが漂っている。甘ったるく、腐り落ちたかのような鼻をつく匂い。
それに混じり、焦げた匂いを微かに感じた。
眉を寄せて、足を速める。
嫌な予感はずっとしている。予感と言うよりも、この先に何が起こるのかを既に理解していると言った方が正しいのかもしれない。
「嫌だな」
理解した所で、戻るという選択肢はない。
気休めだという、彼女からもらった石を握り締めながら、荒れた獣道をただ進み続けた。
「お祖母ちゃん……?」
しんと静まり返った祖母の家に、眉を寄せながら玄関を上がる。
花の匂いが風に乗って届く。どこかの窓が開いているのだろうか。石を握り締め、足音を殺して家の奥へと進んでいく。
風はどうやら、祖母の部屋がある方向から吹いているらしい。近づく度に花の香りが強くなり、胸が早鐘を打ち始める。
行きたくはない。そう思いながらも、足を踏み出した時だった。
「また来たね」
静かな声がした。
振り返ると、玄関に座り笑顔で手を振る彼女がいた。
「なんで……?」
小さく呟くと、彼女は目を瞬いた。心底不思議そうに首を傾げ、立ち上がる。
一歩、彼女が近づく毎に、背後から音がした。板張りの廊下が軋み、何かがゆっくりとこちらに近づいてきている。
「止めた方がいいよ」
彼女の無邪気な声が、音を確かめるため振り向こうとした動きを止めた。そのまま動けずに、立ち尽くす。
彼女と背後の何かに挟まれて、息を呑んだ。鼓動が痛いほどに鳴っている。
風が吹いて、花と焦げた匂いを運ぶ。嫌な予感に、心臓が嫌な音を立て始めた。
彼女は誰なのか。後ろにいるのは何なのか。
耐えきれなくて、石を握り締め目を閉じた。
「予感なんてね。起きてしまったことの、再現でしかないんだよ」
彼女の声がした。慰めるように、小さな手が石を握る手を包む。
「起きてしまったことはなくならない。どんなに繰り返しても、それはすべて同じ結末に至るんだよ……例えそれが、夢の中のできごとだとしてもね」
手の中の石が熱を持つ。熱くて思わず手を離せば、ぱりん、と硝子の割れたような音が鳴った。
驚いて目を開けた。
「――え?」
視界に広がるのは、一面の黒。そこは祖母の家ではなかった。
目の前で彼女が笑う。背後に気配は感じられず、振り返っても、そこには何もなかった。
「いない?」
「いないよ。最初からね」
その言葉に、これは夢なのだと理解した。
ならば、これから行うべきことは一つだけだ。
「じゃあね。忘れることはできないだろうけど、せめて引き摺らないように」
彼女は一点を指差し、手を振った。それに頷いて、指差した方へと歩き出す。
見上げれば、いくつもの青白い光が瞬いていた。それは炎のようにゆらりゆらりと揺らめいている。
視線を下ろせば、向かう先にも光が見えた。丸く、白い光。暖かなそれに惹かれて、次第に足が速くなる。
近づくほど大きくなる光に、迷いなく飛び込んだ。視界が白に染まり、そこで意識は途切れた。
目が覚めれば、白い病室のベッドで横たわっていた。
体が重い。視線だけで辺りを見回していれば、不意にカーテンを開かれた。
「っ、起きたか……!」
驚いた顔をした父が、その次の瞬間には泣きそうに顔を歪めて抱きついてきた。
「ごめんな。様子を見に行ってほしいなんて言わなければ」
声が震えている。泣くのを耐えて、父は只管に謝罪の言葉を繰り返した。
ぼんやりとした意識がはっきりするにつれ、ある予感が胸を過る。
けれど、きっとそれは予感などではないのだろう。
20251021 『予感』
「よぉ!久しぶりだな!」
玄関を開けた瞬間に、視界が真っ暗になった。
風が吹き抜け、髪や服を揺らす。ふわりと辺りに潮の匂いが満ちていく。
内心げんなりしながらも、彼の胸を叩いて息苦しいだけの抱擁から抜け出した。彼の故郷ではこれが親しい者に対する挨拶だというが、慣れない身としては困惑するばかりだ。
「また大きくなったか?以前はこんなに小さかったのにな」
ぐしゃぐしゃと、頭ごと髪を掻き回されて視界が回る。楽しそうに親指と人差し指で隙間を作り小ささを表現する彼に、耐えきれず溜息が漏れた。
