おぼつかない足を無理やり動かし、前に進む。
もう追っ手が近い。時期に捕まるだろう。
そして用意された証拠をもとに断罪される。
身に覚えのない罪の数々を背負って。
もう時間がない。できることはしたが、生き延びるのは不可能だ。
ふと、彼の顔が浮かんだ。なんて未練がましいのか。こんな汚辱にまみれた自分に想われるなんて、申し訳ない。思わず自嘲したところでとうとう捕獲された。
時間は稼いだ。後は後の人に任せよう。
次の人生でも、どんなに苦労する人生でも、彼に会えますように。
私は奥歯に仕込んだ毒を噛み砕いた。
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断罪されるはずの令嬢が逃亡中に死んだという情報は、王都を駆け巡った。悪女が死んだ。本当に死んだのか?隣国に逃げたか?さまざまな情報が飛び交う。
彼女は悪女と言われていた。幼い頃は虫が苦手で泣きべそをかく、おとなしい女の子だった。
自分より幼いと思った子供が、国のために手を尽くし死んだ。自分は、そんな彼女を助けることはできなかった。
国を見捨てて彼女を救えば、この国は他国に侵略されて終わるだろう。他国にしてみれば侵略できる口上ができれば上々、でなくても内輪揉めで内政が不安定になれば手を叩いて喜ぶだろう。
それをわかって、彼女の家は彼女を捨て、彼女自身も与えられた使命を全うした。なにも知らない王太子を除いて、すべての大人が彼女に押しつけた。
国のために、国民のために、みんなのために。
なんと反吐の出る。なんと醜い。そんな魑魅魍魎たちは今日も見栄や宝石を守って周囲を威嚇する。
自分もいずれ、その仲間入りをする。いや、彼女を見捨てた時点ですでに仲間だった。そんな自分に想われるなど、彼女はさぞ迷惑に思っただろう。
「願わくば、次の彼女の人生は、俺に関わることなく、もっと穏やかに送れますように。」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に届くでもなく消えていった。
【届いて……】
「ふぉおおおおお!!!」
圧倒的な風景は彼女を感嘆させるには充分だった。
雲海が見たいです。そう言った彼女を連れて旅行に行こうと決めたのはつい先日で。
フェリーで船旅で海を楽しみ、愛車のバイクを船から降ろし彼女を後ろに乗せて走るのはいつもより緊張した。免許を持たない彼女はとても楽しそうな声をあげていたが、こちらとしては背中に押しつけられた柔らかさに耳まで熱くなった。フルフェイスにしていて本当に良かったと思う。
早朝、眠い目を擦る彼女と二度寝したい欲を抑え、下調べした場所へと一緒に行く。
初めて見る雲海は、壮大で、大きくて。
「すごいすごい!来れてよかった!」
ぎゅうとしがみついてくる彼女が可愛くて、愛しくて。
思わず抱き返すと、彼女はさらに強く抱きしめてくれて。
きっと俺は、この景色を忘れない。
【あの日の景色】
「テストやばいテストやばいテストやばい助けてお願いなんとかしてお願い赤点むり助けてください。」
「……この間まであんなに余裕ぶってたのはなんだったんだ。」
下校時に半泣きになって「付き合って!」と叫ぶ彼女に不覚にもときめいたのに、着いたところは近所の神社だった。
「ここにはね、学業の神様がいるんだって!!なんとかしてくれるかもしれない!!」
泣きそうな顔で賽銭を投げ、お守りを買い、引いたおみくじは小吉だった。学問の欄は〈腹を括り精進せよ〉の一言が綴られていた。
「長々と祈ってないで、さっさと家帰って勉強しろって意味だと思うぞ。」
「おだまり!!!」
ブツブツと呟きながら赤点は嫌だとまだ祈っている。往生際が悪いにも程がある。
ため息をつきながら自分の分のおみくじを開く。中吉、学問〈普段通りでよい〉。意外と神様は見ているのかもしれない。そう思いながら隣の恋愛の欄を見る。
恋愛〈動けば吉、動かねば凶〉。
「凶は中吉のおみくじに書いていいワードじゃねぇだろ……。」
ガシガシと頭をかく。こちらも腹を括るときのようだ。
「勉強、教えてやるよ。山張ってやる。」
その声に彼女はパァッと明るくなる。すがってくる姿はまるで警戒心皆無のポメラニアンのようで、愛らしい姿に耳が熱くなるのを感じた。
