そんなことに価値はない。
二つであろうが三つであろうが
数じゃない。
自分がそれを
いかに愛せるかどうかだ
〈世界に一つだけ〉
あなたとの接触は、
僕には刺激が強すぎる。
メールが来るだけで動悸、
話をするだけで息切れ、
手が触れるだけで引きつけだ。
会っていない時は会いたくて、
会っている時は別れたくなくて。
どちらにしても寿命が縮む。
どうせなら、
いっそのこと心臓麻痺を起こさせるほど大胆に、
殺してくれたら楽なのに。
〈胸の鼓動〉
踊りは大の得意だ。
オレは言葉でダンスする。
日本語を、
太鼓の達人みたいに乱打して
息をもつかせぬスピードで
めくるめく文字を踊らせる。
〈踊るように〉
いやなお題だな
仕方がないから書こうか
グランドセイコーをもっているが、
なんんだかウンザリすることばかりだ。
グランドセイコー関係の仕事をしている女性と
5年間付き合っていたが
振られた上に結婚しやがった。
きのうは20年上のオッサンから
グランドセイコーの扱いとはかくあるべきだの何だの
30分も説教された。
あ!おもいついた
ブレスレットを変えたからかなあ?
めんどくさ しらんがな
もういいよ
お別れの時を告げるか。
〈時を告げる〉
貝殻はわたしの耳。元は一つの物なのに、左右に分かたれて可哀想。。。といった要旨の詩が教科書に載っていたことを思い出す。
ググれば出てくるがそれはおいておいて、詩というのは易しい言葉でも高尚なものであったりするし、奇をてらわず素直に表現することもあるので、それがいったい小学校の頃の教科書だったのか、中学生の頃の教科書だったのか、はたまた高校生の頃の教科書だったのか、記憶が曖昧な上に推察も難しい。
わたしが受けたその時の詩の印象は、なんだかいやに女々しいものに感じた。
たかが耳を、誰にでも付いている耳を、さも真珠を抱いたアコヤ貝か、はたまた岩牡蠣か、桜貝か。。。とにかく食卓で馴染みある浅利や蜆ではないイメージで、この人は自分の耳を貝殻に寄せた。
貝殻に耳を実際に寄せる仕草はよくあることで、波の音が聞こえてくるといった美しい現象が起こる。
と、こんなにも分量多く書いたのであるが、きっと彼女の詩の方がよっぽど短く読みやすく想像の幅を持たせた言葉の羅列であることは大いに認めたいと思う。
国語の教科書というのは本当にすばらしいものである。
大人になっても趣味や教養として小中学校レベルの教科書と授業を受けたいものだ。