「紅茶の香りって、苦手」
カフェで、向かいに座った部下、殿山くんに私はつい漏らした。
外回りの途中、少し休憩しようかと誘った。彼が注文したのは、アールグレイ。私はコーヒーだ。
「そうですか、すみません」
でもなんで、という目をしているから、「……昔ね、お付き合いしてる人にお別れを切り出された時、飲んでたのが紅茶だったの。それ以来ダメなんだ」
正直に言った。殿山くんは、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさい、俺、コーヒー飲めなくて」
「いいの、謝ることない。こっちこそごめんね、余計なこと言って。美味しく飲んでたのに」
「香りって、記憶と直結してるって言いますもんね」
「……」
殿山くんは、テーブルに備え付けのシュガーポットから角砂糖をころころ掬い上げて、自分のカップにそのまま落とした。ぽちゃんぽちゃんと。いつつ六つ。
私が目を丸くしてると、甘党なんで、俺。と笑顔を見せる。
「俺、上書きするよう頑張ります。紅茶飲んでる時、佐久さんにめっちゃ楽しい話して面白いって思ってもらえるように。そうしたら、佐久さんも紅茶の香り、苦手じゃなくなるかもですよね」
私はつい笑ってしまった。無邪気な部下の気持ちが嬉しかった。
「ありがとう、殿山くん、優しいね」
「そんなことないです。俺としては、前の彼氏さん、女の人見る目ないって思いますけど」
「……ありがと」
その言葉だけで、もうちょっとだけ上書きだよという気分になるから私もチョロいな。
くるくるティースプーンで砂糖をかき混ぜる殿山くんの手元を私はじっと見つめた。
#紅茶の香り
「3年間通ったこの高校とも、お別れかあ」
「閉校記念式典、長かったねー」
「校長先生や来賓の祝辞が長いのは、お約束だろう」
「だねえ」
今日はそれぞれスーツのような改まった服装をしている。
地元の、卒業した高校が学校改編のため廃校となることに決まり、今日がそのセレモニーだった。
卒業後、揃って顔を合わせるのは成人式以来、5年ぶり。
5人の仲間。そのうち、男子の1人は大学卒業後に他界していた。社会人になってこれから、という時だった。重い病を得た。
だから今、高校3年の時の教室に集まったのは4人。女が2人、男も2人。
「かっちゃん、お父さんが来てたね。代わりに。体育館で見た」
亡くなった仲間は克也という。あまり口数は多くなく、授業中も眠ってばかりいたが、地元では有名な陸上選手だった。実業団からスカウトも来ていた。
「まだなぁ、なんかピンとこないんだよな、克也が死んだってことが。……成人式で元気だったろ、あの後なあ、まさか就職してすぐ入院するなんてなあ」
「かっちゃん、あたしたちに病気のこと知られたくなくて、親御さんとかにも口止めしてたからね……。最期も会えなかったし」
「マナミも会えなかったんだよね」
「あ、うん。最期はね。でもお見舞いには行けたよ、まだ元気な頃に。でも、不機嫌そうに大丈夫だから早く帰れって言われたよ」
「克也はなー、マナミのこと好きだったからな。弱ってくところ見られたくなかったんだよ」
マナミは困った風に微笑った。
「そんなことないよ。かっちゃんにそういうこと言われたこと、ないし」
「……」
他の3人は黙った。何を慰めても取りなしても、故人はもう帰らない。
マナミは「懐かしいなあ、かっちゃん、席替えしてもいつもこの席譲らなかったよね。窓際の最後列。よく突っ伏して寝てたっけ」と場の空気を変えるように言った。そして、その席に歩み寄り、天板を優しくなぞる。
椅子を引いて、腰を下ろした。克也がよくやっていてように、腕を枕にして右頬を突っ伏す。早春の陽光が眩かった。
そこでふと、マナミは気づいた。この姿勢、この机でなければ目に映らなかったものがある。いま、この高校ともお別れという段になり、神様が奇跡を見せてくれた。
「……マナミ、どうした?」
じっと机に伏せたままでいる彼女に、仲間が声をかける。マナミはやっとそこで顔を上げ、かすかに滲んだ涙を指先で押さえた。
「どうした?大丈夫?」
「うんーー大丈夫。なんだかなぁ、もっと早く伝えてよって感じ。今日の今日、式典の後にこれ、見せてくる?遅いよー、ほんとに……」
言ったきりまた嗚咽を漏らし、顔を手で押さえてしまう。
他の3人は顔を見合わせ、彼女の座る机を囲んだ。そして、促されるがまま、天板の端、左下の隅っこに細くカッターのような鋭利な刃物で彫られたとおばしき文字に目を近づける。
経年劣化した木板には、情熱的な愛の言葉が刻まれていた。
マナミ、世界一好きだ
ハタチ越えたら結婚しような K
仲間たちがマナミの背を、肩を、頭を優しく撫ぜた。彼女の頬を温かい涙が濡らす。
もう鳴らないはずの授業のチャイムが何処からか聞こえた気がした。
#愛言葉
「遠山さん、こんにちは」
「あ、西門さん。こんにちは、偶然ね。バイト?」
姉が、ドアにカギを掛けながら隣のアパートの部屋から出てきた男に気軽に声をかけた。
パーカーを羽織った、長身の男。少し猫背。さいもん?
