ふと気がつくと、彼女は白く霞がかった世界に一人、ぽつねんと佇んでいた。つい先程まで書類仕事をしていた執務室は跡形もない。
まずはここが夢か現か確かめようと、彼女は自らの手の甲をつねる。痛い。この古典的な確かめ方が本当に正しいのかわからないが、今は他に信じるものもない。夢でないとすれば一体ここはどこなのか。常人であれば、慌てふためくか呆然とするか、せいぜいそれくらいしかできないだろう。しかし、小さくも豊かな本丸で審神者を務める彼女には、なんとなく見当がついていた。と、そのとき。
「……じ、主。聞こえるか、主」
「鶴丸」
「よかった、無事だったか」
靄の向こうから届いた、かすかに反響する声の主は、彼女の近侍の一振り。ということは、ここは彼の神域であり、彼女はいわゆる神隠しにあっているということだ。しかし、なぜ。常日頃、驚きを求めるいたずら好きの彼とはいえ、おふざけでこんなことをするとは考えられない。それに、声が届くなり無事を確かめ安堵するとは、一体どうしたのか。次々と込み上げてくる疑問に口が追いつかないでいると、鶴丸が言葉を続ける。
「主、落ち着いて聞いてくれ。たった今、俺たちの本丸に、得体のしれない何かが入り込んだ」
淡々とした声音の奥に、ピンと張り詰めた空気を感じ、審神者はごくりと喉を鳴らした。
「時間遡行軍ではないようだし、明確な敵意や殺意は感じられない。が、あれは絶対にいいものじゃない」
現在の本丸では、齢千余年の付喪神である鶴丸すら怖気立つほどの妙な気配が、ぞるりぞるりと蠢いているのだという。
「みんなは」
「本丸にいるのは皆無事だ。今のところ、向こうからの大きな影響はないぜ」
審神者はその言葉に胸を撫で下ろし、ではなぜ自分が隠されたのかと問う。彼は真剣に答えた。
「奴は主を狙っている。見つかる前に主を隠さないと、本丸ごと手遅れになるかもしれないからな」
ぞっとした。彼が咄嗟にこうして隠してくれなかったら、非力な彼女はあっという間に襲われ、本丸もどうなっていたかわからない。
他の刀剣男士たちが危害を受ける様子はないこと、政府へ連絡を入れてあることを告げられ、審神者はほっと息をついた。今は鶴丸の言う通り、主である自分の身の安全を確保しておくことが、一番良策のようだ。
「なぁに、すぐに戻れるさ。主のことは俺が必ず守るから、安心していいぜ」
声しか聞こえないが、どこか楽しげにすら聞こえる口調が頼もしかった。
9/23/2024, 9:29:17 AM