カリカリとシャーペンの音が響く。
乾燥してきた空気はよく音が響くなと思いながら、数学の問題と睨めっこ。もう遅い時間だからか、問題文が全然頭に入ってこない。思考があっちに行ったりこっちに行ったり。
「あー、もう、全然ダメ!」
手のひらをぐーっと伸ばして天井を見つめ、壁にかかったカレンダーに目を移した。
もう1月。
大学受験の日まで時間がない。
こんなことじゃダメなのにと、マイナスな思考がグルグルする。もっといっぱい問題を解いて、もっと頑張らないと。
グルグルした思考の中、不思議と泣きたくなってくる。
すると、コンコンと部屋のドアがノックされた。
「なに」
ぶっきらぼうにそう返す。
なんでもいいから八つ当たりしたい気分だ。
するとゆっくりと扉が開いて、眉毛をハの字に垂らしたお母さんが顔を出した。
「ねえ、美味しいフォンダンショコラができたのよ。お父さんも辰樹も寝ちゃったでしょう?一緒に女子会しましょ」
そんな言葉と共に甘い匂いが部屋に入ってくる。いつの間にかささくれていた気持ちも落ち着いてきた気がした。
「…たべる」
こんな時間にフォンダンショコラなんて食べていいのかと一瞬考えたが、甘い誘惑に勝てるはずもなく。すぐにシャーペンを放り投げてお母さんの後をついて行った。
キッチンの小さな机に2人分だけ置いてあるフォンダンショコラは、出来立てだからかほかほかで、先ほどとは比べ物にならないほど甘くていい香りを漂わせている。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
席についてすぐにパクりと口に入れたフォンダンショコラは、甘くって優しくって、涙が出てくるほど美味しかった。
「おいしい」
「そう?よかったわ」
そのまま泣きながら食べ続けて、あっという間にフォンダンショコラはなくなってしまった。食後に温かいお茶を飲んで、ホッと息を吐く。
束の間の休息で頭がリセットされたのだろう。なんだかどんな問題でも解ける気がしてきた。
「お母さん、私もうちょっと頑張る」
「あらあら、ほどほどにね」
「うん!」
頷いて意気揚々と部屋へと向かう。あんなに寒々としていた体がすっかり温かくなっていた。
料理をするのは意外と力がいる。捏ねるのもそうだし、切るのもそう、混ぜるのもそうだ。世の中の料理人を見ればわかる。特に男性料理人の屈強な体!ボディービルダーと見紛う料理人なんている。
「ふうんー!!!」
「ママ!頑張って!!!」
そんなことを考えて意識を彼方に飛ばしつつ、今一生懸命切っているのはかぼちゃだ。10月にある、子供がワクワクするイベントといえばハロウィン。
例に漏れずに我が家の娘もハロウィンに感化されたらしい。今日は小学校から帰ってくるなり、ランドセルを放ってキッチンへとかけてきた。
「ママ!かぼちゃプリン作ろう!」
手には可愛らしい装飾が施されたチラシ。
どこかでもらってきたのか、ポップな字体で『簡単カボチャプリンを作ろう!』と書いてある。中身を見れば、主婦から見れば簡単でも、子供から見たらちっとも簡単ではない。
それでもどうしても作りたいのだろう。娘はぷにぷになほっぺたをピンク色にして、鼻息荒くふんふん言っている。目もやる気だ。ここで否定してしまえば、待っているのはギャン泣きだろう。
「よーし、わかった。一緒に作ろっか!」
「うん!」
そうして今に至ると言うわけだ。
「ママ、ちょっと切れてるよ!」
横で応援してくれる娘の頭を撫でて、もう一度包丁を握る。電子レンジを使って……とかいろいろ試したものの大きすぎてうまくいかず、もう結局頼れるのは己の腕力のみ。
「そういえば、どうしてかぼちゃプリン作りたいの?かぼちゃはそんなに好きじゃないよね」
包丁の位置を探りつつ、ふと気になったことを聞いてみた。すると思いの外返答が返ってこない。
不思議に思って娘の方を見れば、娘はモジモジと指をこねてやや俯いている。
「……そうたくんが、かぼちゃプリン好きだから、まながつくったの食べたいって」
あらあらまあまあ。
ちょっと早い春の到来に、思わず口元に手が伸びる。
「なら、とびっきり美味しいの作らないとね」
「うん!」
ようやく位置が決まった包丁を握って、今までよりも力を込める。
「ふん!」
「われたー!!!」
嬉しそうな歓声と共に、かぼちゃが綺麗に割れる。切った自分よりも大喜びする娘を見て、思わず笑みが溢れた。
昔ながらの和室に敷かれた布団で上半身を起こし、外を眺める。縁側の奥にあるこぢんまりとした庭では、桜の花がひらひらと舞っていた。毎年のことながら、その姿を見ると妙に寂しくなってしまう。
「なんだ、起き上がって大丈夫なのか」
