「ママ!れん君ち、すごいんだよ!」
「何がすごいの?」
「おやつにね、たくさん果物がのったケーキが出てきたんだけど、れん君のママが自分で作ったんだって!」
「それはすごいね。よかったね」
「それだけじゃないよ!カップの下にお皿をわざわざ置くんだよ!お店以外で見たことないからびっくりした!」
「ふふ、そうね。我が家じゃ出てこないもんね」
「それにね、紅茶を入れたポットを毛糸の帽子でくるんでた!」
「あら、それならきっと我が家でも出来るわよ」
「ママ、でもうちには紅茶が無いよ!」
題;紅茶の香り
その日、小学生だった僕は居残りでドリルをさせられていた。
平成初期は未だ、昭和の風土が残っており現在のようにコンプラなどの意識は皆無だった。
ちょうど今くらいの、11月にもならない10月の終わり、夕日が差し込む教室で、僕は一人「早く帰りたい」と焦っていた。
ドリルを終わらせ、誰も居ない廊下を走り職員室へ向かう。長い廊下は暗く何処までも続くかのように見えた。
先生に確認してもらい、急いで家路を急ぐ。
夕日が沈みかけて、自分自身の影が長く伸びており、その自分の影を追うように運動場を走る。
校庭の出入り口を目指していると、その時、ふっと自分の影の横にもう一つ影が現れ二つ並んだ。
えっ、と思い立ち止まり振り返る。
誰もいない。
ただただ寂しい校舎が、ぼーっと立っていた。
僕は恐ろしくなり、全身の毛を逆立てながら、文字通り一目散に走った。
息を切らして自宅にたどり着く。
仕事帰りの母と玄関で、ちょうど居合わせた。
叱られると覚悟したが、母は「あれ?誰かと一緒じゃなかった?走ってる姿が二人居たように見えたんだけど」と呟いた。
僕はまたもや全身の毛を総毛立たせ、泣きべそをかきながら母にすがりついた。
その後、おばあちゃんが教えてくれたことがある。
夕刻の黄昏れ(たそがれ)時の語源は「たそかれ」と言い、薄暗くて人の見分けがつきにくい時刻のことで、「誰(た)そ彼(かれ) 、あれは誰? の意味だということを。
題;放課後
30代の大台を超えた頃、唐突に、元彼に振られてから一年が経とうとしていた。
友人達の結婚ラッシュが続いていた時だった事もあり、起伏の激しい感情のうねりをなんとか抑えつけて過ごし、そして疲れ果ててしまい、全てどうでもよくなってきた頃だった。
夜中に眠れず、そこまで名の知れていないゲーム配信者の動画をASMR代わりに眺めていた。
それまで淡々と配信していた彼は、急にうつ病を告白する。
ゲーム配信だけでなく、クリエイターとしてテクノやダンスミュージックなどの曲も作って発表していた彼からは想像も出来なかった。
配信や投稿が時折数週間も空いてしまうのは、そういった理由があっての事だった。
それまで、さほど興味を持たずにただ眺めていただけだったのに、自分自身の深く濃い喪失感とまだらでグラデーションがかった自己否定が共鳴する。
頬に入る縦の皺と笑顔が急に切なく見え、彼の作る音が、どんな人も弱い人であり皆一緒なんだと教えてくれた。
朝、いつものように出勤する。
彼の苦悩を知り、彼の前向きな音を聴いていると、いつもの景色の色彩がワントーン上がって見えた。
初めて「推し」の意味を理解する。
見返りは求めず応援したい。こういう感情のことなんだろう。
正直に。
希死念慮は無いけれど、もう生きることに疲れたとは思っていた。
いつの間にか流れる涙の意味も分からず、これ以上頑張れないとも感じていた。
配信者の彼は、写し鏡で教えてくれる。
「元気になろうとしなくていい。そのままの君でいい。ゆっくり歩こう」と。
題:力を込めて
穴の底から見上げる月はとても明るく、綺麗だった。
ある日、可愛いらしい女の子が覗き込み、僕に向かって「何でそこにいるの?」と声を掛けてきた。
僕は考えてみたけど分からなかったので「分からない。生まれた時からここに居るから」と答えた。
「おいでよ」
そう言われて初めて、穴の外を意識した。
月を掴むように、女の子のそばかすを数えるように、上を見上げながら、ゆっくりと穴の壁面に足と手をかけ登る。
目だけ覗かせて見た穴の外の世界は、月明かりに照らされながら、緑と花々が風に揺れとても良い匂いがした。
柔らかな風に包まれながら緑の中に立つ。胸がどきどきする。生まれて初めて感じた感覚に身体がついていかない。何をどうしたら良いのだろう。
その時、女の子の後ろから巨大な黒い影が、何かを僕に向かって撃った。
大きな破裂音と共に、僕の左足をかすめ血が吹き出す。
僕は恐怖で穴の底に飛び降りた。
見上げる。ギラギラと光る目が二つ覗き込んだ。
穴の外はなんて恐ろしい世界だろうか。
僕はここが良い。この穴の底から見上げる月ほど美しいものは無い。
始めから穴の底にいる者は「其処に」安堵を覚える。
題:静寂に包まれた部屋
定年して間もなく夫は重度の肝硬変が悪化し、肺に水が溜まるようになっていた。
夫はお酒を呑まない。「気の毒だが遺伝的なものだろう」と主治医は言っていた。
11月金沢に旅行に行く計画を立てていた矢先に、肝性脳症により意識が混濁、全身浮腫が強くなり入院となった。
身体を拭いてあげている時に、夫の睾丸が子どもの頭くらいに腫れており驚く。痛みは感じていないのか「悪いな」とだけ黄色みを帯びた顔で言った。
「金沢の美味しいお寿司食べたかったね。秋の兼六園も…」
「…ああ」
夫の眼は虚ろのまま宙を彷徨う。
抜き切ることの出来ない水が肺に溜まり末期の症状を迎える。酸素吸入は毎分6リットルを超えた。
主治医にはこれ以上の治療は必要無いことは事前に伝えてあり、とにかく楽にしてあげてほしいと伝えていた。
夫は無意識に酸素マスクを外そうとしてしまう為、手にはマグネットの拘束具を装着された。
麻薬性鎮痛薬を点滴によりゆっくりと流し入れる。
一瞬はっきりとした眼差しで「これは外せないのか」腕を見て言った。
私は出来るだけ冷静に「疲れたでしょ。ゆっくり眠って。眠ったら外してあげる」
「…そうか…」
夫は悟ったように、その後穏やかに眠り始めた。
私は、二度と握り返される事の無い手を握り続けた。
題:秋恋