眠りにつく前に
枕元に、セットしたスマホを置いて目を閉じる。
暗闇。何も無い暗闇。だがそれもほんの数秒で、スマホからは打楽器の音が響いてきた。
アゴゴベルの軽快なリズム。遠いジャングルの中で何かが始まる、そんなふうに思わせる音。
ティンパニが大地を震わせる。
フルートが加わる。風が吹いて地図を広げた。
ホルンの力強さ、バイオリンの繊細さがチェロの深みを際立たせる。
高らかにトランペットが鳴る。全ての楽器が一斉に覚醒し、壮大な冒険の幕開けを告げた。
まだ眠ることはできない。ワクワクしすぎて。眠ることができないってわかっているけど聞いてしまう。オーケストラバージョンの「宝島」。
もし、このワクワクを夢の中まで連れていけたら、どんなに素晴らしい夢を見れるだろうか。
──なんてことを考えたりもする。
冒険って具体的に何をするんだろう。海や山へ行ったりすることかな。それとも日常的に何かにチャレンジすることかな。
家族のことを考えると、どちらも気が引けるけど、心の中ではやっぱり何かを求めている自分がいる。
うん、よし。じゃあこうしよう。
「宝島」は、次は僕のお葬式で流そう。そしたら、やんちゃな冒険心を爆発させても、誰にも迷惑はかからない。
「宝島」を聞くのは、眠りについた後になっちゃうけど。
永遠に
ある冬の朝。
うわっ、真っ白。兄ちゃん、起きて、真っ白。
なんだよ、うわっ。真っ白。
冬休みに泊まった親戚の家。窓から見える向こうの山まで、全てが雪に包まれていた。
すげーな。
うん。
朝めし食べたら雪だるま作ろうぜ。
うん。
早く早くと、大人たちを急かして食事の準備をさせ、あっという間に飲み込んで外へ。
うわ、まぶしい。
すごい晴れてるね。これってさ、急いで作らないと雪、溶けちゃう?
そうか。よし、じゃあ早くやろう。俺は下、作るから、お前は上な。
うん。わかった。
ふたりともそっと雪をすくい上げ、両手で固めていく。始めはおにぎりぐらいの玉が出来上がった。今度はそれを、雪の絨毯に転がしていく。
コロコロ。
兄の方は、始めは弟を気にかけながら作業していたが、玉が大きくなるにつれて、自分の仕事に集中していった。
弟は始めから自分のことで精一杯。
よし、できた。おい、こっちはできたぞ。
僕も出来たよ。
弟が両手で抱えた玉を兄の作った玉に載せてみた。
あれ?兄ちゃん、なんか変だね。
お前のが小さいんだよ。もっとおっきくしろよ。
むっ。わかったよ。みてろよ。
弟がムキになって作業を再開した。
コロコロ、コロコロ。
はい、出来た。
先程よりも膨れ上がった玉を、上に載せた。
あー、兄ちゃんの作ったやつのほうが小さいね。
わかってるよ。ちょっと待ってろ。
弟のを地面に降ろし、また転がし始めた。
コロコロ、コロコロ、コロコロ。
ど、どうだ。よいっしょ。ほら、やっぱりお前のが小さい。
なにをー。もう一回だ。
弟がまた転がし始めた。兄の方も、今度は弟の出来上がりをまたずに、自分のを転がし始めた。
コロコロ、コロコロ、コロコロ、コロコロ……。
その頃、家の中では。
あれ?お兄ちゃんたちは?
母親が、一番下の妹にたずねた。
うんとね、ゆき、転がしてる。どっちがおっきくするかって。
まだ、やってるの?
