「やわらかな光」
体育館倉庫の中で1人、弁当を食べる。
体育館の裏口の鍵が壊れていて、コツを掴めば開けられることに気づいたのは中学2年生の秋。それからはここで食事をとったり、隠れたりしている。
さっき殴られたところが痛い。服で隠れて見えないところばかりを殴られる。服を脱げば、僕の身体は痣まみれだ。
弁当に手をつけだしだ時、
ガチャ、ガチャガチャガチャ
と、裏口を誰かが開けようとする音がした。
驚いて、しばらく思考停止した後、慌てて隠れ場所を探した。だが、そんな努力は虚しく、扉が開いてしまった。
静かに息を殺して座っていた。僕は、さっきまで僕を殴っていた彼らが来たのだと思った。こちらに近づいてくる足音が聞こえ、僕の隣で止まった。
恐る恐るそちらに顔を向けると同時に、その人は僕の隣にストンと座った。
長い黒髪に、透き通るような肌、細い腕に、長いまつ毛。僕を虐めている人間でないことは明らかだった。
「君が体育館の裏口に入っていくの、さっき2階から見てたの。追いかけてきちゃった。」
へへっと彼女は照れくさそうに笑う。
僕は安心と戸惑いが交錯して停止していた。
「ねぇ、どうしてこんなところで食べてるの?」
彼女は追い討ちをかけるように質問攻めをする。
「ひとりが良くて。」
僕はありきたりな言い訳しか思いつかなかった。
「…ううん、本当は知ってるの。」
「え」
彼女が思いがけないことを言い出したので、驚いて声が漏れた。
「ずっと前から知っていたの。助けられなくて、ごめんなさい。」
僕は何も答えられなかった。知っていたなら助けてほしかったという気持ちが、まず押し寄せて来てしまったからだ。しかし、よく考えたら分かる。こんなに華奢な彼女に、何ができただろうか。傍観者なんて山ほど居る。恨む気持ちなど生まれなかった。
「いいよ。」
僕は言い放ってその場を離れようとする。
彼女は、そんな僕の手を握った。
「待って。そんな悲しそうな顔をしないで。」
悲しそうな顔などしていない。
「自分を大切にして。」
彼女は立ち上がって両手で僕の両頬を覆った。
僕は目のやり場に困って俯こうとしたが、彼女の手によって無理矢理上を向かせられる。
「私はもう、あなたを傍観したりしない。これからは、私があなたを助けるから。」
彼女は僕の目を真っ直ぐ見据えていた。
その言葉は僕の心に真っ直ぐ届いて、涙が溢れた。
その日から、彼女は僕にとっての光となった。
「鋭い眼差し」
彼はいつも、クラスの中心にいる。
明るくて、運動神経が良くて、顔も良い。クラスのムードメーカー的存在だ。
しかし、私には見える。
いつも彼の背後で、彼に鋭い眼差しを向けるその目が。
私はある日、放課後の教室で偶然彼と2人きりになった。たわいもない会話をして、彼が帰ろうとした時、「あの」と、彼を引き止めてしまった。
それは、彼が大丈夫なのか純粋に心配だったからだ。
「信じてもらえないかもしれないけど」と続けて、彼の背後に女の子の霊が着いていることを話す。
それを聞いた彼は、全く驚かなかった。
まるで知っているかのように、「あぁ」とだけ答えて行ってしまった。
私は、嘘だと思われたのか、バカバカしいと思われたのか、意味がわからなかった。なんだか逆に恥ずかしくなって、自分がいたたまれなくなった。
時々いる。俺の後ろに着いているこの女が見える人間が。今日もこの女は、俺の事を鋭い眼差しで刺してくる。
あれは小学3年生の時だった。俺はいじめをした。
きっかけは些細なこと。でも教室で彼女の存在は異物となり、いつしかみんなが避けるようになった。
俺は彼女を虐めても良い存在というふうに認識した。
クラスでの虐めは次第にエスカレートした。
最期はクラスメイトに煽られて自殺した。彼女に窓から飛び下りることを強要した。でも、誰も本当にやるとは思っていなかった。彼女は泣きながら窓枠に足をかけて、するりと窓を抜け、グラウンドに落ちた。
酷い音がした。俺は窓から身を乗り出して、下を見た。そこには、ぐちゃぐちゃになった彼女がいた。気持ち悪いものが喉奥から込み上げ、トイレへ駆け込む。嗚咽を漏らし、吐いた。
口を拭って、顔を上げると鏡が目に入る。俺の後ろに彼女が立っていた。
今日も彼女は俺を睨みつけてくる。
俺は一生この業を背負っていくのだ。