「うんーーあの、」
そっちは、と男が俺を目でうかがう。俺は一応会釈した。
姉の隣人だから。
「マサムネ、あたしの弟なの。田舎から今日出てきたんだ」
「ああ……高校生?」
「はい。姉がお世話になってます」
さいもんと呼ばれた男は目を細めた。
「しっかりしてるね」
「そうでもないよ」
「姉よりはしっかりしてるはずです」
「ちょっと、マサムネ」
俺たちは軽口をききながら、どちらからともなく並んで歩き出す。
外階段を姉とさいもんと呼ばれた男は並んで降りた。カンカンカン、と足音が響く。
「ほら、この前大きな地震があったでしょう。停電したとき、隣のひとが助けてくれて助かったって。あの時の、西門さん」
俺は思い出した。ああ……あの時の。男はいやそんな、と謙遜して見せる。西門って珍しいですね。そう? 俺の出身地には結構ある苗字だけど。俺たちは初対面同士、当たり障りのないやりとりをした。
姉は気安く話し続ける。大分気ごころを許してるようだ。
「マサムネは受験生なの。こっちの大学を受けるから、うちに泊まることになったの」
「へえ……そうなんだ」
俺は違和感を覚えた。男ーー西門って人の声音が変わったような気がした。
「泊まるんだ。仲、いいんだね。お姉さんと」
肩越しに俺を見るでもなく、話してくる。
「まあ、普通です」
「じゃあ、あたしたち買い出し、こっちだから」
階段を降りたところで、姉が手を上げた。俺たちは二手に分かれた。
「あの人大学生?」
「みたいね。バイトばっかりで単位危ないって言ってる」
「ふうん」
「友達だよ、結構頼りにしてる。あの地震以来」
姉は言った。
俺は何気なく後ろを見た。ーーと、西門って人がおなじ所に立って、じっとまだこちらを見ているのが見えた。
……なんだろう。俺は姉の隣を歩きながら思う。
さっき、俺と姉が部屋から出た同じタイミングで、隣から出てきたな。
まるで、ドアが開いて現れるのを待っていたかのようだったーー
なんだか、心がざわついた。
#友達
「柔らかい光3」
「率直にお聞きします。柴田さんは、どういう気持ちで雫と付き合ってるんですか」
「……どういう?とは、」
水無月から、「すみません、柴田さん。ともだちと会ってほしいんです」と言われたのが、一週間前。
切り出しづらそうに、目を合わせずに彼女は言った。
「ともだち?」
「幼馴染っていうか、古い付き合い。もう親戚みたいな腐れ縁、みたいな」
説明が難しいのか、考え考え、彼女は言う。
娘の深雪を交えて、あちこちに出歩くようになった頃だった。会社ではもちろん、一線を引いている。上司と部下として。
でも、プライヴェートではゆるゆるだった。
そんな中、突然ぶっこまれた事案。「ともだちと会ってほしい」=(イコール)「親友による、悪い虫かどうかあたしが確かめてやろうじゃないかチェック」が来た!と俺は察した。
いいよと返事をして、待ち合わせたのはちょっとだけランクのいい居酒屋。仕切りじゃなく、ちゃんと個室を予約してきた。
そこでお目にかかったのが、大日向晴子さんだった。水無月が紹介するに、「晴れ女」の末裔だという。
たしかにそれっぽい名前。しかし、当の本人といえば、醸し出す雰囲気が何とも暗いというか、じめっとした質感の女の人。
前髪が、目にかかるほど長いのがそう見せるのかもしれない。表情がよく見えないから。あと、鼻の付近に散ったそばかす。
度の強い眼鏡をかけているのも、目が見えずに心もとなくさせた。
「初めまして、柴田です」
俺は営業スマイルを浮かべて、当たりさわりのない挨拶をした。
