もし、未来の自分に何か言えることがあるとするなら私は何を言うだろう。今まで過去の自分に言えることは何かは考える機会があったけど、今更未来の自分に何ができると言うのだろう。楽しそうならそのままお幸せにとでも言っておこうか。不幸だったなら、私は未来の自分に逃げてもいいって言ってあげたいと思う。逃げた先で追い詰められてどうしようもなくなっても、もう全部捨てられるものを全部捨ててしまっていても、残った少しのものも全部投げ捨てて誰も手が届かないところまで逃げていいって言ってあげたい。
私たちの見る世界には色が存在する。赤、青、黄、黒、白、挙げていけばキリがない。もし、そんな色がなくなってしまったら、無色の世界になってしまったらどうなってしまうのか。私は嫌だと思う。この世には見えなければ、見たくない、知りたくないと思うことがたくさんある。無色の世界になれば見えるものが減って楽になれると思う。だけど、美しいものを見ることは二度と叶わないかもしれない。大好きな人の、大切なあの人の色づく表情を見れないとするのなら、どんなに辛くても私は色のある世界で生き続けたい。
もう、随分と桜も散ってしまった。綺麗に咲き乱れていた頃と打って変わって、誰も見向きもしなくなってしまった。でも私はそんな、綺麗な桜以外に興味を持たない大勢の人たちに言いたい。散ってしまった桜だって美しいのだと。桜の花とは違う魅力がそこにはあると思う。これは人間においても同じことが言える。人生において最も美しい満開の桜の花のような時期は、いわゆる青春や恋愛を楽しんだ若い時期のことを指すだろう。だけど、年老いてしまったとしてもその人はきっと変わらず美しいままだ。今外を眺めれば瞳に映る葉桜のように。
夢の力というものはすごいと思う。空を飛びたい。雲を食べてみたい。相手の気持ちを読み取りたい。楽しい夢は私たちに力をくれるような気がする。願えばどんな無理難題でも叶ってしまうような気がしてくる。でも、私がそんなふうに夢を見て、願えば何かが叶ってくれると純粋に思えなくなってしまったのは、一体いつからだっただろうか。あなたはその答えを教えてくれるだろうか。そんな愚かな私は、もう一度夢をみたいと願っている。
もし、この世界に本当に神様が存在するのなら、本当に私たちの願いを叶えてくれるのなら、私は何を願おう。まずは、家族が末長く幸福に暮らせるように。後は、友達に不幸が降りかかることがないように。それと、世界平和でも願っておこうか。こういう願いは、誰かのために使うべきであって私利私欲のために使うべきではない。だけど、一つ、たった一つだけ願っても許してくれるのなら。どうか、神様、私はあの人に会いたい。