出会った頃よりも背は縮んでシワシワになってしまったお爺さんが、気遣わしげにこちらへと寄ってくる。
「ええ、随分良くなったわ」
そう言ってまた桜の木のほうをみれば、お爺さんは思いついたように席を立った。そしてすぐに戻ってきたかと思えば、2人分の麦茶を持ってくる。
「あら、麦茶にはまだ早い季節じゃない?」
ご丁寧に氷まで入った麦茶は、娘の真奈に見つかれば、病人に何飲ませているの!と怒られかねないだろう。だがお爺さんはさも当たり前のように、嫌だったか?と聞いてくる。
「ふふ、まさか」
渡された麦茶を飲みながら、2人でゆったりと桜の木を眺めた。まだ満開になってそう時間は経っていないが、早くも葉っぱがつき始めている。きっと雨が降ってしまえば、このままあっという間に散ってしまうのだろう。
「こうやって桜を見ていると思い出すなあ。ほら、辰樹を妊娠していた時だ」
「ああ、真奈の時よりも悪阻が酷くって困った時のことね」
懐かしい思い出に目を細めると、お爺さんは神妙にうなづいた。
「あの頃は毎日食べられるものが変わって、ドキドキしたもんだ。だが、麦茶だけはなぜかずっと飲んでくれてなあ」
「そういえばそうでしたね。あの時も2人で麦茶を飲んで桜を見たわ」
今ではすっかり年老いてしまったが、まだ若かった頃も変わりなくこうやって2人で麦茶を飲んでいた。そうやって2人でゆっくりしながら話して、眠くなって横になるまでがセットだ。
そう思い出すと途端に眠くなってくるから不思議なもの。
「ねむるのかい」
「ええ、ちょっとだけね。まだ私は元気よ」
そういうとお爺さんはひどく嬉しそうに笑って、2人分の麦茶を手に取った。
「真奈に怒られる前に証拠隠滅せにゃならん」
「あらあら」
くすくすと笑いながら、ゆっくりと目を瞑る。
「おやすみ」
その声と共に瞼の上に置かれた手が、いつもと変わらず冷たくて暖かくって、幸せな気持ちで眠りにつく。まったく、ただの風邪なのに大袈裟なんだからと、いつまでも変わらない桜とお爺さんの優しさが暖かかった。
今日の仕事を終えて、芝生に寝っ転がった。
朝から晩まで羊の世話をするこの仕事は、それ以外の生業を知らない自分にはピッタリだ。だがふと、いつか別の仕事もしてみたいとも思う。
そんなことを思っていれば、すっかり暗くなった頭上では星々が輝き、人々に方角を教えてくれている。
「おーい」
声がする方では、少し向こうのほうで仕事仲間のパレトロが手を振っている。
それに手を振り返せば、まるで犬のような顔をしたパレトロがこちらにかけてきた。
「こんなとこで何してんだ?」
「何って、星を見ていたのさ」
「星?んなもん見てねえで、早く帰って飯でも食おうぜ」
腹が減って仕方がないと言った様子のパレトロは、訝しげにこちらを見る。
「まあまあ、ここで急いで帰っても、星を見て帰っても、腹に飯が入るのはそう変わんないだろ。お前もどうだ。ちょっと見ていけよ」
すると珍しく少し考えた様子のパレトロは、たしかになと呟くと大人しく隣に寝っ転がった。
「で?こんなの見て何が楽しいんだよ」
まだまだ若さが残るその言い方にクスリと笑いつつ、指で幾つかの星をなぞった。
「そうだなぁ。あそこの一際輝いている星と、その六つ横の星と上の星を組み合わせたら、蛇みたいな形になるだろ」
「そうか?俺にはうちそこなったムチにしか見えねえ」
「随分物騒なやつだな」
そういえばケラケラとパレトロは笑う。
「野蛮な育ちで悪かったな。それで?」
「生まれも育ちも同じくせによく言うな。まったく、いいか、あれを蛇だとするぞ。それで、その隣の輝いてる星を繋げれば蛇使いだ」
そう言って適当に指を動かせば、横から雑だとクレームが入る。
「蛇なんて何ができるんだよ」
「さあな。でもここよりもっと西の方にはそう言う職業の奴がいるらしい。ホビリが言ってた」
「あいつは適当で有名な商人だろ!ホラでも吹いてるんじゃねえのか」
さあ?と肩をすくめてケラケラと笑う。ホビリの言が嘘でも本当でもどっちでもよかった。ただこの世には自分の知らない世界や職業があるとしれただけで十分だったのだから。
「僕もお前も、羊の世話しかしたことないけど、この先世帯をもって別の職につくかもしれない。そう考えたら、明日も楽しみだよな」
「そうかあ?俺はこれから食う飯のこと考える方が楽しみだね」
「まったく、お前はまだまだ子供だね」
なんだと!?と言いながら飛び起きたパレトロに倣って起き上がる。そろそろ戻らなければいけない頃合いだろう。
「まったく、年は変わらないくせに、本当にお前は年寄りみたいなことばっかり言うな、ダビデ」
「思慮深いと言ってくれ」
ケラケラと笑い合いながら、仲間が待つところへと歩いていく。空では星々が降り注ぐように輝き、その平和を祝福していた。