さぶらう

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 これは私が育った村で伝わる言い伝えの話だ。
その言い伝えは多分どこにでもある陳腐なモノで、幼少期はともかく思春期を迎える頃には年寄りの世迷い言だと思っていた。高校生になる頃にはその言い伝えを聞かされることが、子供扱いされているようで妙に癪だった。けどその旨を伝えても、お婆ちゃんは悲しそうな顔をするだけでやめてはくれなかった。老人の信心深さが煩わしくて、私はその言い伝えにある種の反感を抱いていた。
その言い伝えとはこれだ。

新月夜の御稲荷さんに行ってはいけない。体を裏返しにされてしまうから。

御稲荷さんは、私の村にある土着の神社だ。寒村にあるものだから鳥居の丹塗りは所々剥げていたし、ともかく寂れた有り様であった。
信仰の薄い世代であった私はとうとうその言い伝えを信じなかった。そもそも、時間帯に限らず御稲荷さんにお参りすることなんてないのだから。

だが、私はその考えを覆される事になる。
ある夏祭りの日、私は御稲荷さんに携帯の忘れ物をしたことに気づいた。灯りのない夜の村を歩きたくはなかったがせっかく遠出して買った携帯が、雨でも降って潰れてしまっては不愉快だ。私は親に黙って深夜の御稲荷さんへと向かった。
闇に包まれたあぜ道からは、ウシガエルの鳴き声ばかりが聞こえてくる。やっぱり怖かったが歩いてみれば御稲荷さんはすぐそこだった。そこで違和感に気づいた。
少し離れた所から見た御稲荷さんはぼんやりと明るかった。どうやら提灯をまだ灯しているらしい。私は夜に刺した灯りに安堵して、虫けらのように妖しい光へと誘われた。近づくと、境内へ向かう階段に一人の男性がいた。まだ人がいる事にも驚いたが、よく見るとその人に見覚えがない。こんな狭い村に知らない人など居ない。この人は他所からの人だ。何をしに来たのだろうと思ったのも束の間。
私は今でもその光景を覚えている。
まるで靴下を裏返すように、つま先からメリメリと人間が裏返っていく様子を。血しぶきがびちゃびちゃと舞って、鳥居よりも紅い色が辺り一面に広がった。
そこからの事を私は覚えていない。気がつくと家の布団で目を覚ました。アレは夢だったのか。覚えているのはあの日は新月だったという事ばかり……。

8/23/2023, 5:02:58 AM