浅木

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5/21/2024, 2:32:09 PM

 自分が疎ましいと思う人間はこの世に少ないらしい。
 死にたいと思うことは悪であり、自分を否定するのは哀れであり、己を消したいと思うことは愚かなことだと周りは言う。それはとても幸せなことで、だからこそ私に向けられる嘲笑が尚更身にこたえた。
 ネットの海を観れば、自分と同じ考えの人間は山ほどいるが、所詮はネットはネット、現実は現実。目の前で怒号の雨を降らせているこの現状に対しての特効薬にはならない。
 日常はいつも通りに回るものだ。それこそ、自分自身が死なない限り。
 意味が無い生き方しかできない人生だ。人の邪魔はしていない、かと言って役に立つことがあったかというと違う。自分が生きていなくともこの世界は回るし、今この世から消えてしまったとしても困る人間は誰一人としていないのだろう。それが嬉しくもあり、悲しくもある。後者に関しては完璧な矛盾だと理解しているのに、だ。
 あぁそうとも、生まれた以上愛されたい。私だって人間で、感情がある生き物で、誰かに大切にされたかった。大切にしてみたかった!
 けど実際はどうだ、いてもいなくても変わらない、仮に死んだら家族は正直困るだろう、自殺した子の家庭という重荷を背負わされるのだから。どっちつかずで足元がふらついて、右に左に揺られるままだ。
 いやだ。
 こんなのはいやだ。
 愛されたかった。愛してみたかった。みんなが当たり前に考えられて、当たり前に享受できるものを受けてみたかった。こんな人間でもこれくらいの欲は無限に沸く。
 それでも理性では分かっている。自分はそれに値しないと。そして愛することも恐らく出来ない性格だろう。いつか将来、致命な失敗をして、人から去られてしまうであろうことも。

 だからせめて。今のうちに自分を「無」にさせて下さい。誰も傷つけない、誰にも悲しまれない、見えない物にさせて下さい。
 認識されなければ、私を見る人がいなければ、居ないものとして扱われる。ということは、何にも影響を与えることが出来ない。正に理想の形だ。
 どうか、どうか。

「……いえ、ちゃんと聞いてました。はい。ごめんなさい、ママ」
「ごめんなさい」
「すみませんでした」

 今日も痛い。
 
 
2024/5/21
「透明」

5/16/2024, 3:58:00 PM

 「愛」というのは、つくづく美化されすぎている。
 創作においての愛はとても素敵なものだし、この世に生まれた子供の殆どは愛の結晶だ。特別な感情……だとは思う。
 それでもいつも思うのは、「愛」があればどんなことでもこなせるというのはあまりに幼稚ではないか。
 愛とは感情だ。感情が長続きするのには、様々な要因が必要不可欠である。相手からの言葉、周囲の環境、自分自身の心。ざっと考えるだけで沢山ある。
 これらは何があれば解決するのか。率直に言うなら金だ。
 愛と金は悪い意味でよく天秤に載せられることが多い。愛は美しいもので、金は醜いもの。金なんかより愛が大切。散々聞く言葉ではあるが、本当にそうなんだろうか。
 どちらが大切か、というのは個人の判断によるだろう。いくら貧しく辛い道のりであろうと、相手と居るならば幸せだと考える人はいる。別に否定もしない。だが、金がないと言うことは、取れる選択肢が少ないと言うことだ。
 「たかが金」で、解決できることはこの世にごまんとある。金で愛は買えるものでは確かにないが、金があれば得られるものがありすぎる。
 では仮に金が無くなってしまったらどうなるか。金が無いから生活していく全てが不足して、不足したから今まで持っていられた物を落とす。そして落として全てを
失ったから誰とも関われなくなる。人と関わらないから自分を忘れられて、周辺の人間から無関心の外へ出されて、エンドだ。
 そうなると、幾ら愛を手に入れられたとしても意味が無い。その人と生きたいが為に一緒になった筈なのに、気がつけば捨てられる。もしくは二人仲良く心中か。
大半は前者だろう。
 ここまで考えてしまうと、愛さえあれば……というのは破綻しているように思えてしまう。勿論これに該当しない人達もいるだろう。誠実に努力だけで生きて幸せになる人も居る。けれどこの世の中、耳に入る情報を見ていると、どうしても「たかが金」で解決できることで愛が消費されていくのが顕著だと思う。
 だから愛を美化しすぎるているし、簡単に使い捨て、幻想を抱いている様にしか見えないのだ.
 



2024/5/16
「愛があれば何でもできる?」

5/15/2024, 4:14:20 PM

 正直な話、自分は生きる意味のない人間だと思うことが度々ある。
 世間一般ではその考えはあまりよろしくは無いが、知ったことではない。私の考えは私だけのものであるし、誰に矯正される謂れもない。
 ただまぁ、そんなことを考えている私だから、思考の行き着く先は「死ねないかな」だ。月明かりすら差し込まない自室の暗がりで、寝る前にいつも考える。

 死ぬ瞬間の意識の切れ方は、睡魔に負けるこの瞬間と同じなんだろうか。

 勿論死んだことのない私には想像しかできないことだ。でもよく創作では言うじゃないか。「眠る様に」とか、「ぷつっと途切れた」とか。まさしく今この状態じゃなかろうか。
 限界まで眠気を我慢してベッドに寝転がる。
 もし同じようなものなら、私は毎日、死ぬためのリハーサルをしていると言うことになる。臆病な私の、いつかの日の為の予行練習。お手軽さに笑いしか出ない。
 これで寝たらもう、起きない。目が覚めない。うん。怖いな。けれどこれ以上楽なものはもう……。

