「善悪は人にあらず自らの心にあり」
嫌な奴だと思ってた人が
話してみると結構いい奴だった
なんてことはよくあることだ。
善悪っていうのは、
ちょっとした情報で簡単にひっくり返る。
だから善悪を理由に動くのは
すごく怖くて躊躇うべきものだと思うんだ。
ルールの対義語は文化だと聞いた事がある。
例えば学校には、「スマホ禁止」というルールがある。
でも「学校では学業に集中するものだ」という文化が
あれば、ルールはいらない。
成程、確かに文化はルールの対義語かもしれない
今の社会は意味も無くルールに溢れ、日々増え続けている。
その裏で常識という文化はどんどん消え、失われていく。
今日の心模様です。
午前中は凄い雷雨と突風の大嵐でしたが、
夕方以降は穏やかな風と雲一つない青空となりました。
仕事では怒られて追い詰められて最低の気分だったけど、
帰り道には明日までの自由にすっかり嬉しくなっている。
過去の嫌な事に引きずられない、数少ない私の長所だ。
平日の午後、心の中で私は叫ぶ。
「もう何もいらないから、
身体ごと溶けてイデアへと帰りたいー。」
楽しいことより辛いことの方が多い人生で、
この理不尽な世界から逃げたい。
選んだ逃げ先はイデア、
かの哲学者プラトンが提唱した愛とか善とか観念の世界。
エヴァンゲリオンでも人類補完計画とかあったけど
ちょっとだけ実現を望んでいる自分がいる。
Komm, susser Tod(甘き死よ、来たれ)
もしも未来が見えるなら、何年後の未来を見たい?
私の場合は大体50年後。死ぬ直前の自分を見たい。
走馬灯を見る自分が、どんな表情をしてるのかを見たい。
満足そうに笑って死ぬのならそれで良い。
今向く方へ人生を自信たっぷりと歩けばいい。
でももし後悔して泣いて死ぬのなら、
しめしめ今のうち人生の方針を数度だけずらしておくのだ。
50年の年月が大きな差となって、
その悲しい未来を回避できるはず。
ちなみに未来を見るのって回数制限がある感じ?
満足して死ぬ未来が見えるまで
何度も方針転換したいんやけど駄目?