「そんなに小さいわけない。これから出かけるんだから、さっさとどっか行って」
「酷いな。俺とお前の仲だろう?そんなに冷たいことを言わないでくれよ」
笑みを崩さず擦り寄る彼に、顔を顰めてみせる。
またこの時期が来てしまった。
秋の暮れから春の始まりまでの間だけ現れる彼は、自分以外には見えないらしい。そのため彼はここにいる間の殆どを、自分の家や周りで過ごす。
溜息を吐く。また春の別れに苦しまなければならないのか。
胸に巣食う痛みが、強くなった気がした。
「なんでそんな、腹に溜まらないものを食ってるんだ」
呆れた声と共に、背後から伸びた彼の手が朝食を取り上げた。
振り返り文句を言うよりも早く、机の上に何かが置かれる。見ればそれは、皮の剥かれた果物が盛り付けられた皿だった。
「食うなら、こっちにすればいい。美味いぞ」
彼の指が葡萄を一粒摘まみ、口に押し当てられる。
眉を寄せ、首を振る。取られた朝食に手を伸ばせば、彼は肩を竦め溜息を溢した。
「こんなどろどろしたものなんて、美味くないだろうに」
口元に押し当てられていた葡萄を食べながら、朝食を机に戻す。不満げな表情をする彼から視線を逸らし、少しばかり冷めてしまった朝食を口にした。
味など関係ない。夏を迎える前に、味覚は感じられなくなっていた。
原因は分からない。春が訪れ、彼と別れてしばらくしてから、この体は原因不明の病に冒され衰弱していっている。もう固形物は、葡萄一粒さえ受け付けないのだ。
彼には何も告げてはいないが、おそらくは気づいているのだろう。感情の読めない彼の目が、こちらを見つめていることが増えていた。
「なぁ、俺たちの関係は何だ?」
不意に問われ、首を傾げる。
意味が分からず視線を向けるが、彼はやはり感情の読めない目をしてこちらの答えを待っていた。
自分たちの関係など、彼が一番良く知っているはずだ。ただの気まぐれか、それとも意味があるのか分からない。だが答えを待つ彼を見て、仕方がないと小さく息を吐き、口を開いた。
「友達」
friend。彼が普段から口にする言葉だ。
「そうだ。Friends are meant to be together always.だからお前は、俺が来ると家に招き入れ、もてなしてくれるんだろう?」
違うと否定しかけた言葉を呑み込む。
彼を招く理由は、自分でも分からない。ただ毎年訪れを待ちわびるほどには、彼に好意を抱いているのは確かだった。
彼の手が頭を撫でる。その優しさに何も告げられず、誤魔化すように俯いた。
冷たい風が、部屋の中を吹き抜けた。
胸の痛みを覚えて、ベッドの中で背を丸め、声を殺して耐える。
ベッドが軋み、布団の上から大きな手が背を撫でた。痛みや息苦しさが次第に引いて、詰めていた息を吐く。
布団から顔を出せば、いつものように表情の読めない目をして彼がこちらを見つめていた。
「どうしたの?」
問いかける声は、酷く掠れている。彼は僅かに目を細めただけで、何も言わず頭を撫でた。
かたかたと窓が音を立てる。外では風が吹き荒れているらしい。
冬が訪れようとしている。きっと自分は冬を越せないのだろう。
彼に告げなければ。そうは思うのに、彼の目を見ると言葉が紡げない。
「Friends are meant to be together always. Isn't that right?」
不意に彼が呟いた。けれど何を言っているのかは、よく分からない。
酷く疲れている。瞼を開けていられず、ゆっくりと目を閉じた。
彼の手が、頭から閉じた瞼を伝っていく。頬をなぞり、唇に触れた。
窓ががたがたと鳴っている。過ぎていく風を感じて、外ではなく家の中で風が吹き荒れていることに気づいた。
「お前のために、とびきり美味いものを用意したんだ」
彼が笑う気配がする。ぎしりとベッドが軋んで、指が唇を割った。
「――あ」
感じたのは冷たさ。そしてとろけるような甘さ。
唇を割り、差し入れられた何かを促されるままに飲み込む。
渇きを潤す瑞々しさを感じながらうっすらと目を開けると、彼は笑みを浮かべて囁いた。