「高く高く」
放課後、職員室に鍵を返しにきた。鍵をフックにかけて、踵を返そうとした。瞬間、視界の端に『屋上』という文字が見えた。
魔が差した。
階段を3階分上がって、上がったことの無いあと1階分の階段を上る。1つのドアがある。『屋上』と書かれた札のついた鍵を、鍵穴に挿す。左に回すと、ガチャ。開いた。初めて来る屋上に恐る恐る足を進めて、何となく誰もいないことを確認した。ふぅ。と息を吐く。
フェンスに近づいて中庭を見下ろす。4階建ての屋上から見る中庭は意外と小さくて、こんなものだったかと思う。おもむろに靴を脱いで、鍵も床に置く。フェンスを越えるのが案外難しくて手こずってしまった。フェンスの外側、コンクリートの上に立つ。フェンスに腕をかけて、もう一度中庭を見下ろす。
誰もいない。恐怖はない。
手を離しかけたその時、頭上から何かが降ってきた。紙飛行機だった。それは何処からかふわふわと飛んできて、私の頭を掠めて、フェンスの内側に落ちた。私はその場にしゃがんで、フェンスの隙間から手を伸ばす。
あと少しのところで、屋上のドアが派手な音を立てて勢いよく開いた。驚いてそちらを見ると、そこにはこの学校の男子生徒が立っていた。
彼は走ってきたようで、はぁはぁと息を切らしながら屋上を見渡していた。その視線が私で止まると、ズカズカとこちらに歩いてきて、私の代わりに紙飛行機を拾い上げた。乱暴に開いて私の顔の前に差し出す。
『しぬな!』
そう書いてあった。よく見ると数学のテストの裏で、急いで書いたのか字が乱れていた。
私が、「なに」というと、彼は途端に顔色を変えて慌てている様子だった。これで止められると思っていたのだろう。私にかける言葉がないようで、わたわたと状況説明から始めた。
「と、隣の棟の3階!…の俺の教室から、俺帰るとこで、外見たら屋上に人いて、今にも飛びそうだから慌てて!」
彼はまとまらない日本語を連ね始めた。
「俺すぐ行こうとしたんだけど、ダッシュしても間に合わねぇって思って、紙飛行機なら最短距離で届くかなぁって」
あははと彼は笑う。いや、笑いかけられても困る。
「…どうして止めるの」
私は彼に問いかける。
「どうしてって…」
そこで彼は黙った。少しの間が空いて、
「…なぁ、どうしたら死なないでくれる?」
彼は突然真剣な表情になった。その表情に、少しびくりとする。
「…わかった!」
彼は急に大声を出して、フェンスの上から私に手を伸ばした。脇にズボっと手を入れられ、苛立ちと恥ずかしさで叫びそうになった。しかし彼は私を持ち上げ、いとも簡単にフェンスの内側に入れたので、私はその力の強さに驚いて声が出なかった。
「なぁ、俺と紙飛行機!勝負しようぜ!」
「はぁ?」何を言っているんだこのバカは。
どこからか紙をもう1枚取り出した彼は、おり慣れているようでさっさと紙飛行機を作り上げた。それを私に渡す。
私がおもむろに受け取ると、
「じゃあ行くぞー!せーのっ」強制的に始まって、私は体制不十分のまま飛ばした。それは、やはりすぐに落ちていく。
それに比べて、彼の飛ばした紙飛行機は、高く高く、太陽に向かって飛んでいった。
彼はそれを見ながら、私の肩を掴んで言った。
「やぁーい、負けた負けた!負けたから何でも言う事きけよー!」
私はまんまと煽られて、腹を立てる。
「何よ。聞く義理なんてないわ。だいたい、私はあなたを知らない。」
「俺は知ってる。」食い気味で答えるから驚いて見ると、真剣な面持ちで、彼は私を真っ直ぐ見ていた。
「好きです。付き合ってください。」
耳を赤くして彼は言った。
私は急すぎて何が何だか分からなかったけど、だんだんと顔が熱くなっていったのが分かった。
ここから始まり、彼は何度も私の自殺を妨害した。
それと同時に、私の隣で、私の人生を価値あるものに変えていった。
「子供のように」
午前1時
ようやく仕事を終えて帰路に着く。
辺りは夜の闇に閉ざされて、街灯の明かりのみを頼りに進む。
学生時代、あれほど夢見ていたデザイナー。
華やかな世界に憧れて努力した。まあまあな大手に受かって、晴れて広告業界に就職。俺には輝かしい未来が待っている!と信じて、押し付けられる雑用も、身に余る業務にも全力で取り組み、忙殺される日々を今日まで耐えてきた。でもそんな努力が報われる日は、ついに来なかった。
