sairo

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10/17/2025, 10:00:48 AM

見上げる夜空の一角。四角く切り取られたかのように、星のない場所があった。
きつく睨みつけても、星が戻ることはない。それでもしばらく見つめていたが、やがてその行為の無意味さに空しくなって、目を逸らした。

先日、代々伝わる、祖先が書き残した星図の一枚が姿を消した。その一枚が記していた空から星が消えたと伝えた家の者は、数日後、忽然と姿を消してしまった。
まるで星のようだ。誰も何も言わなかったが
皆思うことは同じだった。

このまま、星図が戻らなければどうなるのか。
そもそも、星図はどこへ行ったのか。

何も分からない。分からないからこそ、探しに行かなければ。
きつく手を握り締める。最後にもう一度空を見上げ、祖先が星図を描いていたという、かつての屋敷に向かい歩き出した。



最低限の手入れだけはされている屋敷は、不気味な静けさを湛えていた。
息を殺して、鍵穴に鍵を差し込む。誰もいないのだから気配を殺す必要はないと思うものの、屋敷の空気がそうさせた。
鍵を開け、戸を開く。からからと戸が開く音が、やけに大きく聞こえて途端に落ち着かなくなった。
玄関に入り、戸を閉める。靴を脱いで上がった時、廊下の先で何かが動いたような気がした。        咄嗟に出かかる悲鳴を噛み殺す。視線を向けるも、そこには何の気配もない。
深く深呼吸をして、ゆっくりと足を踏み出す。
何か手がかりが見つかるかもしれない。そんな思いで、恐怖に耐えながら廊下の奥を目指した。



「あなたが来たのですね」

奥座敷の障子戸を開けた瞬間に聞こえた声に、思わず肩が震えた。
視線を向ける。暗い部屋の中心で、座る誰かが真っ直ぐにこちらを見ていた。

「これは僥倖。一族の中で、あなただけが我らの祈りを継ぐことができるのだから」

不意に、誰も触れていない行灯の明かりが点いた。座る誰かの姿が露わになり、小さく息を呑む。
彼は先日姿を消した、星図が消えたと告げた者だった。

「――兄様」

呟きながら、その言葉の違和感に眉が寄る。彼は兄ではない。目の前にいる彼のことを、自分は見たこともなかった。
だというのに、体は躊躇いなく彼の元へと歩き出す。立ち上がる彼に寄り添い、促されて屋敷のさらに奥へと向かっていく。
どこへ行くのだろうか。その疑問に答えるように、自分の中の何かが離れへと向かうのだと告げている。
離れで、再び星図を描き直すのだと。

「星図に描かれている星を、理解していますか?」

不意に問われ、彼を見る。何かが告げるその答えを、言葉として紡いでいく。

「神様」
「そうです。我らが畏れ、奉ってきた神々。陽であり、雨であり、そして人でもある」

静かに頷いた。時の流れと共に忘れ去られてしまっていたことを、何かが語る。
ようやく思い出せた。不思議に安堵感を覚えて、小さく息を吐く。

気づけば、離れの一番奥の部屋の前まで来ていた。
彼が障子戸に手をかける。
音もなく開かれた戸の先に、星空が広がっていた。

「祈りを忘れ、存在を忘れた神々を、あなたの手でもう一度描くのです」

彼の指差す部屋の中央には、一枚の紙と、硯と筆が置いてあった。
消えてしまった星図だ。神々のために、描かなければ。
部屋の中へと、一歩足を踏み出す。しかし手を掴まれて、それ以上は足を進めることができなくなった。

「兄様?」

手を掴む彼に視線を向ける。
無意識だったのだろうか。その表情は自身の咄嗟の行為に、困惑しているように見えた。

「兄様」

声をかけると彼は唇を噛みしめ、俯いた。震える手が静かに離れていくのを、何故か寂しいと感じてしまう。
これは自分の感情なのか、それとも誰かの感情を感じているのか、区別がつかない。部屋の中の星空はどこまでも広がっていて、自分と自分以外の境界が酷く曖昧になっている気がした。
微睡むように、意識が揺らぐ。けれどもどんなに離れがたく感じても、行かなくてはいけない。その意思だけは強くあった。