母親はやれやれとため息をついた。
雪の絨毯は、遥か遠くまで続いている。雪だるまの成長に、雪が不足することはない。
全くしょうがない。オヤツだから、って呼んできてくれる?そうしないとあのふたり、永遠に終わらないから。
うん、わかった。まったく、しょうがないでちゅね。
妹が手袋と毛糸の帽子を身につけて外に出ていった。
この時。
お昼前の庭先に、3段重ねの雪だるまが誕生するのを母親はまだ知らない。
理想郷
英知の光を放つイルカのために、海を創ろう。サンゴ礁の草原、夕暮れの赤の地平線、生命が凍える冬の深海。天上の舞で悠久の波間を泳いでいく。
生々流転を歩む鹿のために、山を創ろう。峰々連なるその姿、龍が天に昇るがごとく雄大なり。雲海から時折見せる峻険な岩壁を、恐れもせず走り渡る。龍の背を走るが如き鹿の躍動。まさに生命の疾走。
美しい叙情詩のために、四季を創ろう。若葉の芽吹き。天高く積み重なる入道雲。黄金色の水田。純白の世界。四季の移ろいが魂の奥深くに火を灯し、内なる宇宙を探索する。
平和のために、法を創ろう。正義と平等の道しるべ。社会の礎。歴史と文明の結晶。強者の横暴から弱者を保護し、今日と明日を繋ぐ歯車。厳密さと緻密さを昇華させた美しき方程式。
コンコンコン、誰かが扉を叩く。
どうぞ。
失礼します。
やあ、天使くん、こんな時間までお疲れさま。どうしたの?
大変ですよ。大事なことを忘れてました。
なに?
人間ですよ。神さま、理想郷に人間を入れるのを忘れてませんか。
……あっ。
あっ、じゃあないですよ。どうするんですか。
うーん。もういいんじゃない。入れなくても。
な、なんてことをいうんですか。
だってさ、せっかく『法』っていうのを創ってあげたのに、あいつらケンカばっかりしてるしさ。こっちのいうこと聞かないし。本当は、人間がいない世界が理想郷なんじゃないの?
……それ、絶対に外で言っちゃいけませんからね。とても神さまの言う台詞じゃないですから。
そうかも知れないけどさ。……じゃあいっそのこと、人間の思考を変えちゃおうか。
どんなふうに?
もう何も考えなくする。
やめてください。怖いですから。そんなことしたら、悪いことは考えなくなるけど、楽しいことも考えなくなっちゃうじゃないですか。そんなの理想郷じゃないですよ。
うーん。もう面倒くさい。ああもう面倒くさいな。……やめた。もうやめた。理想郷、無理。この世は地獄です。
駄目です、そんな簡単に諦めないで下さい。何のために、僕たちが毎日サービス残業で理想郷作りをやってきたと思ってるんですか。ちゃんとしてくださいよ。
うーん。じゃあ、ちょっとだけいい?
何がですか?
人間の思考、変えるの、ちょっとだけ。
どんなふうに?
それはね、ゴニョゴニョゴニョ。
うーん、まあそれくらいなら。
よし、じゃあそういうことでよろしくね。わたしはもう帰るから。
あ、え、ああ。ったく、逃げ足だけは速いんだから。しょうがない、さっさと書類作って僕も帰ろう。
さてさて、
『人間同士はいつも、出会ったら真心を込めて挨拶する』
これをメールしてっと。これでよし。施工は来週からだな。これで理想郷ができればいいけどなあ。
懐かしく思うこと
散歩で近所のグラウンドを通ると、ちびっこたちが懸命にバットを振っていた。額の汗が、太陽の日差しで輝いている。
その中のひとりが、コーチに指導されている。
ダメだ。下から上にでてる。バットは上から下に。いいな。
はい、と答えて振ってみる。
よし、そうだ。その振り方だ。
コーチは別の子のところへ向かっていった。
別の子のところでも、コーチは同じような指導をしていた。その子も下から上にバットが出ているみたいだ。アッパースイング。
大谷、だろうな。どうしても真似したくなる。
懐かしい光景。
僕らの頃はイチロー、松井、ちょっと上だと落合。みんな憧れのプロ野球選手のスイングを真似て、そしてみんな、コーチにそれはダメだと指導されていた。
好き勝手に振らせてあげなよ、という思いもありつつ、指導のおかげで、ヒットが打てるようになる楽しみ。
子どもにとって、どっちがいいのだろうか。
ヒットが打てるようになったからといって、みんながプロ野球選手になれる訳では無い。
でも適切な努力をすれば、いい結果が生まれる、ということを学べる。だから指導されるのは、悪いことではなかったのかもしれないな。
──なんてことを思いながら、ゴルフ練習場で必死にスイング。
ダメだ。スライスばっかり。全然まっすぐ飛ばない。
コーチに見てもらおうかな。でもお金かかるしなぁ。ううむ、どうしよ。
もう一つの物語
店を出ようとする背中に追いついて声をかけた。
ちょっと待てって。どうしたんだよ。
振り返った彼女の、鋭い視線が僕にぶつけられた。
なんであんたが来るの?あいつは?