「美味しかっただろう?もっと食べるか?」
布団を剥ぎ、体を起こされる。
彼の手には、皮が剥かれた葡萄が一粒。唇に押し当てられれば、自然とそれを受け入れてしまう。
瑞々しい果肉が口の中に広がって、くらくらするほどの甘さが喉を通り過ぎていく。
体が熱い。それなのに震えが止まらない。
「See? Now we're friends. We'll always be」
彼の言葉が、頭の中で反響する。彼の国の言葉が揺らいで、自分の国の言葉に変わっていく。
「分かるか?これで友達になった。これからずっとな」
次々と与えられる果実を食み、その度に体が熱を持つ。
次第に体から力が抜けて、彼に凭れかかった。差し出される果実をもう受け入れられない。
ぼんやりと果実を見つめていれば、褒めるように頭を撫でられた。
「――どうして?」
微かに呟けば、彼は瞼に唇を触れさせながら笑う。
「何度も言っただろ?友達というのは、常に一緒にいなければ……お前はそれを否定しなかった」
そう言えばと、ぼんやりと霞む記憶を辿る。
彼は時折何かを言っていた。聞き流していたが、それを彼は同意だと捉えてしまったのか。
「若い体を弱らせるのに時間がかかったが、ようやく連れて行ける。俺と同じになり、ひとつになるんだ」
彼の指が胸に触れる。弱い鼓動を楽しみ、そしてとどめを刺すように、指を沈めていく。
「――っ!」
悲鳴は喉の奥に張り付いて、言葉にはならない。
彼は胸の中に沈んだ指が脈打つ命を掴み、
「これで、ずっと一緒だ」
ぞっとするほど優しく囁いて、掴んだ命を引き抜いた。
時を止めた自分の体を、ただ見つめていた。
「そろそろ行くぞ」
腕を引かれ、視線を向ける。
そこには誰もいない。腕を掴まれたと思ったが、本当に腕を掴まれているのかも、定かではない。
体が軽かった。輪郭が朧気で、自分が本当にここにいるのかも、分からなくなってくる。
思考が定まらない。自分という意思が、なくなってしまったかのように。
「さて、最初はどこに行こうか」
彼の声がする。言葉と引かれる感覚に、部屋の外へと歩いていく。
床を踏み締める感覚も曖昧だった。歩いているつもりで、宙を漂っているのかもしれない。
暖かな熱に包まれている感覚がする。彼の輪郭と自分の輪郭が重なって、一つになっているようで落ち着かない。
「俺たちは一緒だ。friends《友達》は個じゃなくて、複数だからな」
くすくすと笑う声がすぐ隣で聞こえた。あるいはそれは自分の口から発せられたのかもしれない。
「すぐに慣れるさ。人間というひ弱な生き物よりも、強くて自由なモノになったんだ。嬉しいだろう?」
外に出て、空を見上げた。遠いはずの青空が、とても近く感じる。
一筋溢れたと思った涙は、気のせいだったのだろうか。
見えない手を伸ばす。その手を熱が包み込む。
吹き上げる風に乗るように、手を引かれ導かれるままに。
空高く舞い上がった。
20251020 『friends』
歌が聞こえていた。
いつからか聞こえるようになった歌。優しく穏やかで、どこか切ないその歌を、誰が歌っているのかは分からない。
けれど眠れない夜にそっと囁くような歌声は、自分の日常の一部になっていた。
例えば、友達と喧嘩をして一人泣いた夜。歌声はすぐ側で、静かに優しい旋律を奏でてくれた。試験の前日。緊張で眠れないでいれば、穏やかな歌声が柔らかく響いていた。
悲しい時も、嬉しい時も、夜に歌声は響いている。その歌と共に、自分は大人になった。
窓辺に寄り、カーテンを開ける。煌びやかな街の灯りが強すぎるのか、空に星を見ることはできなかった。
遠くに小さく浮かぶ白い三日月が、どこか寂しげに見えた。
窓を開ける。耳を澄ませ、街の喧騒の中から歌声を探す。
微かに聞こえる歌に聞き入りながら、小さく笑みを浮かべた。
「君は、誰なんだろうね」
そっと呟く。
答えがないことは知っている。何度問いかけても、歌声以外に、言葉は返らなかった。
歌声の主が誰であろうと、怖れる気持ちはない。それほど長く、歌声と共に過ごしていた。