「……ども」
大日向さんは、ぼそっと言ったきり、タブレットでメニューを操作する。
自分が食べたいものをタップしていくつか注文をした。それきり、じっと手を膝に置いて俺を伺っている。
……気まずい。
場を取りなすように水無月が「柴田さん、これ美味しそうですよ。注文しません?」と声をかけてくれたが。何を選んでも味がしないような気がする。俺は無理に笑って「いいね、あ、飲み物も適当に頼む」と言った。
「わかりました」
タブレット画面を水無月が操作する。それきり沈黙。き、気まずい。
と、思っていたらおもむろに水無月がバッグを片手に立ち上がり、「すみません、お手洗いに行ってきます」と席を外した。
行かないで、と咄嗟に思った俺はヘタレだ。でも、大日向さんと二人きりにしないでほしい。本音だった。
これから、俺への取り調べが始まるんだ。
その予感は、的中した。
#行かないで
「通り雨6」
俺は埠頭で釣り糸を垂らしていた。
今日は仕事は休み。晴れた青い空がどこまでも続いている。
水平線との境目が怪しくなるほどのまばゆい青に包まれ、時間の感覚を忘れる。
のどかだった。
この町で、除染作業員として暮らしてはや5年。少し、こちらの土地の方言にも慣れた。
でもまぁ、そろそろ。
潮時だろう。
なんの潮時か、自分でもよくわらかなかったが、それでも俺は思った。そろそろこの町から動いた方がいいかも知れない。
もっと、北へーー
ぴくりとも動かない釣り糸を眺めて、そんなことをつらつら考えていた時、背後から声をかけられた。
「釣れますか」
俺は前を見据えたまま、答えた。
「全くだめですね」
「……お魚、釣れないとドラ猫を追いかけられないね」
風に攫われそうな声。微かに震えていた。
それでも俺は振り向かなかった。
怖いーー再会が怖かった。この5年あまりで俺は変わった。見かけも、中身も。もう教師じゃないし、前科もついた。
君が好きだった俺じゃない俺を、見せるのが怖いと思った。
ああ、でも懐かしい。ずっと聞きたかった君の声だ。
「まだ見てるのかい、サザエさん」
「うん、オープニングでね、みんなが笑ってる〜、お日様も笑ってる〜、のところになると毎回泣きたくなる、先生を思い出して、堪らなくなってたよ」
「……もう先生じゃない。失職した」
「教師じゃなくてもいいよ、あなたがあなたなら、それで」
埠頭に腰を下ろした俺の背に、ふわっと暖かいものが触れた。
彼女の額だと気づくのに時間がかかった。
「会いたかった。ずっと」
探していたのと囁いた。
その一言にどれだけの覚悟と、辛い思いを押し隠していたのか、どれだけの涙を重ねてきたのか、5年以上の歳月を思うと、胸が塞がれそうになった。
「まだーー」
君が好きだよ、ずっと君だけを想ってる。
言おうとして、言葉にならない。
でも、今俺がここに、この町にいることが、全部の答えであるような気がした。
彼女は頷いた。うん、と。
大人になったーー成人した、というのではなく、俺に言葉での気持ちの開示を迫らなくなった。ただ受け止められる、女の人になった。
俺は俺の腰のあたりのシャツを握る彼女の手に、自分の手を重ねた。ぐ、と、彼女の喉が鳴った。
俺の目にも青が滲んだ。
君が泣き止んだら、釣りを辞めて埠頭から離れよう。そして、二人でゆっくり話せる場所へ移るんだ。
それまではもう少し、青に浸っていたい。そう思った。
#どこまでも続く青い空
「空が泣く 完結」
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