まあ、僕もあいつが追いかけてくるべきだとは思うけど。お前が完全に無視してるから、代わりに聞いてきてって言われてさ。仕方なく。
視線が一層厳しくなった。
ぼ、僕に当たるなよ。とにかく、理由は?
彼女は僕を睨んだまま、渋々口を開いた。
さっきあいつのインスタ見た。
で?
端っこのテーブルにグラスが2つあった。片方に口紅ついてた。
……あ、ああ、そうか。ううむ。
決まりでしょ。浮気。
いや、待て。実は今日の宴会芸のために女装の練習をしていた、という真実の物語が……。
あるわけないでしょ。なに?あんた、あっちの味方なの?男はこれだから……。こういう時にかばい合うよね。
待て。わかった。一応、確認してくる。待ってろ。
僕は階段を上り、3階の宴会場に戻った。
他の同僚に捕まらないようにこっそりとあいつに近づき、さっきの話をした。
ゴニョゴニョ。
ゴニョゴニョ。
わかった。待ってろ。
僕は急ぎ足で一階に降りて、あいつの言い分を伝えた。
あれは、あいつの姉のグラスだってさ。だから完全に誤解なんだって。よかったな。
だが、彼女の視線はますます厳しさを帯びた。
お姉さん、確か結婚してアメリカに住んでるはず。
え?あ、ああ、そうだっけ?
そうだっけって、あんただって知ってるでしょ。
怒りが渦を巻いている。このままでは、何故か僕もその渦に巻き込まれそうだ。
わ、わかった。もう一回、もう一回だけ確認してくる。
僕は、駆け足で階段を登った。
ハァ、ハァ。ゴ、ゴニョゴニョ。
ゴニョゴニョ。
そうか。い、行ってくる。
一階に戻り伝えた。
お、お姉さん、離婚して戻ってきたんだって。住むところ見つかるまで一緒に住むって。
……本当に?
本当に。さっき僕が、お姉さんに電話して確認した。だから本当。よ、よかったな。か、完全に無実だ。
そうなんだ。なぁんだ、そうならそうと言ってくれればいいのに。
先程までの怒りは霧散し、表情に薔薇の花が咲いている。
じゃあ謝んなきゃ。わたし戻るね。
彼女は、颯爽と宴会場に戻っていった。
僕は、息を切らし、足を震わせながらまた3階へ戻っていった。
へとへとになりながら、席に戻った。どうなったかなと気になって視線をやると、周りのことなど気にしない、ラブラブなふたりに戻っていた。
なんなんだ。なんで僕がこんなにへとへとにならなきゃいけないんだ。
ちょっとイライラしながら、お猪口を傾けた。
大変でしたね。
声のした方を見ると、後輩の女性が労うように徳利を差し出してきた。
やあ、これはどうも。頂きます。ほんとにさ、自分達でなんとかしてくれって話だよ。
でも放っておけないんですよね、先輩は。
まあ、数少ない友人だからね。
フフッと後輩は笑った。柔らかな視線だった。
先輩って優しいんですね。
いやぁ、それほどでも。
あ、あれ?この雰囲気は……。
もしかして、もう一つ、新たな物語が始まったりして……。