「――我が妹よ」

凪いだ声音が呼ぶ。顔を上げた彼の顔もまた、先ほどの乱れはない。
彼は穏やかに微笑みを浮かべる。持ち上げた手にそっと髪を梳かれ、目を細めた。

「忘れ去られ、地に落ちたことを悲しく思う。だが、愛しいお前に再び逢えて、とても嬉しいよ」
「私もです。兄様」

髪を梳く手を取り、頬を寄せる。そして名残惜しさを感じながらも、その手を離した。

「行ってまいります」
「あぁ、行っておいで。私はいつまでも、この場から柱となったお前たちを想い続けていよう」

彼は今度は引き留める様子はない。微笑んで、部屋の中へと足を踏み入れる。
部屋の中央。紙と硯の前で座り、筆を取る。
空を見上げずとも、星の位置が分かる。まるで導かれるように、墨を吸わせた筆で星を描いていく。
不思議な感覚だった。一つ星を描く毎に、自分の中の何かが抜け落ちていく。それを怖ろしいと感じるのに、手は少しも澱まず星図を描き続けている。

不意に、声が聞こえた気がした。
風や星、空が囁いている。それは祈りの詞となって、描いた星図を煌めかせる。

星図は、名もなき神々を描いている。

描き終わった星図を前にして、急に畏れが込み上げた。
筆を置き、手を合わせる。
目を閉じれば、悠久の時の流れに乗って、恋しいと詠う声が聞こえた。





夜が明けた。
屋敷の中には誰もいない。静謐に満たされた屋敷は、まるで眠っているかのようにも見えた。

不意に、どこからか風が入り込んできた。
風は迷うことなく奥へと向かい、離れの一室へと吹き抜けていく。
その部屋の中央に、一枚の古ぼけた星図があった。風は星図を舞い上げて、外へと駆け抜けていく。
外で色づく葉のように、星図が揺らめきながら落ちていく。音も立てず畳に落ちた星図は静かに煌めき、霞み解けていく。
残るものは何もない。

遠くでかたり、と音がした。玄関の戸が開き、外から誰かが屋敷に入ってくる。
板張りの廊下を軋ませ、奥へと進む。離れの一室の前で止まり、障子戸を開いた。
陽を連れて、小さな影が部屋へと足を踏み入れる。その中央で足を止め、膝をついた。
手を合わせ、目を閉じる。
陽を浴びて伸びる影に、いくつもの星が煌めいていた。



20251016 『消えた星図』

10/16/2025, 9:58:16 AM

「例えばさ。今の私のあなたへの愛情から、あなたと出会って初めて知った私の恋を引いたら、何が残るんだろう?」

穏やかな午後。食後の微睡みに沈みかけていた意識が、彼女の唐突な言葉で一気に覚醒する。
目を瞬いて、彼女を見た。真剣な眼差しで考え込む姿に、何と声をかければいいのかを迷う。

「そもそも愛とか恋とかって、本当にあるのかな?目に見えないし、ただ思い込んでいるだけなのかな」

彼女はいつも、答えのないことを考えている。折角先の見えない死の病から解放されたのだから、もっと幸せに過ごしたらいいだろうに。
そうは思うが、そんな所も可愛いと思ってしまえるのだから、愛とは不思議なものだ。苦笑して、気怠い体を起こして彼女を見た。