知らなくとも構わない。だが知りたいと思ってしまうのは、純粋に言葉を交わしたいと願っているからだ。
側にいてくれたことへの感謝を、直接伝えたかった。
「いつも歌ってくれて、ありがとう。とても素敵な歌だよ」
返事が返らなくとも気にせず、いつものように空へ向けて言葉を紡ぐ。見上げる小さな三日月が、静かに微笑んだ気がした。
「どう致しまして。こちらこそ、いつも褒めてくれてありがとう」
不意に声がした。
弾かれたように、振り返る。薄暗い部屋の中、視線を巡らせれば、ソファで小さな影が揺れていた。
「君は……」
声をかければ揺れる影は動きを止め、首を傾げた。
「あら?私が見えているの?」
心底不思議そうな声音。影はソファから立ち上がり、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
近くで見ても、影は影のまま。その表情は僅かにも見えはなしない。
不思議と怖いとは思わなかった。寧ろ暖かで優しい気配を感じ、自然と笑みが浮かんでくる。
「君が、いつも歌ってくれていたの?」
そう尋ねれば、影は誇らしげに胸を張ったように見えた。
「そうよ。あなたはいつも夜更かしをするんだもの。寝かせるのが大変だったわ」
態とらしく溜息を吐いてみせ、影は笑う。子供のような無邪気さに、苦笑しながらも眉が下がる。
「ごめんね。君の歌声に気づいてから、歌を聴くために起きていたんだ」
「でしょうね。あなたはいつも、私の歌を褒めてくれたもの」
くすくすと、影が笑う。
楽しそうに窓辺でくるりと回る影が月明かりを浴びて、一瞬だけ少女の姿を浮かばせた。
「私の母から継いだ歌なのよ。相手の幸せを祈って歌うの」
そう言って、影は歌を口遊む。その輪郭はぼやけ、夜に滲んでいる。
街の灯りが強すぎるのだろう。星のように、灯りが影の姿を掻き消してしまうのだ。
何故かそんなことが思い浮かび、寂しくなった。
「大丈夫よ」
俯く自分に、影は優しく囁いた。
「私がこれからも見守っていてあげるから。だから胸を張って生きればいい……大丈夫。眠れない夜には、また歌ってあげるから」
「どうして……?」
疑問が湧き上がる。
影が歌う理由。見守る理由。
影が誰なのかも、自分は何一つ知らなかった。
思わず口に出せば、影は首を傾げた。
「どうしてって……当然じゃない」
腰に手を当て、影は胸を張る。
どこか誇らしげに、影は告げた。
「だって私、お姉ちゃんだもの!」
不意に、周囲が暗くなった。
窓の外を見れば、いつの間にか周囲には深い霧が立ちこめていた。
不思議なことに霧は街の灯りを覆い隠すだけで、見上げた空は晴れ渡っている。煌々と輝く三日月が、瞬く星々の中心に浮かんでいた。
「そろそろ寝なさい。夜更かしは体に悪いのよ」
優しい声に促されて、おとなしくベッドに向かい横になる。
頭を撫で、歌を紡ぐ少女の姿が月上かりに照らされる。その姿は、彼女のいうように姉のように優しく穏やかだ。
どこかで見たことのある、その姿。微睡む意識の中で、ふと思い出す。
曾祖父の遺影の隣に飾られていた、女性の写真。月明かりに見えた少女と、その女性の面差しが重なった。
その女性について子供の頃、両親に尋ねたことがあった。
曾祖父の姉だという、写真の女性。彼女は亡くなった母親の代わりに曾祖父を育て、守り続けたのだと言う。
曾祖父の結納の次の朝に静かに亡くなった彼女は、正しく姉であり母であったのだろう。
「おやすみなさい。良い夢が見れるように歌っていてあげるわ」
静かな旋律が、意識をさらに沈めていく。
暖かな歌だ。幸せを願う、祈りの歌。
彼女の願うように、沈む意識の先で優しい夢を見る。
両親と、弟と、青空の下で笑い合っている。
日常の一場面。他愛もない話をして、笑い、歌う。そんな些細なことに、幸せを感じる。
母の歌を口遊む。旋律に言葉を乗せて、紡いでいく。
歌えることが嬉しかった。
誰かのために祈れる幸福を、初めて知った。
目の前が見えないほど深い霧の中を、当てもなく歩き続けている。
一体どれだけの時間が経ったのだろうか。変わらぬ景色からは、時間の流れを察することはできない。
