【クリスマスの過ごし方】
受話器から聞こえてきたノーラの声は、ご機嫌とは言えないものだった。
「絶対にあやしい」
そう断言する彼女が疑っているのは、ぼくたちの父さんのことだ。
「ビリーと一緒にイブの前にはそっちへ帰るから、って言ったら、父さん、なーんかあたふたしだして」
ぼくはシェフ見習い、ノーラは音楽学校の生徒で、二人ともそれぞれ実家を離れて勉強中の身。けれどもうすぐクリスマス休暇だから、ぼくもノーラも一緒に実家へ帰る予定。ノーラはついさっき、電話でそのことを父さんに話したそうだ。
「なぜそんな早くに?私への気遣いなら必要ない、もっとゆっくり来たらどうだ、なんて、気まずそうに言うんだよ!」
父さんの口真似をして憤るノーラ。かなり興奮気味だな。
「これはもう絶対、新しい恋人と暮らしているんだって、きっと!」
実家には今、父さんが一人だけで暮らしているはず……なんだけど。
ぼくたちの母さんは半年ほど前に病気で亡くなってしまった。
母さんは画家、父さんは児童文学作家で、両親とも自宅が仕事場。ぼくたち家族四人は普段一緒にいる時間がほかの一般家庭よりも長かったからだろうか、けっこう仲の良い、気の合う家族だった。ぼくたちが大きくなって家から巣立っても、お互い電話や手紙でひんぱんに連絡を取り合っていた。母さんが亡くなってからは特に、ぼくもノーラもできる限り電話や手紙、はがき、時には実家まで会いに行ったりして、父さんに寄り添ってきた。
けれど最近ふた月前ぐらいから、どこか父さんの様子がおかしくなった。忙しいからと長電話に応じてくれなくなったり、話していてもどこか上の空だったり、手紙の返事も滞りがちになって……
ノーラの推測どおり、本当に父さんに恋人が出来たからだろうか?
「だけどノーラ……あんな不器用な父さんに、母さん以外の彼女ができると思うかい?」
父さんは素敵な言葉を見事にあやつって、読む人を夢のような世界へといざなう物語を綴る人気作家なんだけど、人見知りが激しくて感情表現もとぼしく、お世辞にも人付き合いが上手いとは言えない人だったりする。
「それに、父さんはずっと母さん一筋だったじゃないか。死んだからって、たやすく心変わりできるような質じゃないよ」
冷静なぼくの意見にも、ノーラは耳を貸さない。
「だってほかに思いつかないもん。それに父さん、無愛想だけどハンサムだし。押しかけ彼女に居座られてるとか!ありそうだよ!」
とにかく父さんの不審な態度を確かめなきゃ!ノーラの必死ながなり声は、耳から腕いっぱい受話器を離しても充分に聞き取れた。続いて聞こえた言葉に天を仰ぐ。
「だから予定を前倒しして、今から出発しよう、ビリー。用意して待ってて、車ブッ飛ばしてそっち行くから!」
思い込んでしまったノーラにはお手上げだ、どんな名演説家でも彼女の鉄の心は変えられない。大きくため息をついてから受話器を引き戻し、やれやれと諦めの心境で「イエス、マム」とだけ告げて、ぼくは電話を切った。
「さあ、着いた!気付かれないうちに中へ踏み込むよ!」
荒っぽいノーラの運転で車に揺られること約二時間、もうすっかり暗くなったころにようやく家に到着。庭に駐車させると同時に、ノーラは車から飛び出して玄関へと走った。ぼくもふらつく頭であとにしたがい、ドアの鍵をぼくの合鍵で開けて中へ入った。中は全体的に間接照明だけで薄暗く、シンとしている。二人でリビングやキッチン、バスルームを覗いて廻ったけど、どこにも父さんの姿はなく、恋人とおぼしき人の気配も感じ取れなかった。
「もう寝たのかな。だとしたらベッドルーム……」
もし本当に父さんが新しい恋人と同居しているのだとしたら……気不味くて、とてもその部屋を訪れてみようなんて思えない。ぼくが言葉をにごしてためらっていると、険しい顔でノーラが凄む。
「だったらさっさと行こう!決定的瞬間で現行犯逮捕できるチャンスだ!ほら、グズグズするな!」
尻込みするぼくの腕を絡め取ったノーラに、有無を言わさず引きずられて行く。ベッドルームの手前まで来ると、そのとなりの部屋のドアから灯りが漏れているのに気付いた。その部屋は母さんのアトリエ……ノーラも気付いたようで立ち止まり、二人して顔を見合わせた。するとアトリエのドアがいきなり開いた。