「あのさ。答えにはならないかもしれないけれど」

そう前振りをして、彼女の煌めく瞳を見ながら微笑む。

「愛という真心から、恋という下心を引いたら。残るのはさ」

ふと思い浮かぶ、誰かの背。
少しでも伝わればいい。
そんなことを願いながら、思いを口にした。

「それはきっと、祈りだと……そう思うよ」
「祈り?」

彼女は首を傾げ、自身の両手を見た。
手を組んで、目を閉じる。真剣な表情をして、何かを思っている。
ややあって目を開けた時。彼女は一瞬だけ哀しみを目に浮かべ、そっと微笑んだ。

「よく分からなかった」

でも、と彼女は窓の外を見る。目を細めて空を見上げ、呟いた。

「兄さんはきっと……誰かのことを、ただ愛しているんだね」

その言葉に、彼女が何故唐突に愛や恋を語り出したかを理解した。
彼女の兄は、毎日欠かさず社で祈りを捧げている。誰の記憶からも抜け落ちてしまった誰かを、今も思い続けているのだろう。

「この前ね、何を祈っているかを聞いてみたの……あの子が幸せでいてくれますように、だって」
「そっか……」
「あの子は誰なのかは、何も言ってくれなかったけれど」

何も言わず彼女の側に行き、そっとその体を抱き締めた。
愛しい温もりを感じながら、彼女の兄が想い続ける誰かの姿を思い浮かべてみる。けれどそれは人の形を取ることもできず、霞んで解けて何も残らない。

「兄さん、何だか前と変わった気がする。必死で何かに縋ってたのがなくなって、穏やかさというか、静けさが残ったみたいで」

ただ頷いた。
彼の変化には、誰もが気づいている。それだけ彼は必死だった。
溢れ落ちていく記憶の欠片を掻き集めるように駆け回り、社に嘆願した。それを変えてしまったのは、きっと自分だ。

目を見開き、崩れ落ちる彼の姿。

――君だけは、覚えていてくれると思っていた。

微かな呟きを、忘れることはないのだろう。
その時感じた強い憎しみ、怒りにも似た感情も含めて。

「愛から恋を引くって、とても難しいな。私にはきっとできない。相手の幸せだけ願えないもん。二人で幸せになりたい」
「僕も同じだよ。一緒に幸せになりたい」

二人で一緒に。
願いを込めて告げれば、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
ふと、彼女は何かに気づいたように小さく声を上げた。こちらを真っ直ぐに見つめ、腕を伸ばして抱きつく。

「何となく分かった。祈りって、相手の幸せを願うことだ。そこに恋っていう、自分の幸せを願うと、二人の幸せを願う愛になるんだよ」

ふふ、と声を上げて彼女は笑う。
彼女の答えに、目を瞬いた。遅れて言葉の意味を理解し、彼女を強く抱き締め返す。
ただ胸が痛かった。形にならなかった誰かの姿が、一瞬だけ控えめに微笑む、自分によく似た少女の姿を浮かばせた気がした。
彼女を抱き締めながら、その姿を求めて自分の傍らを見る。
そこには誰もいない。浮かんだはずの姿も千々に解けて、何一つ残らない。

「どうしたの?」

不安げに顔を覗き込む彼女に、何でもないと笑ってみせる。
何もない。残ったものは、何もなかった。
込み上げる切なさに泣きたくなるのを誤魔化して、彼女の額に唇を触れさせた。



その夜、夢を見た。
特別な何かがある訳ではない。日常の続きのような、けれどもとても暖かな、幼い頃の夢を。
母と手を繋ぎ、もう片方もまた誰かと繋いでいる。視線を向ければ、その誰かは自分と同じ顔をしていた。
父と手を繋いでいるもう一人の自分が、笑いながら繋いだ手を揺らす。前髪に差したコスモスを模ったピンが、ゆらりと揺れていた。
強く風が吹き抜けて、思わず手を離した。気づけば両親の姿はなく、もう一人の自分とふたりきり。
その顔は影になって、もう見えない。白のスカートを揺らし、こちらに背を向けて去って行く。