ポツポツと雨が降ってきた。雨足は次第に強くなる。俺は鞄を漁り、折り畳み傘を出そうとした手を止める。雨が、頬ばかりを濡らす。これは雨なのだ。自分に言い聞かせる。だって、そうでなければ、24にもなって大の男が仕事に耐えきれず涙を流すなど、
「みっともねぇなぁ…」掠れた声が口からこぼれる。
同時に心臓がぎゅうっとなって、目元が熱くなる。
辺りを見渡す。ここには、暗闇しかない。今まで押し殺していた感情が、溢れ出るのがわかった。
もうとっくに限界だった。
俺は無意識のうちに笑っていた。その汚い笑い声が、辺りに響き渡る。キーンという耳鳴りがして、自分の声に靄がかかった。
俺はただ、おもしろくっておもしろくって、永遠と思えるほど長い間、笑っていた。狂ったように、壊れたように。何かがすごくバカバカしくて、滑稽で、つらくて、苦しくて、でも逃げ場なんてどこにもなくて。
もう顔を濡らすものが、涙なのか雨なのか、はたまた涎なのか鼻水なのか、もうなんなのかも分からない。両手を広げて、雨を全身に浴びて、意味も無くぐるぐると回った。はしたなく、穢らわしく。もう全てがどうでもよかった。ただ、楽になりたかった。
子供の頃、大人になったら空を飛べると思っていた。当然、そんなことは叶わ無かった。
でも不思議と、今なら叶う気がした。
俺の身体はふわりと飛んで、暗闇の中、重力に従って堕ちていく。硬いものに強くぶつかった瞬間、身体の全ての重みが消えた。
ふわふわと空中を好き勝手に飛び回る。
無邪気に、子供のように。
やっと、自由になれた。
「放課後」
夕日に照らされながら、あなたを待つ
「まだ居たのか」
火曜日の放課後、先生は決まってこの時間に見回りに来る
「あ、せんせ」
私は先生が好き
「もう閉めるから、早く帰れよー」
待って、まだ行かないで
「…せんせ、猫っていらない?」
「猫?なんだ、拾ったのか?」
「んー」
「今は飼えないからなぁー、でも昔飼ってたぞ」
「そっかぁ」
「里親を探してるのか?」
「…うん、もっと良いお家がいいみたい」
「?なんだ、飼い猫に嫌われてるのか?」
「ううん、違うよ」
私は先生に笑いかける
先生がよく分からないという表情をする
ガタッと音を立てて椅子から立ち上がって
先生の目の前に立つ
「ねぇせんせ、気づいてるんでしょ?」
「…なにを?」
「はぐらかさないでよ」
先生は私の目を真っ直ぐに見ている
感情が読めない。少しだけ恐怖心を抱いた
「帰りたくない」
私は先生のシャツの裾を掴んだ
その手が小刻みに震える
「私を拾って?」
火曜日の放課後
俺は戸締り確認の当番に割り振られている。
学校の端から順に回っていって、いつも通り意図的にこの教室を最後にする。2年2組。今年度、俺が副担になった教室だ。
教室に入ると、やはり居た。
窓際の席、前から2列目。夕日の中で、スマホを構う女子生徒。色素の薄い長い髪が床に向かってさらりと垂れ下がっている。なんだかその場所だけが絵画のように、とても神秘的に見えた。
だが次の瞬間、辺りの光が消え現実が戻ってくる。夕日が雲に隠れたようだった。その絵画は途端にグロテスクなものへと変わる。
彼女の両腕両脚に青く残る痣。彼女の家は普通ではなかった。そんな彼女を見て、今まで何度も校長に掛け合ったのに、相手にされなかった。なぜ学校は対応してくれないのか、今日も手を差し伸べられない自分を憎く思う。
彼女は猫の話を始めた。里親を探しているのかと尋ねると、否定とも肯定ともとれない歯切れの悪い返事が返ってきた。
彼女が目の前に立つ。
「せんせ、気づいてるんでしょ?」
この時点でもう、これから彼女が言うことの察しはついていた。
「私を拾って?」
シャツを掴む手に力が籠ったのがわかる。
彼女が俺に好意を抱いていることは分かっていた。それが、純粋な好意ではなく、救ってくれるかもしれないという期待を孕んだものだということも。
俺は、捨て猫のように震える彼女の手を掴んだ。
俺は彼女の目をまっすぐ見て言った。
「わかった」
彼女の手を引き、2人で学校を飛び出した。彼女を助手席に乗せる。もう何もかもを捨てる覚悟だ。俺が君を幸せにするから。助手席の彼女に手を伸ばし、口付けをする。彼女の頬が赤く染まったのがわかる。
これは2人の逃避行の話。