056【静寂に包まれた部屋】2022.09.30
そもそも皇族がこの屋敷に足を踏み入れるのは、禁忌とされていた。唯一の例外は、皇子が幼かりしみぎりに、ルリイロハグロトンボのアルビノの標本を見たい、と駄々をこねたときで、それ以降、誰も禁忌を犯していないならば、この再びの皇族の来訪は、二十数年ぶりとなるはずだ。
その唯一の例外も、二十数年ぶりの再訪も、まさか我が身がおこなうことになろうとは、皇子自身、想像だにしていなかった。
馬車を降り、重々しい玄関の扉から、屋敷のなかに入る。すると、そこのぐるりの壁面はもうすでに、昆虫標本でいっぱいだった。子どもの頃の記憶より、一層さらに増えているのではないか、と思われた。通り抜ける廊下の壁も、静かに動きを止めた標本でいっぱいで、むしろ、自分が立ち上がって動いていることのほうが、なにか重大な過ちを犯しているのではないか、と錯覚されてくるほどであった。
たどり着いた部屋では、屋敷の主が待っていた。大伯父のアルフレード、93歳、先代の皇帝であった祖父の兄である。
曽祖父の代は、有力な臣下のつばぜり合いが激しかったという。それが、皇位継承争いにまで発展し、内乱勃発が危惧されたほどであったという。アルフレードは、意に反して、成り行きで一方の神輿として担ぎ出されていたが、みずから皇位継承権を放棄し、この黒森に引き籠り、そうすることで争いに終止符を打った。そして、皇族との接触を断絶し、臣下もそれに倣うよう宣言し、二度と己を争いの火種とできぬようにしたのである。
静寂に包まれた部屋の中で、この歴史的な騒乱に終止符を打った大伯父は、ここでもまた、おびただしい数の昆虫の標本に囲まれて座っていたが、禿げ上がった頭に丸眼鏡、というトレードマークは二十数年前と変わっていなかった。
圧倒的な量の死の静寂に包囲されて、皇子はたじろいだ。静かすぎるがゆえに、かえって、動かないはずの昆虫たちの羽音が、ブウンンンンンンンンンン……と一斉に立ち上がってくるかのような気すらした。
「ようこそ。セヴェリン……大きゅうなったのう」
跪いて無沙汰を詫びる皇子の頭を、アルフレードはいとおしそうに皺深い手で撫でた。皇位争いを拡大させぬために敢えて離婚し、二度と妻帯しなかったこの大伯父にとって、姪孫である皇子は実の孫にも等しい存在だったのである。
「久闊を叙したいところじゃが、そなたにはさようなゆとりはなかろう。単刀直入にいこう。例の謎の毒蛾の件じゃね……」
ここへ、と指し示されたテーブルにもまた、蛾の標本がある。
「まさか、ワシの道楽が国難救済のいとぐちになる日がこようとは」
アルフレードは嘆息した。
「……夢にもおもわなんだ……」
それは、幾重にも深い思いが折り畳まれた嘆息であった。
9/30/2022, 1:02:45 AM