「どうして……」

溢れ落ちた言葉に、柔らかな声が返る。

「彼のことが、好きだから。だから祈るの。彼の願いが叶うように」

声が、風に紛れて消えていく。体が端から解けてしまう。
手を伸ばすことも、声をかけることもできずに、ただ見つめていた。

からん、と鈴の音が聞こえた。
目を瞬けば、そこにはもう誰の姿もない。誰かがいたという記憶すら、薄れてなくなっていく。

じわりと白く霞み出す世界に夢の終わりを感じながら、両手を合わせ目を閉じた。
あの子は、献身を形にしたような少女だった。
控えめで、優しくて、暖かい。大切だったはずの半身。
彼女が考えていた愛から恋を引いたその答えは、きっとあの子のことをいうのだろう。
自分には、辿り着けない。彼女を愛してしまった自分は、恋という名の執着を手放せない。

唇が震える。けれどそれは言葉になる前に、微笑む誰かが止めた気がした。



20251015 『愛ー恋=?』

10/15/2025, 9:32:06 AM

瑞々しい果実の控えめな甘さに、笑みが浮かぶ。

「おいし……」
「そう。なら良かった」

淡々とした声音。表情の変わらない彼女の手が、黙々と梨を切り分けていく。
少しだけ不格好に切られた梨は、どことなく彼女に似ている気がする。思わず溢れた笑いを誤魔化すように、また一つ切られた梨を取り、口をつけた。

「――それで?」

不意に問われて、視線だけを彼女に向けた。

「今度は何を『無』にしたいの?」

彼女の表情は凪いだまま。
責められている訳ではない。それは理解できるのにどこか落ち着かず、視線を逸らしながら梨を囓った。

「何度も言うけれど、全部『無』にはならないわ」
「――分かってる」

呟くも、それがただの虚勢だということは、きっと彼女にはばれてしまっているのだろう。

全部無くしてしまいたい。
噂を頼り、彼女の元を訪れた時に願ったことだ。
それを彼女は無理だと言った。彼女にできるのはほんの僅か、余分な記憶を『無』にすることだけなのだと。
小さな梨は些細な記憶しか、外へ流せないのだと言っていた。

「分かってる。でも『無』にしないと……そうしないと、駄目な気がする」

その理由は、自分でも分からない。ただ漠然と、そうしなければいけないと感じている。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。ただ新しく切り分けた梨を皿に出され、おとなしくそれを口にする。

「おいしい」

しゃり、と口に広がる瑞々しさ。乾きを潤すように全身を満たして、次第に何かが無くなっていく。

「それでおしまいよ。食べたら帰って」
「あ、うん」

頷きながら、梨を囓る。

「――何か、話があった気がするんだけどな」

ぼんやりと形にならない、彼女への要件。梨を食べ終える前に思い出そうと思考を巡らすが、一向に思い出す気配はない。

「思い出したら、また来たら良いわ」

相変わらず彼女は淡々としている。
だが彼女の言葉も尤もだ。仕方がないと、思い出すのを諦め梨の瑞々しさと甘さを堪能することにした。



あれから数日が経ち、再び彼女の元へと訪れた。

「また来たの」

無表情に呟いて、けれど彼女は厭う様子もなく部屋の中へと招き入れられる。
椅子に座り、彼女が梨とナイフを手に戻ってくるのをぼんやりと見つめる。
梨の皮を剥き始める彼女に、きっと何度も繰り返しただろう望みを口にした。