「――ビリー、ノーラ……!お前たち、なぜ此処にいる!?」
開いたドアから、素っ頓狂な声と顔をした父さんが出てきた。居合わせたぼくたちは三人とも驚いてしばし呆然と見つめあった。ぼくたちが驚いたのは父さんの格好。絵の具まみれのエプロンを身に着け、その下にはやはり絵の具まみれのよれたトレーナーにジーンズ。常にドレスシャツやスラックスで上品な身だしなみを心掛けていた父さんだったのに、まるで生前の、仕事中の母さんのような作業着姿だったからだ。
「く、来るのはイブの前日ではなかったのか?」
最初に我に返って言葉を発したのは父さんだった。かなり動揺した様子で、ぼくたちから目をそらし気味にしている。その不審な仕草にノーラがここへ来た目的を思い出して、父さんを睨みつけた。
「父さん、新しい彼女はどこ!?」
力いっぱい見開かれた目が、父さんの端正な顔を滑稽なぐらいに歪めさせた。ノーラにぶつけられた言葉があまりにも意外なことだったらしく、その滑稽な顔のまま、すぐには返事ができずに口をパクパクさせて、父さんは呆気にとられたようだった。
そのはっきりしない様子がノーラの業を煮やしたみたいで、絡め取っていたぼくの腕を離すと力強い足取りでベッドルームの前に立ち、ノックもせず豪快にドアを開けて中に踏み込んでいった。ノーラがクローゼットやベッドの掛け布団をまくったり、ベッドの下を覗き見たりする物音を耳にしながら、ぼくは固唾をのんで、父さんは訳が分からないといった風情で立ち尽くし、彼女の行動を見守った。やがて、
「……誰もいない……」と、釈然としない面持ちでノーラがベッドルームから出てくると、ぼくは思わずホッと詰めていた息をはいた。良かった、とにかく父さんのディープなプライバシーを暴かずに済んだようだ。
「お前たち……一体何のつもりで私の身辺を嗅ぎ廻りにきたのだ?」
いくら父さんが鈍い唐変木でも、なんとなく事態が呑み込めてきたらしい。不機嫌に声を尖らせてぼくたちをなじる。ぼくはどう言い訳したものかと返答に困り、なにも言い返せなかったけど、ノーラは怯むことなく立ち向かった。
「だって父さん、最近すごく変だったじゃない!あたしやビリーを避けるように、邪険にしてさ!!」
父さんが大好きなノーラは、つれなくなった父さんの態度に不安で寂しくてたまらなかったのだろう。涙をポロポロ零しながら訴えた。
「……きっと新しい恋人ができたからだろうってビリーと相談して、それで確かめにきたんだよ!」
ぼくの方に目を向けた父さんへ慌てて顔を横に振り、ぼくは無関係だとジェスチャーで示した。ノーラの一人勝手な思い込みによる独断専行は昔からのことだから、ビリーは巻き添えを食ったのだなと察してくれたらしい。父さんは何度か頷いて、深いため息を一つ零すと言った。
「お前たちの疑いを招いて要らぬ騒ぎを起こしたのは、たしかに私が原因なのだろう……心配させて悪かった」
観念した口調で詫びると、決まりの悪い、恥ずかしがるときに見せる片頬を撫でる仕草をしつつ、母さんのアトリエに入るよう手招いた。
「……お前たちが来るまでに完成させたかったのだが……」
父さんのあとに続いてそろそろと中に入る。そこには母さんの作品が昔のままにたくさんあった。けど中央のイーゼルには見たことのない絵が架けられていた。それは…………
「感想を口にするのは禁止だ」
なにか言おうとする前にすかさず父さんから禁令が出され、言われたとおりにぼくは口をつぐんだ。しかしノーラはまったく意に介さなかった。
「なにこれ、変な絵!!」
素直で率直なノーラの言葉に父さんは静かにまぶたを閉じて、与えられた屈辱の試練を堪え忍んでいた。
「じゃあ父さんはずっとこの絵に取り掛かっていたんだね。クリスマスに帰ってくるぼくたちにお披露目するために」
イーゼルに架けられたF30号サイズの油絵。ぼくたち三人は簡易椅子に座ってその絵を鑑賞しながら、父さんのこれまでの不審な行動の理由を明かしてもらった。
「そうだ。執筆や雑事に追われるかたわらの作業だったから、一向にはかどらなくて……ついお前たちとの時間を疎かにしてしまった。反省しているよ」