立ち止まり、息を吐く。胸に手を当てると、とくとくと暖かな鼓動が感じられ、密かに安堵した。
まだ生きている。まだ歩き続けることができる。
顔を上げる。再び足を踏み出せば、霧の向こうが僅かに揺れた気がした。
初めて見る変化に、そちらに向けて歩き出す。ゆらゆらと揺れる何かが輪郭を纏い、誰かの影を形作っていく。
不意に、強い光が差した。
突然の光に目を細めながらも、影を見続ける。
正確には、目を逸らせなかった。
光によって大きく、濃くなった誰かの影。
その頭には、二本の角が生えていた。
「――という、夢を見ました」
両手で持ったマグカップに息を吹きかけながら、少女はそう締め括った。
「そうか……」
何とも言えない表情で相づちを打つ男に、少女は咎めるような視線を向ける。期待していた答えではないだろうことは少女の表情が物語っている。だが突然家に押しかけられ、前触れもなく夢の話をされた男としては、それ以外に言えるはずもない。
「ちゃんと人の話を聞いてました?」
「聞いてた。聞いてて、それしか言葉が出てこないんだよ」
男の言葉に少女は頬を膨らませるが、何も言わずにマグカップに口をつけた。すっかり機嫌を損ねてしまった少女に、男は疲れたように溜息を吐いた。
「所詮は夢の話だろう?何をそんなに気にする必要があるんだ」
「だって夢の中で見た影は、誰かに似ている気がしたんです」
問いかければ、少女は膨れながらも呟いた。
視線だけを男に向ける。その目は、表情とは裏腹に酷く凪いでいた。
「――叔父さんに、似ていました」
小さな声に、男は目を瞬いた。
遅れてその言葉の意味を理解して、男の眉が僅かに寄る。それを気にすることなく、少女は静かに言葉を続けた。
「叔父さんだと思ったから、手を伸ばしたんです。なのに影は逃げていってしまった。まるで、霧の中から外に出ることに怯えているみたいに」
ゆらりと立ち上る湯気に、少女は視線を向けた。
夢の中の霧よりも、遙かに薄いその湯気をぼんやりと見つめながら、少女はふっと息を吐く。
息で湯気が散り、再び立ち上る。それを繰り返す少女の表情は凪いでしまって、何を思っているのか察することができない。
「所詮は、夢の話だろう」
「そうですね。夢の話です」
そう言って、少女は男を見た。湯気越しに男の姿が揺らぎ、一瞬だけ二本の角が現れた。
少女は、それを見ても表情を変えない。ただ真っ直ぐに男を見つめ、だから、と呟いた。
「ただの独り言だと思って、忘れてもらっていいんですけど……全部から隠れる必要はないと思うんです。周りと姿形が少し違うから、在り方が違うからといっても、それは恥ずかしいことじゃない。人は違うものを怖れて排除しようとする生き物だけど、人類すべてがそうだという訳でもない……最初から全部怖がって引きこもっているのは、とても勿体ないことですよ、叔父さん」
息を吐き湯気を散らして、少女はマグカップの中身を飲み干した。途端に顔を顰めて、舌を出す。どうやら舌を火傷したらしい。
男は詰めていた息を吐いて。静かに立ち上がった。台所へ向かい、コップを手に冷凍庫を開ける。氷を入れ、今度は冷蔵庫からミネラルウォーターを出してコップに注ぎ、部屋へと戻る。
未だ顔を顰めている少女にコップを手渡すと、ついでとばかりに頭を強く撫でた。
「ちょっと!髪の毛ぐしゃぐしゃになったじゃない」
「別に結わえてる訳じゃなし、すぐ戻るだろうが……相変わらず、変な奴だな」
男の言葉に少女は顔を背け、コップに口をつけた。氷を口に含み、転がしながら舌を冷やす。
互いに何も言わず、沈黙が場を満たす。時折、かりと少女が氷に歯を立てる音が、やけに大きく聞こえた。
「――所詮夢だから、話半分に聞き流せばいいが」
不意に男が呟いた。少女は何も言わず、視線だけを男に向ける。
「別に引きこもってる訳じゃあない。お節介な誰かさんが煩いから、その場を離れただけだ」
「随分と失礼な言い方」
「事実だろう。どこへ行こうが、いつまでも着いてくるんだから……たまには一人でゆっくり過ごしたい時もある」