「全部、無くすことはできる?」
「できないわ。この梨の大きさの分だけしか『無』にはならない」

こちらに視線を向けず、手を止めず、彼女は淡々と答える。
不思議と落胆はない。何度も繰り返し望み、断られたからだろうか。

「――全部無くさないと、どこにも行けないのに」

誰にでもなく呟けば、彼女の手が止まった。
彼女の凪いだ瞳が向けられる。何も言わず、その目をただ見返した。

「あなたは……あぁ、そうなのね。逆なんだ」

僅かに見開かれた目を瞬いて、彼女は何かに気づいたように微笑んだ。

「どういうこと?」

首を傾げる。だが彼女はそれ以上何も言わず、再び梨の皮を剥いていく。
くるくると皮が皿に落ちるのを何気なく見ていれば、皮を剥かれた梨をそのまま手渡された。
切り分けられていない、少しだけ歪な丸い果実。戸惑い彼女を見るが、彼女は静かにこちらを見ているだけだ。
そっと梨に口をつけた。しゃり、と音を立てて、瑞々しく甘い果実が口に広がり、喉を潤していく。

「おいしい」

目を細め、甘さを堪能しながら梨を囓る。芯を避けて果肉を食し、丸かった果実は細く痩せていく。
芯だけを残して梨を平らげれば、彼女は静かに歩き出し、扉の前でこちらを振り向いた。

「来て」

ただ一言告げられ、立ち上がり彼女の元へと向かう。残った梨の芯をどうするべきか迷うが、何となく持っていた方が良いような気がした。

彼女の後に続いて、外へと出る。裏に広がる梨畑の一角までくると、彼女はこちらを振り向いた。

「ここに種を植えるの。芯のままでいいから」

頷いて、膝をついた。柔らかな土を掻き適度に穴を掘ると、そこに梨の芯を落とす。
その行為を意味を、疑問には思わなかった。そうすることが正しいのだと、これでもう大丈夫なのだと感じて笑みすら浮かぶ。
穴に入れた梨の芯に土をかければ、不思議と心が穏やかになっていった。

「あなたのその記憶は生きた証。決して『無』にはならない」
「だからここで咲かせるの?」

埋めた芯を見ながら、思い浮かんだ言葉を口にする。彼女に頭を撫でられて、こそばゆさと気恥ずかしさに小さく笑い声を上げた。

「きっと綺麗な花が咲くわ。そして美味しい果実になるの……誰かのために生き続けたあなたの想いは、今度は別の誰かに寄り添い、余分なものを流してくれる」
「そっか……」

自分にとってもう必要ないものでも、誰かの役に立てる。そのことが、何よりも嬉しい。
見つめる先の土が盛り上がり、小さな芽が出た。代わりに自分の中の誰かの姿が消えていく。
自分の中の記憶を糧に、梨が生長していく。無くなっていくかつての自分を感じながら、穏やかな気持ちで微笑んだ。

「ありがとう」

彼女に、そしてかつての自分に感謝の言葉を述べる。
これでもう、自分は先に進める。また新しく始めることができるのだ。
立ち上がり、彼女に深く礼をする。頭を上げれば、優しい顔をした彼女に、もう一度頭を撫でられた。

「前のあなたの生はここに置いていくことになるけれど、あなた自身の本質は変わらないわ。だから次の生も胸を張って生きればいい」

そう言って、彼女は梨畑の先にある一本道を指差した。その先から差し込む光の強さに目を細める。

「変わらないんだ」

密かに安堵しながら、戯けて呟く。そうであるならば、道を踏み外すことはないだろう。

「そうよ。全部『無』にはならないの……さあ、いってらっしゃい」

彼女に見送られ、足を踏み出した。
次に向かうため余分なものをすべて置いていくからか、とても体が軽い。跳ねるような足取りで、道の先へと進んでいく。
光に向かい歩いていく。体が小さく解けていく感じに、微睡みに似た心地良さを感じる。

「いってきます」

誰にでもなく呟いて、目を閉じる。
暖かな水の揺り籠に抱かれる感覚に、身を委ねた。



20251014 『梨』

10/15/2025, 9:13:48 AM

「La……La La La……」

静かな、それでいてもの悲しい旋律が、夜に解けていく。彼女は一人、穏やかに微笑みを浮かべ、旋律を紡ぎ続けていた。
歌詞のないそれは、祈りの歌。ただ一人に向けて、愛を歌っているのだろう。
想い人には届かない。風が届けても、気にも留められない哀の歌。