「こっちこそゴメン……父さんの計画をパーにしてしまった」
殊勝に謝るノーラ。父さんはいいんだと呟いてノーラの頭を優しくなでた。
「絵を描いてみようと思ったのは、またジェニファーと一緒にいられるような気がしたからだ。つかの間でも寂しさを忘れるために。それに描くのならば目標を決めて、それなりの作品に仕上げたいと思って始めただけのこと。計画というほど大層なものではないのだから気にするな」
自嘲の笑みで父さんが答える。母さんの亡き後、気丈に振る舞っていたけど、辛かったんだね。壊滅的に絵が下手で、描くのが好きじゃなかった父さんが、母さんのように油絵に挑戦するほどに。
ぼくたちは四竦みの家族。父さんは文才はあるけど絵の才能は皆無。母さんは絵が得意だけれど料理はてんでだめ。ぼくは料理に自信があるけど、絶望的な音痴。ノーラは絶対音感の持主で歌にも演奏にも長けている。けど、文章力に難あり……なんて具合で。
それにしても、すごい変な絵……自力でゼロから描くのは無理だと考えた父さんは、世に出回っている色んな絵、たとえば名画からとかポスター、絵本やコミックまで幅ひろく、描くものに合致した絵を拾い出して模倣し、組み合わせて描いたようだ。ちぐはぐなところが多々あって、背景のこの部分は印象派を思わせる色使い、けどクリスマスツリーは現代アート的なあっさりした描き方……などなど。絵のテーマは「家族のクリスマス」。そこにはぼくたち三人はもちろん、母さんもちゃんと描かれている。(絵が下手すぎて、誰が誰だか判別つけがたいけど)そのほかに感心したのは、子どもの頃に飼っていたプーリー犬のベンジャミンやフランクリンも一緒に描いてあったことだ。懐かしい、楽しい思い出が溢れ出して心が暖かくなった。
「めちゃくちゃだけど……良い絵だね」
「うん、変な絵だけど、あたしは好き。みんな一緒にいて楽しそうだから」
ぼくたち二人の賞賛の言葉は、父さんのお気には召さなかったようだ。むっつりと拗ねた顔をして黙っている。
「ねえ、ビリーのモデルはクラーク・ケントだよね?なのに隣のあたしはラガディ・アンって、奇抜な取り合わせがまた良い味出してるよ。テーブルのごちそうなんて中世のものだし。不思議な世界、ダリの絵といい勝負かもね」
心の底から感心して話すノーラ。ぼくはもう耐え切れず、思わず吹き出してしまった。でしょ、でしょ?と、ノーラもつられて笑い出す。ひとしきり笑うと、黙っていた父さんが口を開いた。
「……ビリー、ノーラ。お前たちの思慮深さから出た今回の行動にはいたく感謝する」
感情のない口調に、ハッとして父さんの方を振り向く。怒らせてしまった!
「素行を疑われるほどだらしない父親を案じて予定外に早く帰り、私の心臓を縮ませてくれたことや、寝室を引っ掻き回してくれたこと、実に嬉しく思っているよ。そうだ、お前たちが帰ってきたら、ぜひとも二人にお願いしたいことがあったんだが。聞いてもらえないだろうか?」
静かに怒る父さんは不気味で怖い。逆らうことなくノーラとぼくは頷いた。
「もーろびとーこぞーりてーむかーえまーつれー……」
ノーラの妙なるピアノの調べに乗って、ぼくのひどく調子はずれな歌声がファミリールームに響く。
父さんのお願いという名のお仕置きだ。ぼくに苦手な歌を歌わせ、ノーラには悪夢以外の何物でもない、作詞と朗読をさせる。目には目を、笑われたら笑い返す。まったく人の悪い報復だ。ノーラはケラケラ笑いながら演奏し、父さんも顔を真っ赤にして上品に爆笑している。ノーラの番になったら、ぼくも思いっきり笑ってやるからな。
人それぞれ、家族それぞれ、クリスマスの過ごし方はいろいろある。ぼくの家族の今年のクリスマスは、母さんがいなくなって初めて迎えるクリスマスなのに、こんなにはしゃいだスタートになってしまった。クリスマス当日に父さんの絵が完成したら、またひとはしゃぎするかも知れないな。さらに父さんの絵の中では、母さんもベンジャミンもフランクリンも、ぼくたちみんな一緒に楽しく笑って過ごせるんだから、今年はとても素敵なクリスマスになるよね、きっと。
12/25/2023, 12:07:06 PM