 アラームが鳴る。時刻は朝六時。いつもの通りの起床だ。何回目か分からない日常だ。
 天井から垂れ下がる輪を眺めながら息を吐く。「あーあ」なんて呟いてみるが、この独り言が何に対してなのか……自分でも理解できていない。



2024/5/15
「後悔」

5/13/2024, 11:30:40 AM

 居なくなってから大切だって気づくんだよ。
 なんてまぁありきたりな話だなと思っていた。別に間違いだという訳じゃない。寧ろ逆だ。恐ろしいほどに正しい。いつか将来、同じことを考えて泣くんだろうとは認識していた。
 ただそんな思考も日常に流されて、数年が経ち。

 いつも通りの朝。と言ってもまだ五時の明け方に、自室の扉がノックされた。ベッドから這い上がってドアを開ければ父親で、隣県の施設に入っていた祖父の心臓が止まったという話だった。声が出なかった。
 父と母は施設に向かうという。私も着いて行きたかったが、祖母を一人で家に居させるわけにも行かず、仕方なく見送った。
 祖母の朝ごはんを用意して洗濯物を干し……と家事をしている間に再度連絡が来た。亡くなった、と。

 正直、死に目に会えなかった私には実感が湧かない。なにせ数日前に面会に行って話したばかりなのだ。痴呆が進んでまともな会話は出来なかったが、しきりに私の名前を呼びながら手を握っていた。背中や手をさすった感触がまだ残っている。声も顔も覚えているのに。
 それでも、もう居ないらしい。
 数日後、祖父に会いに行った。湯灌(ゆかん)と言って、棺に入れる前にメイクをしてもらったり白装束に着替えてもらう為だ。職員も優しい人で、頭を洗わせてもらったり、着替えを手伝ったりもした。
 あぁ。死んだんだな。なんて考えて。
 だってあれだけ頭が揺れているのに、身体を濡らしているのに起きないのだ。ずっと目を閉じて、ただ眠っているような安らかな顔で横たわっている。あんなに笑っていたのに。あんなに喋っていたのに。起きない。


 葬式も終えて、納骨、祭壇、諸々済ませて手を合わせた。年に数回会うのが当たり前だった。面会になっても、まだもう少し元気でいるだろうと思っていた。それがいつまで続くと思っていたのだろうか。永遠なんてないのに。歳も歳だ、長くはないだろうということくらい分かっていたのに。何も言えない、言う機会も完全に失われてしまった。
 声を聞くことも笑い合うことももう出来ない。だって。死んでしまったのだから。居ないのだから。遺影がこちらを見つめるだけだ。喋りかけたって相槌の一つ返ってくることはない。
 せめて、今いる大切な人達には言葉を尽くそうとメッセージアプリを開く。時間は過ぎていくし、返っては来ない。顔を合わせなくとも、声が聞けるのは今だけなのかもしれないのだから。


2024/5/12
「失われた時間」

先月祖父が亡くなりました。
お読み下さった皆様、御家族や友人でも誰でも、声が聞ける時に聞いた方が良いかと思います。
相手がいつ死んでしまうのか、いつ会えなくなってしまうのかは、誰にも分かりませんので。

5/12/2024, 11:54:21 AM

 生きるということは、絶えず成長していくと言うことだと思う。
 知識を蓄え、己を知り、知ればまた無知が見える。無知を克服する為にまた知る。その繰り返しだ。そうして日々を生きていくと、当時は新鮮に見えたことが、今は意識すら向けなくなっていくもので。

 真夜中の午前二時。眠れないまま外へ出た私の靴には、既に少量の雨が染み込んでいた。
 雨なんて、靴下は濡れるし寒いし。傘持たないといけないから片手は塞がるし。要するに面倒なことだらけだ。家に帰った後に乾かさないと思うと少し憂鬱な気持ちになる。
 それでも傘を開いたのは、部屋から聞こえる雨音が少し神秘的に聞こえたからだ。普段ならうるさいと布団を被るであろう騒音なのに、ほんの一部の音がぽつぽつとゆっくりに聞こえて。もう一度聞きたいと思った。
 少し歩いて、目当ての公園にたどり着く。ここは屋根の下にベンチもあって休むのにぴったりな場所。ふぅ、と一息ついて、屋根を打つ雨音に耳を傾ける。
 木が雨を遮っている様で、落ちてくる粒は少量だ。部屋で聞いた音が再度聞こえてきた。

 ぽつ。
 ぽつぽつぽつ。
 ぱしゃぱしゃぱしゃ。

 そういえば小学生の頃って雨の日に真っ直ぐ家に帰ったっけ。この公園で今はもう撤去されてしまった、ツリーハウスの様な所に上がって雨を楽しんでいた記憶がある。
 あぁそうだ、雨を楽しんでいたじゃないか。この音だけじゃない。人が歩く時の音も、車や自転車の音も、この土の匂いも。全部を面倒だなんて言わず、「どうして雨が降るんだろう」なんて考えながら。
 雨が降るのなんて理由はもう分かりきっているし、そんなことより最優先なことは山程ある。一々消費された新鮮さに心を動かすほど子供の期間は長くない。
 生きていれば、自然と大人にはなっていく。自分の中身の成長すら感じられないままに走り続けて、こういう些細な記憶は取りこぼして行くんだろう。
 けれど今日のことは覚えていたい。ほんの少し子供に戻って、あの頃感じたものをなぞっていきたい。
 大人として過ごしていく中で得る物の根幹は、きっと幼き自分の感性も大事になってくるのだろうから。


2024/5/12
「子供のままで」

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