「La La La……La La……」

それでもいいのだと、心から微笑む彼女の強さが眩しくて。
胸が、痛かった。

「まだ、続けるの?」

問いかければ、彼女はやはり優しく微笑む。
その笑みを見てしまえば、それ以上何も言えなくなる。視線を逸らし、空を見上げた。
冴え冴えとした白い三日月が浮かんでいる。まるで空を漂う船のように見えて、思わず手を伸ばす。
彼女を連れ去ってくればいいのに。そうすればきっと、この場所や想い人から解放されるはずだ。
しかし地に縛られた自分では空まで手が届くはずもなく、月の船は雲の向こうへその姿を隠してしまった。
手を下ろし、自嘲する。空想に縋るほど何もできない自身の無力さに、いっそ泣いてしまいたかった。

「――ごめんなさいね」

不意に彼女が呟いた。
歌うような優しい声音と共に、そっと頭を撫でられる。

「これは私の我が儘なの。だからあなたが苦しむことはないのよ?」

何も言えずに俯いた。
ただ一人を想い歌い続けることが彼女の我が儘だというなら、彼女を想い無力さに嘆く自分も我が儘なのだろう。
返事の代わりに、彼女にそっと寄り添った。

「優しい子ね。ありがとう」

目を閉じる。再び奏でられる旋律を聞きながら、伝わらない事実をただ思う。

彼女の想い人は、もうどこにもいない。
彼女の想いを継いで生きたその人は、どんな困難にも立ち向かい生き続けた。人を愛し、血を繋げ、そして家族に見守られながら先日往生を遂げた。
彼女が命をかけて産んだ愛し子は、彼女の願う通りに幸せに生きたのだ。

何度伝えても伝わらないこと。
産んだ子に対する未練だけでここにいる彼女の中では、想い人はいつまでも赤子のままだ。きっとこれからも変わらず、彼女はいつまでも旋律を奏で続けるのだろう。


「――あれ?」

不意に風が止まった。視線を巡らせると、遠くから誰かの影が近づいてくるのが見えた。
彼女は気づかない。息を呑んで見ていれば、影は彼女の目の前で膝をつき、両手を包み込んだ。
旋律が途切れる。雲に隠れていた三日月が淡い光を灯し、影の姿を露わにしていく。

「かあさん」

呟かれたその言葉に、彼女は目を瞬き、

「――あぁ」

一筋、涙を溢した。



「還ろう。一緒に」

柔らかく微笑む成長した子の姿に、彼女は声を詰まらせ泣きながらも小さく頷いた。
もう彼女は大丈夫だ。密かに安堵の吐息を溢し、静かに二人から距離を取る。
見上げた空に浮かぶ三日月は、何も語ることはない。ただほんの僅か、微笑んだように見えた。
小さく笑みを浮かべて、二人へと視線を戻す。
寄り添う二人が、ふとこちらに視線を向けた。
泣き腫らした目をした彼女が、息を呑んだ。ようやく気づいてくれたらしい。最後に起こった奇跡に、笑みが深くなる。
同じように二人も微笑んだ。
そっと、手を差し伸べられる。

「姉さんも行こう」

その言葉に、笑みを浮かべたまま首を振った。

「っ、どうして……?」

呆然と呟く彼女に、答えの代わりに歌を口遊む。彼女が奏でた旋律を、同じように紡いでいく。
それだけで、弟には理解できたのだろう。くしゃりと顔を歪めながらも、差し伸べていた手を下ろした。

「La……La La La……」

歌いながら、二人に背を向けた。追い縋ろうと手を伸ばす彼女――母を引き留め、俯く弟の姿が見えたが、振り返ることはしない。
あれだけ想っていた弟が迎えに来てくれたのだ。もうこれ以上、母がここに留まることはない。
ならば次に自分が見守るべきは、弟が残した家族たちだ。