そうは言うものの、男の表情は先ほどよりも穏やかだ。少女はそんな男を一瞥して、コップの中の氷を口に含んでは噛み砕いていく。
拗ねた子供の仕草に、男は笑う。それに一層眉を寄せ、少女は無言でコップの中身を飲み干して、
「帰る」
態とらしく頬を膨らませながら、立ち上がった。
目の前が見えないほど深い霧の中、一人その場に佇んでいる。
辺りには何の気配もない。腕に抱いていたはずの幼子も、風に攫われ土に還ってしまった。
胸に手を当てる。どくどくとした無機質な鼓動に、顔を顰めた。
まだ死なない。まだ動き続けなければいけない。
嘆息して俯いた。幼子の温もりを思い出すように自身の手を見つめていれば、不意に音が聞こえてきた。
誰かの足音。軽い足取りで、こちらに近づいてくる。
顔を上げ、目を細める。静かに後退りながら、それ以上近づくなと願っていた。
不意に、強い光が差した。
自身の影が霧に浮かぶ。角の生えた異形の姿。
足音が止まった。影に恐れを成したのか、それ以上近づいてくる様子はない。だが立ち去る気配もなかった。
「大丈夫だよ」
声がした。霧の向こう側から白い手が伸ばされる。
思わず手から距離を取るように数歩、後退る。見つめる先の手は差し出されたまま、取られるのをただ待っているようだった。
「大丈夫」
声が繰り返す。感情の凪いだ、それでいて柔らかな声音。
それはいなくなった幼子を思わせて、一歩前に足を踏み出した。
そっと手を伸ばす。差し出されたままの手に、自身の手を重ね握った。
懐かしい温もりを感じて、気づけばその手を引き、華奢な体を抱き寄せていた。
「ちょっと……!」
言いかけた言葉ごと、胸の中に閉じ込める。
忘れかけていた温もり。
ようやく、帰ってきた。
「――おかえり」
そっと囁く。その言葉に、顔を上げた少女は目を瞬いて。
「ただいま!」
柔らかな微笑みを浮かべて、声を上げた。
20251018 『光と霧の狭間で』
さらさらと、音が聞こえる。
落ちていく砂の音。普段ならば、気にも留めないような微かな音。
小さく咳き込めば、忽ち掻き消えてしまう。耳を澄ませても、もう聞こえはしなかった。
どこから聞こえてきたのか、聞こえなくなった今では知りようがない。だが何故だろうか。それがどこから聞こえていたのか、分かるような気がした。
――胸の中。
あれはきっと、自分の命の音だった。
「おはよう」
穏やかな声に、目を開ける。
「――おはよう」
小さく言葉を返せば彼は淡く微笑んで、部屋のカーテンを開けた。
差し込む陽の光の眩しさに、思わず目を細める。開けた窓から入り込む風が運ぶ、冷たく澄んだ秋の空気吸い込んだ。
「調子はどうだ?」
「とても良いよ。ここ最近は、ずっと苦しくない」
胸に手を当てれば、とくとくと規則正しく刻む鼓動を感じる。暖かく、優しい。この鼓動を刻んでいた、本来の主のように。
込み上げてくる涙を、きつく目を閉じることで耐える。
いつまでも泣くのはいなくなった彼女を否定するようで、無理矢理に笑みを作ってみせる。
「無理はするな。泣きたいなら、泣いていい」
彼に頭を撫でられる。髪の毛を乱すような雑さは、きっと彼なりの優しさなのだろう。作ったものではない笑みが溢れて、けれど涙も溢れ出してしまう。
「どうして……」
呟きかけた言葉を、唇を噛みしめることで呑み込んだ。
言葉にしてしまえば、止まらなくなってしまう。もう二度と届かない暖かな手を追ってしまいたい衝動を、只管に耐えていた。
「どうしてだろうな」
頭を撫でながら、彼も同じように呟いた。
「いつもそうだった。誰かのために迷わず手を差し伸べる。お人好しというか、考えなしというか……あいつは最後まで、助けた子供ばかりを心配していたな」
微笑む彼女の姿が思い浮かんで、涙が止まらない。
彼に縋り付き、声を上げて泣いた。どうしてと、寂しいと口にして、いなくなった彼女を只管に呼び続ける。
「本当に馬鹿だよ、あいつは。置いていかれる誰かの苦しみには、最後まで気づこうとしなかったのだから」
泣く自分とは対照的に、彼の声音は凪いだ海のようにとても静かだった。
