「通り雨」
傘を忘れた。
それに気づいた時は、すでに遅かった。
つまらない講義を受講している時に、一気に雨が窓を叩きつけ、教授が「急に降ってきたな。窓側の人、窓閉めてもらえるか?」と呑気に言った。
ぞろぞろと窓際に座る生徒が、窓を閉め始め、俺も例外なく窓を閉めた。鍵も閉めた方が良いのかと疑問に思ったが、どうせ窓を閉めるくらいなら、鍵を閉めても同じことだと思い、がちゃっと閉めた。
この大学じゃなきゃ嫌だと思わせるような大学に出会ったことはない。進路なんて中学生の頃ははっきり言って、適当に決めても、まだ十五年しか生きてないから分からない、家から通えたほうが母親は安心するだろうと理由を付け、割と適当に選んだ。偏差値も中の上くらいで、模試の結果と照らし合わせ、無難に決め、無難に合格した。大体の生徒は人生初の受験で焦りや不安に恐怖を覚えていた。俺もそのうちの一人だった。初めてプレッシャーというものを感じた。自分のシックスナインが母親の良い高校に進学してほしいという期待を感知した。それでも何とか乗り越えた。ただ、ゆっくりしていられるのも束の間で、二年生に進級すると、途端に教師たちが受験を意識しだす。当たり前っちゃ、当たり前だ。自分の高校の進学先を毎年公開しなければならないから、少しでも偏差値の高い大学や有名企業に就職してもらわないと、ただでさえ少子化が進む日本でどうにかして生徒数を確保するためには必要なことだ。
クラスメイトの矛先が自分に向かないように、息を潜めるように学生生活を過ごした。程よく空気を読んで、周りに合わせて、成績も自分で言うのも恥ずかしいが、毎回絶対八〇点を下回ることはなかった。お陰で母親は喜び、担任は鼻を膨らませながら職員室で自慢していた。
塩顔の父親に似た顔だったからかもしれないが、そこそこ異性からも視線を浴びていた。ただ、大多数の視線を浴びることは嫌いだから生徒会長などには一切立候補すらしなかった。代わりに内申書に書けるように程よく地域のボランティア活動に参加していた。
いつだってまるでタスクをこなすように生きてきた。
勉強も、元々ギフテッドみたいな能力を持ち合わせていないということに人より早く気づいたから、その分自分なりの努力で補っていただけだ。勉強法や暗記法、参考書の選び方。膨大な量を誇るネットの世界で探し回り、違う記事でも別の記事と同じ事を書いている部分を読み取り、それを実践しただけだ。テスト期間の勉強の予定の組み方が分からなければ、またネットの世界で探し回って、自分がこなさなければいけない課題を逆算し、一番効率よく課題を提出でき、点数が取りやすい方法を編み出しただけだ。
たまに赤点を取り、嘆いているクラスメイトを見るが、あんなのは努力をしていないからだ。自分の努力が足りなかったから、自分に合う勉強法を実践しなかったから、ああなったんだと心の中で鼻で笑う自分がいた。自業自得じゃないかと思うくらいだ。
そんな学生生活を送る俺にも赤点を取るクラスメイトと同じように、進路を決める時期が迫ってくる。三者面談の数が明らかに増え、模試の数も増えた。担任のアドバイス通りに俺は二年生の頃に複数の大学のオープンキャンパスに足を運んでいた。正直毎回毎回大学までの電車を調べたり、暑い中足を運ぶのは面倒だった。さぼってやろう、と何度も思ったが、おそらく同じ行き先であろう人を見てしまうと、その人に負けた気がして渋々行っていた。しかし、悪いことばかりではない。オープンキャンパスに参加しているのは大体二年生が多かったが、意外にもぎりぎりになって来ましたという人もいて、大学生スタッフから、すごいねもう進路について考えてるの?と褒められた。行きたくはないし、せっかくの休日だから家でゴロゴロしたかったが、褒められて悪い気はしなかった。毎回って言っていいほど、褒められていた。勿論、何も考えずに来てるわけじゃない。毎回メモ帳には大学の特徴、卒業後の進路、模擬授業の感想など細かく書いていた。行くからには納得した所に行きたいし、高校と違って学費などの額が違うから中途半端な気持ちでは選びたくなかった。
