ケトルに水をセットして、沸くのを待っている間にカップにドリップバッグをセットする。お湯が沸いたら、少量のお湯を垂らし、頭の中で15秒を数える。
いち、にぃ、さん……鼻腔を珈琲の芳ばしい香りが擽る。ああ、早く飲みたいなあ……なんて思いながら、15秒を数えきり、カップに追加のお湯を注ぐ。くるくる回すように注げば、白と、茶が混じり合った泡がぷくぷくと揺らめく様が見える。それを、ニ、三度繰り返す。
そうすれば、珈琲の完成。ミルクも砂糖も入れない。黒黒としたそれをそっと口に含む。ふぅわり、香りが脳天まで突き抜けるような感覚にほぅ、と息を吐いた。じわじわと体内を珈琲に侵食されていくこの感覚が、たまらないのだ。
香りを味わうように口に含んでは嚥下し、そうしてカップの中身はいつの間にか空になっていた。と、同時にスマホでセットしていたアラームが、けたたましく現在時刻を知らせてくる。
カップを洗い、シンク横に置いて、小さく背伸び。デスクにつくと、緩んだ表情を引き締めて、珈琲を飲む直前まで手にしていた書類に手を伸ばす。ここからは、現実の時間。
書類を捲る。キーボードを叩く。ほんの僅かな休息だったけれども、腔内に残り続ける安らぎの香りで、まだ少し、頑張れそうだ。
テーマ「束の間の休息」
シナプスからシナプスへ。脳は指令を出し、そして、筋肉へ。肉が隆起する。収縮する。つめて、つめて、そして――。
鬱屈としていた。つまらない日常と、我慢を強いられる日々に。今も、目の前で人のカタチをした何かが理解のできない言語を喚いている。日本語では、あるらしい。他所で買ってきたもので不満があったから、責任を取れと怒っている。なるほど、理解できない。これはたぶん宇宙人だ。
最近は嫌なことが立て続けだったので、すこし、こころの入れ物が小さくなっていて。あふれて壊れそうだったのだ。苛立ち。悲しみ。負の感情は容量が大きいので、入れ物に収まりそうになくて。ああ、これはダメだな、だなんて、どうにも他人事のような心持ちでぼんやりと思考した。
いっそ、感情に従ってしまえたら。最悪な考えだ。そして最高の考えだ。理性は最悪だと、本能は最高だと訴えかける。
知らず知らず、強く、拳を握りしめていた。脳は力を入れろ、と言っているらしい。爪が食い込む。拳が震える。溜まりきった膿が、体の筋肉という筋肉を硬く硬くしていく。強く、強く、力を込めて、そして。
自宅の鍵を回す。カチャン、無機質な音が響く。玄関に入り、施錠してから、己の手を眺める。遅緩した手。掌の皮が剥けている。手を握ったとき、ちょうど、爪の当たる場所。ほかに、外傷といった外傷はない。
安堵と、諦観の息をついた。今日も、つまらない、我慢を強いられる日を終えただけだ。緩む本能を、理性が力で抑え込んでしまったから。
冷蔵庫を開け、缶ビールに手を伸ばす。感情をすべて流し込むように、一気に飲み込む。喉元を過ぎるソレは、爽快感よりも、苦みが勝って。そういえば、喉元に関することわざがあったな、と思い出す。忘れるにはまだかかりそうだ。まざまざと思い出せる手の感覚を振り返り、再度、ため息をついた。
テーマ「力を込めて」
桜舞う季節、貴方と出逢った。
うら若き時分。一目惚れ、というものだったのだろう。夏をともに過ごし、肌寒さを感じ始めた秋頃には互いの手と手が触れ合う距離にいた。冬には、ぴっとりと肩と肩を合わせて、寒いね、なんて言って笑い合っていた。
そうして季節は一巡して、二人で二度目の春を迎えた。
二人で過ごす時間は誂えたように心にストンとおさまって。気付けば顔はいつだって綻んでいた。それはあなただって。
ぱちり。目を開く。懐かしい夢を見ていた。かつて確かにあった日々。
あの日々を思い出せば、顔は勝手に幸せの形を象るのだ。ふふ。木漏れ日のようにこぼれ出た幸せは音になって口元を滑る。それを見ていた少女が、つられたように笑う。
「どうしたの、おばあちゃん。そんなに嬉しそうに」