弟を守る。
いつか母と交わした約束は、少しだけ形が変わってしまったが大丈夫だ。
自分は姉なのだから。弟も、弟の子たちも全員見守り続けていく。
この選択に後悔はない。それに、丁寧に祀ってくれているのだから、そのお礼に子孫を守るのは当然のことだ。
自分の向かうべき場所へ、迷いなく足を進めていく。
母のすすり泣く声が遠くなる。それに少しだけ寂しさを感じながら、どうか次こそは最後まで幸せでいて欲しいと願う。
母はずっと寂しさと悲しみを抱えて、今まで一人歌ってきたのだから。悲しい微笑みなど、これ以上は必要ない。

「La La……La……La La La」

母が弟を想い、紡いだ旋律。
別れを悲しみながらも、相手の幸せを願い続けた祈り。
その歌を、今度は弟の家族のために歌い続ける。

ふと、道の先に誰かの影が伸びていた。
立ち止まり、視線を向ける。月明かりを浴びて、白の制服が煌めいて見えた。
写真の中でしか見たことのなかった優しげな微笑みに、じわりと世界が滲む。ふらりと進む足はいつしか駆け出していて、軽く手を広げて待つその人の胸の中へと迷いなく飛び込んだ。

「ありがとう」

穏やかな声音に、泣きながらも笑顔で顔を上げる。

「だって私、お姉ちゃんだもの!弟も、弟の家族も、お母さんも、皆守っていくんだから!」

高らかに告げれば、父は笑って偉いなと頭を撫でてくれた。



20251013 『La La La GoodBye』

10/14/2025, 4:09:59 AM

この道に終わりはないと、誰かが言っていた。
確かに見える限りに果てはない。一本道はどこまでも真っ直ぐに、朱色の鳥居の先まで伸びている。
その先は禁足地だ。道を一歩でも逸れれば、祟られるのだと言われている。
ごくりと唾を飲み込んだ。引き返すのならば今のうちと、何度も心が警鐘を鳴らしている。
それでも、始まりには必ず終わりがあるように、きっとこの道にも果てがあるだろうから。
それを確かめるため、勇気を出して足を踏み出した。

鳥居を潜ると、空気が変わった。
風が止み、生き物の声が遠ざかる。代わりに常に誰かが見ているような気配がして、何度も足を止めては、周囲を見渡した。
確かにここは正しく禁足地なのだろう。人が気軽に足を踏み入れてはいけない場所。唯一許された道を、自分は今歩いているのだ。
何度も戻ろうと考えた。しかし振り返り歩いてきた道の先が昏く沈んでいるようで、このまま進むしかないのだと思い知らされる。道を逸れないよう、何度も確認しながら前だけを見て歩き続けた。



どれだけ歩き続けただろうか。随分と長く歩いている気がするが、見上げた空に浮かぶ太陽は陰る様子はない。
相変わらず生き物の気配はないのに、何かの視線を感じる。視線に怯えて、立ち止まることはなくなった。ただ何かに急かされるように、足だけが勝手前へと進み続けている。

ふと、目の前に一つの鳥居が現れた。
最初に潜ってきた鳥居とは違い、小さく灰色にくすんでいる。
立ち止まり、鳥居を見つめる。どこか懐かしさに似たものを感じて、胸が苦しくなった。
きっとこの先が、道の果てなんだろう。
訳もなくそう感じながら、鳥居を潜り抜けた。