ただ、猛烈にこの大学が良いという大学はなかった。
一人暮らしができる余裕もあったので、都内近郊の大学にも行ってみたが、何だか違う、もしくは前回よりはこっちの方が良いかもなとふんわりした感想しか出てこなかった。思い切って、九州に行こうかと考えたこともあった。東京生まれ東京育ちの俺からすれば、九州なんて海外のようなものだ。方言も独特でテレビで見たのをよく覚えている。ただそこまでする必要があるのかと踏みとどまった。別に魅力的な大学は都内近郊にも都内にもいくつかあるし、そこから選べばいいじゃないか。
仮に九州の大学に行くとして、家族にはなんて説明する?思い切って海外気分を味わいたい、自分を変えたいと口が裂けても言えない。そんなの、俺らしくない。
結局、担任との進路相談で今の偏差値と去年のオープンキャンパスの感想を吟味して、都内の大学を第一志望にした。名を言えば大抵の人は褒めてくれるような大学だ。三者面談の際、担任からそのことについて聞いた母は、平穏を装いつつ、帰り道にはやっぱりあなたは天才ね!って自慢げに語っていた。母は自分の息子が努力して有名大学の進学の道筋が見えていることに感動しているわけじゃない。ただ、有名大学の大学生になれる息子を育てた母親像に感動しているだけに見えた。これで義理の姉や義理の両親に自分の教育方針が正しかったと、客観的に認めてもらえるからだ。だが、実際義理の姉らは、そこまで俺の進路について興味はないし、母から所謂教育虐待を受けた記憶すらない。義理の姉ら、特に父方の親戚や両親は、みな有名大学や海外大学を卒業している人ばかりで、大手企業の役員だったり、海外で働く人が割合的には多い。俺の知る限りの親戚は大体そうだ。だが、高卒の母からすればそれは羨ましく、同時に妬ましい存在だっただろう。自分は片親で高校卒業後は進学の選択肢すらなかったのだから。当たり前のように大学に進学することは、どれだけ恵まれていることなのか。きっと、彼らは知らない。大学に進学するのが当たり前という環境で育ち、奨学金も借りたこともなく、今まで育ってきたのだから。母なりにコンプレックスがあるのだと思う。自分は大学に行きたくても行けなかった。もしくは、行くことが許されない環境だった。だから今の会社で死ぬほど努力をし、肩書きを常に求めていた。しかし、高卒と大卒の壁は厚く、これ以上は大卒以上の人間がなる役職だと打ちのめされたのだろう。昇進の話が打ち切られたのかもしれない。
幼い頃から「大学には絶対行ってね」と口ずっぱく言われていた。しかし幸い、教育虐待のような仕打ちを受けたことはなかった。自分の足りないところは補うのは当たり前だと考えていたから、苦手な国語や社会は、小学生の頃から意識していた。
分からないところは、教科書や参考書、youtubeで調べノートに書き写した。
満点のテストを見せる度、母は褒めてくれた。最初の頃は、褒められたくて頑張っていたのかもしれない。
しかし、段々とやらなければいけないからやる、高得点を取らなければいけないから勉強するというように、考えるようになった。
自分のやりたいことなんて考えたことすらなく、勉強ばかりしていた。周りのクラスメイトからは、何で勉強していないのにテストで高得点を取るのか不思議がられたこともあった。授業中は他の生徒と同じように板書し、休み時間は友人とふざけ合っていたからだと思う。テストで高得点取れるのはガリ勉だけと彼らは考えていたが、家に帰ったら、俺はガリ勉に変わっていた。ただ、彼らはその姿を見てないから、要領が良い生徒だと認識していた。
結果、第一志望の大学に合格し、今に至る。
我ながらつまらない人生だと思う。
やりたいことを思う存分にやる経験をしてこなかった俺は、世論も政治も何もかもが腐って見えた。
丁度、今降っている雨のように。
曇り空で雨を降らし、一時間もすれば晴れるだろう。
「通り雨だったね」と呑気に忘れられるような存在。
俺は多分、今後もそうやって生きていくのだと思う。
9/27/2024, 3:37:30 PM