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玄関に足を踏み入れた。
食欲を掻き立てられる香ばしい匂いが、辺りに充満し始める。
茶色の紙袋を抱えドアノブに手をかけようとすると、扉はひとりでに開いた。

「おかえり、おじちゃん」

出迎えてくれたのは、妻でも子供でもなく、一人の少年だった。
子犬のように愛らしい瞳をくしゃっと細めて、眩しく笑っていた。
思わず彼の頭に手が伸びる。

「ただいま。口煩く言うが、"お兄さん"、な」
「はーい、お兄さん!」

このやりとりは何度目だろうか。
少年のはずむような返事に、俺は苦笑いをした。

「じゃあお兄さん、今日の晩御飯は?」

いかにも子供らしい問いかけに、「これだよ」と抱えていた紙袋を机に置く。
少年はまるで宝箱を発見した海賊のごとく中を覗き込むと、ぱっと顔を輝かせた。

「パンだ!買ってきてくれたの?」
「ああ。前に食べたいと言っていただろう」
「覚えててくれたんだ……へへ、嬉しいなぁ」

愛おしげに袋の中をみつめる姿は、なんとも健気だった。
そんな彼をみつめる自分もまた、健気なのだと知った。
すっかりご機嫌な少年を横目にキッチンへと向かい、昨晩こさえた薩摩芋と林檎のポタージュをあたためて食卓に出す。
本日の主役を紙袋からバスケットに移し変え、椅子に身を沈めれば、二人だけの晩餐のはじまりだ。

「美味いか?」
「すっごくおいしいよ、これ!」
「はは、そりゃよかった」
「なんていう名前のパンなの?」
「クロワッサンだが……」

食べたことないのか?
そんな言葉は、直ぐにすり潰して嚥下した。
問うべきではない、と強く思った。
彼の哀しい笑顔は、二度とみたくなかった。

「へー、くろわっさん」

少年はひとくち、またひとくち、と丁寧に齧り付いていく。
その表情は住処を見つけた小動物のように穏やかで、少しばかり安堵する。
ふと窓の向こうに目をやると、爪の切れ端のような形の何かがぽっかりと浮かんでいた。

「少年、見ろ。月が綺麗だぞ」
「ほんとだ!」

少年は閃いた表情を一瞬見せたのち、






1/9/2023, 7:09:51 PM