088【理想郷】2022.11.01
「ヴォロージャ兄さん……お茶の時間だけど、どうかな?」
声をかけながら部屋にはいると、ヴォロージャは窓際にいざりこんでなにかに夢中になっていたらしい。内緒の悪戯を見つけられた子どものように、はっとこちらにふりかえった。
「……あ、あぁ……ユーリャ。もうすこしだけ待ってて。いま、果樹園に南国の果物を植えられないか、実験しているところだから」
と、兄は気もそぞろであるといわんばかりに、いらえを返そうとした私を置きざりにして、色鮮やで、つるつるとした小石をいくつかつまみあげ、床の上に並べた。
「はい。これでおしまい」
無邪気ににっこりしながら立ちあがると、
「いくよ、ユーリャ。遅くなると、お母さまが気を悪くなさるからね」
と手をさしのべて、むしろ私のほうをいざなおうとした。私は、不用意に目頭が熱くなったが、かろうじて、手をまぶたまで持っていくのは抑えた。
弟である私のほうが年長者であるかのように兄に接さねばならなくなって、もう一年以上経つ。回復の見込みはない、と医者からは見放された。教会は、ただ祈れ、とだけ告げて突き放した。きまぐれにおとずれる、こうした奇跡の瞬間、ヴォロージャが幼きみぎりを思い出したかのように、長兄として気丈に振る舞おうとする姿を見せてくれる瞬間だけが、私にとっての唯一の慰謝であった。
ふたりして室を出ながら、私は一瞬だけ後ろを見て、ヴォロージャの理想郷の全景を視野におさめた。
もともとは、テーブルのチェス盤の上でだけの世界だった。チェスの駒と、煌くカフスボタン、それとふたつばかりのさいころ、それが兄の版図であり、人民であり、作物であった。それはいくばくもせぬうちにテーブル全体にはみ出し、さらに拡大し、いまでは床一面がヴォロージャの夢に占領されている。兄弟共有の玩具だった機関車はアジアへとつながる鉄道となり、妹のサーシャのドールハウスは国会議事堂になっていた。わざわざペテルブルクから取り寄せた哲学書は、もはや読まれることもなく、ヴォロージャの版図の縁のほうに累々と積み重ねられている。これらはいまでは、国境の山々となっているのである。
「お父さまは古臭くて困ったものだね。もう、旧来のやり方は通用しなくなってきているというのに……次期当主である僕の意向もとりいれて、あとすこしだけでも農奴の待遇を改善してくれたらいいのに」
ね、ユーリャもそう思うでしょ、と小首をかしげるヴォロージャに、私は中途半端な返事しかできない。以前なら、その理想に私も私の理想を熱く語り返すことができた。だけど、いま、ヴォロージャは後継者ではない。私でもない。次期当主は、父に忠実で、もしかしたらそれ以上に反動的かもしれない二番目の兄、ニコライだ。
すべては、半年にわたる獄中生活のせいだった。私は、おもわずヴォロージャの細い体躯を抱きしめた。その背中に、腕に、拷問の傷跡が残っているのを、衣服に隠されてはいても、私は知っている。
革命への夢は、もはや断つしかなかった。いまはただ、このひとさえ無事にながらえてくれたらいい。私の望みは、ただそれだけだった。
10/31/2022, 3:22:18 PM