『夏』
夏になると近所の蕎麦屋では軒先に風鈴を吊す。
よくあるガラスのものではなく、鉄製のそれは、音が一段高く澄んで聞こえる。
風鈴が吊される時期は年によってまちまちで、梅雨入り前の5月下旬頃からの年もあれば、気象庁の梅雨明け宣言がされた当日のこともある。尤もこちらも気にしている年もあれば、気がついたらいつのまにか吊されていたという年もあるのだが。
ともあれ、あの音が聞こえ始めると「ああ、夏が来たんだな」と実感する。
私にとっての「夏の風物詩」のようなものだ。
梅雨もようやく折返しかという6月終わり頃の夕方、私は近所へ買い物に出かけた。
この日は梅雨の中休みの好天で、昼間は猛暑日に届くかというくらい暑かった。
こんな日は食欲が落ちるからさっぱりとしたものが欲しい。ちょうど豆腐があるから冷奴にでもしようか。
そう思って冷蔵庫を見たら薬味に使う生姜を切らしていた。
我が家の冷奴にはぴりりと辛い生姜が欠かせない。
そんなわけで、自転車に跨がり、近所のスーパーへと向かっていたのである。
チリリン。
件の蕎麦屋の近くに差し掛かった時、ふと澄んだ高い音が耳を掠めた。
速度を落として窺えば、やはり軒先に鉄製の風鈴が揺れている。
梅雨が明けるまではまだあと半月ほどは掛かるだろうが、この日、私にとっての夏が来た。
スーパーに行ったら、生姜だけじゃなく、西瓜も買ってしまおうか。
夏のデザートといえばやはり西瓜だろう。
異論は認める。子供達に話したらきっと「アイスの方がいい」と言うに違いない。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「帰りにあそこの蕎麦屋の前を通ったら風鈴が鳴ってたよ」
「うん、私も夕方の買い物の時に気がついて」
「あれを聞くと夏が来たなって思うよな」
「ね。だから西瓜買って来ちゃった」
「いいね」
夫は背広を脱ぎながら、私は夕飯の支度をしながら、そんな会話を交わす。
私が毎年のように気にしているからか、夫にとってもまたあの風鈴は夏の風物詩となっているらしい。
夫婦でそんな共通の事柄があるのが何となく嬉しくて、思わず顔が綻んでしまう私なのだった。
6/28/2023, 11:43:36 PM