幸せには二種類がある、比較的な幸せと感情的な幸せだ
比較的な幸せは傍観者や観測者から生み出される、この国や他国の貧しい子供達、過去の時代の貧しい暮らしなどに比べたら自分達の暮らしは凄く幸せだと実感できるだろう。
他にも過去の自分を思い返してあの時の自分は幸せだったと思った事はないだろうか?、自分も確かに心当たりがある、小学生の頃、中学生の頃、高校生の頃の自分を見て幸せだったんだと、では何故今現在に至るまでそう思えなかった?、社会人の日常という未来から見る過去の観察でしかその幸せは観測できないからだ。
そもそも小学生の時なら幼稚園児を、中学生なら小学生を、高校生なら中学生を、大学生なら高校生を、それぞれ幸せそうだな、自分もあの頃は幸せだなと思った事は殆どの人が考えたのではないだろうか?
少なくとも自分は感じた事はある、何のことはない社会人になる前、学生の時から歳下の学生を観察対象にしてその時の自分からしたら幸せだったと感じる
それはさながら天体観測のようだ、遠くから眺めている私達は流星を見たら綺麗だ、果ては願い事をする始末である、だが当事者の落下物は今まさに大気圏の摩擦熱によって燃え尽きるか否かの瀬戸際、燃え尽きて無くなるのが殆どだ、青春の当事者だった私達もそうだったのではないだろうか?
恋愛、勉強、友人関係、etc、あげたらキリがない程のものが近くに存在しそれらを何とかしようと四苦八苦していたあの頃が幸せだと感じるのは未来を知っていなければ到底考え至らないだろう、それを私は比較的幸せだと思う。
だから私は比較的な幸せより感情的な幸せの方が建設的だと思う、感情的な幸せはつまりその人が人たらしめる事をしている時に感じる物だ。
プロのアスリートが世界大会で優勝した時は気持ちが良いだろう、幸せを感じるだろう。
魅力的な物語や作品、曲にあった時、読者や視聴者は感動して幸せを感じるだろう。
逆に大勢の人間を感動させる事が出来た作曲家、作家、芸術家、絵師、この世にありとあらゆる創作者達は幸せを感じるだろう。
恋人や家族、愛しい人との何気ない日常にだって幸せを感じるだろう。
自身の怒りや悲しみ、愛や楽しみをスポーツや創作、触れ合いなどに昇華する事こそ幸せなのではないだろうかと自分そう考える。
だから私も今日も今日とて執筆し、物語を紡ぐ。
1/5/2025, 2:34:22 AM