さらさらと、音が聞こえた。
目を開ける。灯りの消えた室内は、ひっそりと静まりかえっている。
見える範囲には、音を立てる何かはない。体を起こして、音の在処を探す気もなかった。
ただ耳を澄ます。微かに聞こえる砂の音は決して止まることなく、急ぐこともない。それに彼女を感じて、途端に込み上げる苦しさに目を閉じた。
不意に、頭を撫でられた。
優しく繊細なその手つきに、息を呑む。
「泣かないで」
柔らかな声音。離れたくなくて、頭を撫でる手を取り目を開けた。
「――え?」
そこは暗い部屋の中ではなかった。
ざざ、と波の音がする。目の前で波が寄せては返していく。
見上げた空には青白い月が浮かび、無数の星々が煌めいていた。
夜の海辺で一人、座っている。
手の温もりはあるのに、そこには誰もいない。
「どうして……」
「泣かないで」
込み上げる涙を、見えない手が拭う。掴んでいた温もりがするりと消えて、代わりに抱き締められる腕の温もりを感じた。
「大丈夫。ちゃんとここにいるよ」
そっと囁かれる言葉と共に、さらさらと音が聞こえた。
砂の落ちる音。波の音と混じり合い、夜に解けていく。
見えない彼女に凭れながら、耳を澄ませた。砂の音は彼女からは聞こえない。それが悲しくて、涙が零れ落ちていく。
「――どうして、助けたの?」
子供を。そして私を。
自身を犠牲にしてまで誰かを助けるその行為を、理解できない。分かるのは、その献身で残される側の哀しみだけだ。
「それが私の本質だから、かな」
「本質?」
小さく笑う声がした。波のように静かに、穏やかに、彼女は言う。
「変わることのない根っこの部分。どんなに姿形が変わっても、周りが変わっても同じなのよ」
慰めるように、彼女が背を撫でる。昔から変わらない、その手の温もり。
別れは仕方がないことだと彼女は言う。その言葉一つで、すべてを受け入れられる程、大人にはなれなかった。
見えない彼女にしがみつき、嗚咽を溢す。離れたくないのだと手に力を込めれば、背を撫でる手がさらに優しくなった気がした。
「泣かないで」
静かな声が告げる。
泣きながら首を振る自分に、見えない彼女の手がそっと胸に触れた。
「私はここにいる。ちゃんと側にいるから」
彼女の手越しに、そこに触れる。緩やかな鼓動と、落ちていく砂の音を感じて、次第に意識が微睡んでいく。
「私の砂と、あなたの砂。二つが混じって、ひとつになった……ここにいるから、自由に生きて」
目を閉じて、小さく頷いた。
閉じた瞼の裏側に微笑む彼女を見て、涙と共に笑みを溢す。
鼓動の音と、砂の音。そして波の音が混じり合っていく。重なり合い、ひとつになって、小さな形を作っていく。
月明かりを浴びた波のような煌めく砂で満たされた、真白い砂時計。
さらさらと砂が落ちていく。落ちた砂は弾けて煌めき、波に攫われ海に還っていく。
「――おやすみなさい」
波のような彼女の声を聞きながら、意識が落ちていく。
寂しさも哀しみも感じない。
あるのは、揺り籠に揺られているような穏やかさだけだった。
目を覚ますと、そこはいつもの部屋の中だった。
体を起こし、そっとベッドから起き上がる。息苦しさは感じない。確かめるようにゆっくりと呼吸をした。
一歩、足を踏み出した。床の冷たさが素足から伝わり、意識が鮮明になっていく。
ゆっくりと窓へと歩いて行く。不思議な高揚感に、鼓動が跳ねた。
手を伸ばす。カーテンを引けば、途端に差し込む眩い光に、一瞬だけ目が眩んだ。
窓を開けて、外の空気を取り込む。見上げる空は、雲一つない快晴。暖かな陽射しに、笑みが浮かぶ。
「もう起きてたのか」
聞こえた彼の声に、振り返る。少しだけ驚いた表情をした彼の元へ歩み寄る。
「おはよう」
「おはよう。歩いて大丈夫なのか?」
彼の言葉に、笑って頷いた。
「お願いがあるの」
「なんだ?」
首を傾げる彼に、窓の外を指差した。
今日はきっと、出かけるのに良い日だろうから。
「海を見に行きたいの」
遠く聞こえる波の音を聞きながら願う。
すぐ側で、彼女が穏やかに笑っている気がした。
20251017 『砂時計の音』