「アタカマ砂漠ってどこにあると思う?」
「……ちょっと、地理苦手なんだけど」
突然の出題に苦い顔をしてみせると、彼女はテーブルに肘をつく。目の前のビールは泡の層をグラスの側面に残しながら半分まで減っている。
「ずっと地理苦手だもんね。じゃあさ、三重県の県庁所在地は?」
「えーと、どっちだったかな……津?」
「お、正解。じゃあ滋賀県は?」
「大津!」
「せいかーい!すごいじゃん!」
中学生の時にどうしても覚えられなかったこの二択も、目にする機会があるごとに摺り込まれて段々と覚えていった。彼女の前で迷ったふりをしたのは、この問題を前に私がどっちだっけ、と唸る時間、彼女がいつも楽しげだったから。私もその時間が好きだった。放課後、机をくっつけあって宿題を広げて、宿題にもなければテストに出もしない地理の問題を彼女が出して、私が答える、それだけの時間。たまにふざけた答えを出しては、ふたりで大笑いしていた。
「あたしね、チリに行くの」
彼女はなんでもないように言った。
「あたしがやりたかった研究がようやくできるんだ」
チリなら分かる。南アメリカの、細長い国。チリがどこか分かったところで、そこがどんな国で、どのくらい遠いのかもいまいちピンとこないけれど。
「良かったね」
「うん」
「チリってさ」
「うん」
「ちょっと辛(から)そうだよね」
彼女は一瞬間を置いて、そして私の肩を叩いた。何度も、何度も叩く。
「それだけ!?もっと!言うこと!あるでしょ!」
「いたいいたい!」
十代の女の子がするような悪ふざけをしても、全員酔っ払った居酒屋では誰も気にしない。仕事の愚痴や配偶者の悪口なんかにみんな夢中だ。
「あーあ、もう帰っちゃおうかなあ」
彼女が勢いよくビールを呷るので、私は店員さんにもう一杯追加で注文した。
「栄転祝いに私が奢るからさ!」
ね、と言えば彼女はじろ、と私を睨んで、そして耐えきれなかったように笑う。
「その言葉待ってました!飲むぞ〜!」
しまった、とわざとらしくショックを受けた顔をしてみせる。彼女もメニュー表を手に取って悪い顔を向けてきた。
いつものメニューと、いつものお酒。いつも通りのやりとりに、いつも通りの笑い声。まださよならを言いたくなくて、寂しいことに気づきたくなくて、泣きたくなくて。何気ないふりをしていたのは、きっと私だけじゃない。
【何気ないふり】
3/30/2026, 5:19:15 PM