「……ええ。嬉しかったの。あの人との出逢いを、……出逢ってからの日々を夢に見たから。なんだか大事にしまっていた宝箱を開けたような気分なの。ふふ」
「えへへ。おばあちゃんが嬉しそうで、あたしも嬉しい。よかったね、おばあちゃん」
笑いかける孫の顔と、かつての自分の顔が重なる。きっと私も、こんな風に笑っていた。キラキラしていた。きっと、今も。
手元を見る。しわくちゃになった手。あの時の瑞々しさは、もう失われてしまった。それでも、この皺も彼と歩んだ証なのだと思うと愛おしくて。そおっと、己の手を撫ぜた。
かつて幾度も手を握ってくれた手の持ち主はもういないけれど。今もあの日々が胸のうちを熱くしてくれるから。寂しくはない。過客のような日々に遺した思い出を胸に、今日を生きている。
テーマ「過ぎた日を想う」
夜空は神さまの庭だ。
気に入ったもの、かわいそうなもの。色んなものを、夜空に浮かべて星と成す。
そんな、寓話。
星は星でしかなく、私たちの目に映るソレは、すでに命を燃やし尽くしたものだって、きっとある。それでも手の届かないものに何かを見出すのは、きっと空への憧れ。手に届かぬものは、美しいのだから。
遠いからこそ、わからないからこそ、こんなにも焦がれるのだろう。同じように、遠く、本当に遠くの誰かが地球に神聖な何かを見出したりなんかしているのかもしれない、なんて考えてみる。
たとえば、現代技術では観測できない、遥か遠くの宇宙の惑星の誰かとか。地球と何処かの星を結びつけて、まだ見ぬ不思議な物語が生み出されているのかもしれない。
そんな、もしもの話。
テーマ「星座」
特にやることもなく暇つぶしにテレビをザッピングしていると、目についたのは社交ダンスの番組だった。有名タレント達が何組かコンビを組んで、大会に出場するという趣旨のもの。
別に興味があったわけではないけれど、なんとはなしにリモコンをテーブルに戻してタレント達が舞う様を眺めた。練習なのだろう、汗で前髪を額に張り付けたジャージ姿で、クルクルと舞う姿は不思議と美しくて。照明を反射してキラキラと輝く汗すら綺麗に見えるものだから、思わず感嘆の声が洩れる。
ダンス、と名のつくものは体育祭だとか授業だとかで少ししてみた程度で、本格的なダンスは嗜んだことがない。楽しいのかなあ。楽しいだろうなあ。でも、わたしには無理だなあ。そんな風に思いながらテレビに釘付けになっていると、同居人の彼がいつの間にか傍に来ていたらしい。トントン、と軽く肩を叩かれる。
「何?」
「や、声かけても反応ないから。どうした。珍しくテレビに熱中してるね。こういうの、興味あった?」
彼の質問に、ウーン、と呻る。少しの間、思考する。興味。興味か。
「踊れるとは思わないけど。まあ……あんなふうに真剣に取り組んだら、楽しいかなあって」
「……フーン」
すると今度は彼が考え込むような素振りを見せた。かと思うと、ニコリ、と微笑んだ。
「……じゃあ、やってみる?」
「うん。……えっ?」
「ダンス。別にテレビみたいに難しいのにチャレンジする必要はないし。君がやりたいなら、俺も一緒にやるよ?」
「ええ、急になんで。それに、なんで一緒?」
「だって、テレビを見る目がキラキラしてたから。……というか、他の男と踊るつもり? 俺とにしてよ」
笑っていたのに、突然ちょっぴりムスッとした様子の彼に、申し訳ないけど今度はこちらが笑ってしまった。まだ見ぬ幻想のダンスのパートナーに妬く彼が、あまりにも可愛らしかったので。
「わたしが他に、誰と踊るっていうの? ……踊ってくれるんでしょ?」
おどけたように笑ってから、手の甲を上にして、彼に差し出してみる。びっくりしたように目を丸めた彼は、次第に顔に喜色を乗せながら、そっとわたしの手を取った。
「こういうときは、Shall we dance? って言えばいいのかな」
「ふふ、クサいよ」
今から、主役はわたしたちだ。
テーマ「踊りませんか?」