果てしなく残酷だ。
そうは思わないだろうか。
早く将来を決めれたり、夢がある者だけが優遇され、
そうでない人間は悪いように見られる。
僕らは僕らなのに、周囲はそれを理解しようとしないし
歩み寄ろうともしない。
これが民主主義?平和?笑わせる。
もしこれ等を例えるのなら、これは“平和ボケ”というのだろうか…
まぁ僕には関係ないが。
目まぐるしい変化を常に続け急ぐ事を要されるこんな社会、息苦しいったらありゃしない。
こういう事を言えば必ず、やれそれは逃げだの、お前は卑怯で臆病者、などと囃し立てる人間が存在するが僕から言わせてみれば、彼等は逃げる勇気すら持ち得なかった真の弱者。彼等こそが真の卑怯で臆病者といっていいだろう。
逃げないのが偉いんじゃない、諦めないのが偉いんじゃない、自分を大切にし現実と引き際を理解できる人間こそがいつの世も一番偉いんだ。
この世は辛いし理不尽だ。
悲しいし、恨む時だってある。
でも僕等は生きるのを止めては…進むことを止めてはいけない。
何故ならそれが〈生きる〉という事であり人間なのだから。
僕は狼男や蝙蝠、吸血鬼を連想してしまう。
昔の洋画はこういった類いの作品がかなり多い。
昔の映画は今のようなCGはないがその分、人形や血糊など創意工夫に富んでいる為、現代よりも些かリアルに感じてしまう。
私には日本人としてのDNAからか満月が好きだが三日月も大好きだ。
それは欠けている事に対してスリルや芸術的な美を感じるからだ。
恐らくこれは僕個人としての感性によるもの。
私はどうも、大衆が美しいとするものよりも、その散り際や最後を美しいと感じてしまう。
歴史的偉人の最後や花の散り際、歴史ある古き物が現実世界から消え去り記憶の中でしか存在しなくなる等、私はそういった“最後”を重視してしまう。
まぁ、脱線はこれくらいにしておいて…
結局何が言いたいかと言われれば私は満月と三日月か好き。
以上だ。
この言葉を聞くと僕は野菜や果物を連想する。
色とりどり=食欲を刺激されるのは何故だろうか。
まぁこんな事を感じるのはどれだけ探しても僕しかいないだろう。
まぁこれほどに、連想するものが分かれる言葉は無いのではないだろうか。
僕はそう思う。
子供や男にとっては遊びや童心を返らせる不思議な魅力を持っているかそうでない人間にとっては鬱陶しかったり悩みの種であったりするという二面性を持っている。
勿論、私は前者だ。
幸せとは、個々の価値観によってその内容や立場、善し悪しが決まる概念の一つであると僕は思う。
他者から見て、地味であったり物欲の薄いものであってもそれが当事者にとっては至上の喜びであったりする。
逆に誰もが羨むような生活や環境、人生を送っている人間だったとしても心は満たされず退屈な日々を送っている場合もある。
そのような人間にとっては平凡な人生、不幸な人生を羨んだりする。
又、時代や文化による倫理観によってその幸せが受け入れられなかったり歪なもの、恐れられる場合もある。
例えば血や煙草、ガソリンの匂い、僕が好きな骸骨など人々にとっては恐怖や不快の対象であった場合、そういう事態が発生する。
更にそれが過激の場合、当事者が生命の危機に晒される場合もある。
故に幸せとは人間のエゴイズムや固定的観念などによって生み出された、ともとれるではないかと僕は思う。
しかし例えどんな事があろうとも幸せに対する断定と幸せのために犠牲が生じるという事は決してあってはならない、それは不変であり誰もが守らなくてはならない暗黙の了解なのだと僕は信じている。
誰もが思い思いに苦しむことなくそれぞれの幸せを得られる社会である事を祈るばかりだ。