「山が外れても怒るなよ?」
「あんたが山をはずさなきゃいいの!」
すっかり機嫌が良くなった彼女は、神様ありがとう!とニコニコ顔ですっかり赤点回避したつもりでいる。
「動いたんだから、味方してくれよ。神様。」
俺の呟きに、風で揺れた本坪鈴がガランと返事をした。
【願い事】
「女心は秋の空!」
「いきなりなんだ。」
場所は公園。彼女は鉄棒で前周りをグルンとしたと思うと、着地をせずに叫んだ。
「その心は!」
「聞けよ。女心は秋空みたいに変わりやすいってことだろ。」
彼女はもう一度グルンとまわり、もう一度叫んだ。
「レイブンクローに10点!!」
「昨日の金ローそんなに楽しかったのか?」
グルンと回り、笑顔で答える。
「賢者の石は名作!!」
「うんうん、よかったな。」
やっと会話が成り立った。独特な世界観を持つこいつと会話するには、なかなか苦労する。こんなやつでも友達は存在するらしく、さぞ不思議ちゃん同士なんだろうと思ったら会話を普通に行なっていた。なぜ。
「来週はミートボールスパゲッティ!」
「序盤すぎるだろ。せめて『あなたの心です』くらい言え。」
グルンとまわり、飽きたらしく離れて手をふーふーと吐きかける。こいつは小さい頃からこんな調子だから、友達の前での姿は素じゃないはずだ。でもなんでこんなに進まないんだろう。
恋というハートをいくら入れても、瓶の中は空っぽのままな気がする。
「私はクラリスじゃなくて不二子ちゃんになりたい。」
グラマラスとは言い難い体なのに?と思うが黙っておく。余計なことは言わないに限る。
「その心は?」
「奪われるんじゃなくて、奪いたいから。」
彼がずっと追いかけているのはお姫様じゃないでしょ?
そう言って笑う彼女に、俺はあのアニメの警部の台詞を思い出した。
【空恋】
私の国では、波の音は旋律であり、拍子であり、音楽そのものだった。
海に歌を捧げ、また海からも歌を授かり、共に奏でることで豊穣と無病息災を祈る。
しかし、隣の国に嫁いでから海が遠くなり、すっかりその習慣も行えなくなっていた。
「海に行きたい…」
ぽつりと呟いただけのつもりだった。
しかしそれを聞いた夫はあれよあれよと準備をし、気づけば国内で唯一海と接している領地に来ていた。
母国とは違う顔を持つ海。それでも思い出を誘う波音と潮の香りに思わず母国の歌を口ずさんだ。
それを見ていた夫が顔を顰めたのは、夫婦仲のせいだろう。政略結婚だからかほとんど口を聞かず顔は顰められてばかり。なぜ連れてきたかといえば、領地運営するにあたり、海のことを熟知していると判断されたからだろう。
「そんなに嫌なのか。」
「はい?」
部屋に入った途端に言われた唐突な言葉に何も考えられず出た返答だった。
「俺は……そんなに疎まれているのか?」
「……はい??」
こちらが何かを言う前に、夫は自身の手で私の身体をベッドへ縛りつけてきた。
「俺は……!お前の夫だ!!」
「……はい。はい?」
夫が何を言いたいのか全く分からぬまま、私の体は彼に貪られていった。
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「……祝福?」
鳩が豆鉄砲を食ったよう、とはこんな顔なんだろうなと思った。
「波の音に合わせて歌うのが私の国の神への祈り方なんです。」
「呪いではないのか?海に対し恨みを込めた歌を捧げて人柱を……」
「数百年前なら凶作対策でしたかもしれませんが、今はもっぱら海藻や稾で作った人形です…。願掛け程度の迷信扱いですが。」
夫はガシガシと頭をかく。痛くないんだろうか。
「なぜそんな不気味なものを作るんだ!呪いの人形なんだろう!」
「海藻で作れば海の動物たちが食べてくれるから回収の必要もなく楽なんですよ。」
合理的でしょう、という私の言葉に、夫は大きく息を吸い、同じくらい深くため息をついた。どうやら母国の習慣がだいぶ捻じ曲がって伝わっていたらしい。
しかめっ面の夫を膝枕に乗せ、頭を撫でながら波音にあわせて歌を紡ぐ。歌詞が泣いている子供のための歌なのは内緒だ。
夫は眉間の皺がひどかったが、じきに薄くなり、最終的に寝息が聞こえてきた。
起こさないようそっと彼の胸に潜り込み、寝息と海の声を聞きながら私も静かに目を閉じた。
【波音に耳を澄ませて】