鳥居を潜ると、その先に小さな祠があった。
苔に覆われた小さな祠の前には、干からびた花が一輪置かれている。
ここが道の果てだった。

祠の前に歩み寄り、静かに膝をつく。胸の前で手を合わせ、目を閉じた。
何故だろうか。そうすることが当然だと、そう思った。

「また、来たのか」

声がした。
目を開け振り返ると、着物を着た男の人が凪いだ眼でこちらを見つめていた。

「また……?」

彼の言葉に首を傾げる。
ここへは初めて来たはずだ。今まで何度も道の果てを気にしながらも、足を踏み出せてはいなかったのだから。
彼は何も言わない。自分もそれ以上何かを問うことはなく、静かな時間が流れていく。
ふと、背中のリュックの存在を思い出した。リュックを下ろして開ける。
中に入っていたのは、タオルやブラシ。そしてバケツなどの掃除用具ばかりだ。
何故こんなものを入れていたのか。疑問に思いながら、リュックから道具を取り出していく。
考えても答えは出ないのだろう。自分が道の果てを気にするのと同じように。
バケツを手に立ち上がると、彼はこちらを一瞥し歩き出す。その後について歩けば、向かう先から水の流れる音がした。
小さな清流。深呼吸をすれば、澄んだ空気に気持ちが凪いでいく。
バケツに水を汲み、再び彼の後について歩く。祠の前まで戻ると、何も言わず祠を覆う苔を落としていく。
何故こんなことをしているのだろう。いくつも疑問が込み上げるが、手は止まることなく黙々と祠を綺麗にしていく。自分の意思とは関係なく動く体に、しかし恐怖はない。
あるのは、微睡みの中にいるような、穏やかで暖かな思いだけだ。

「この祠が祀っているのは、あなたなの?」

祠から目を離さず、手も止めずに問いかければ、答えの代わりに祠の扉が開いた。
中には小さな丸い石が数個。それ以外には何もない。
誰かを祀っているのではない。
ここは祈りの場所なのだと、そう感じた。

扉を閉め、再び祠を綺麗にしていく。屋根や壁を拭いて、周囲の落ち葉を集めていく。彼から渡されたちり取りと箒は、何故か何年も使っていたように、手に馴染んでいた。

最後にと、道具を纏め立ち上がる。振り返れば、彼の手には一輪の花。

「いつもありがとう」

自然と口をついて出た言葉を、もう疑問に思うこともなかった。



手を合わせ、目を閉じる。
たくさんの感謝と願いを込めて、祈り続ける。
しばらくして目を開けると、静かにこちらを見ていた彼と目を合わせた。
聞きたいことはたくさんある。
祠のこと。彼のこと。自分自身のこと。
けれど言葉になったのは、たったひとつだけだった。

「道の果てはあるの?」

その問いに彼は僅かに表情を綻ばせ、答えた。

「人間が祈りを忘れない限り、道はどこまでも続いていく。ここもまた、道の途中だ。人間が祈りを捧げる度に、道は続いていくのだろう」

彼の示す方向には、まだ道が続いている。
途端に込み上げるのは、果てを求める好奇心だ。小さく笑みを浮かべながら、その道へ足を踏み入れる。

「相変わらず可笑しな奴だ。姿を変え、立場を変えたとしても、その在り方は変わらないとは。巡礼者とは皆こうなのか。それともお前が特別なのか」

呆れを滲ませ彼は言う。振り返れば、呆れながらも優しい目をした彼が、微笑みを湛えて告げた。

「良い旅を。此度の生こそ、虐げられず本懐を遂げることができればよいな」

強く頷き、道の先を見据えた。
ゆっくりと歩き出す。
道の果てを目指して。
この祈りの行き着く先を求めて。





誰かが言った。この道に果てはないのだと。
鳥居の先。禁足地に続く道は、どこまでも果てしなく続いているのだと。

そんなことはありえない。そう周囲は口を揃え、その言葉を笑う。
道の先は、隣町に続いている。そもそも鳥居などなく、禁足地など聞いたこともないと。

道は続いている。祈り続ける者にしか認識できない、どこまでも真っ直ぐ続く道は、今もどこかで訪れる者を待っている。



20251012 『どこまでも』

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