ぺんぎん

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浴槽に注いだばかりの水がもうぬるくなっていた。簡単に冬だと思った。
こっくりと濃い夜に引っ掛かった三日月を鏡越しに、少しだけ湯気のかかった指でなぞる。
湯を張らないバスルームが温度を持たないように、君をとりこぼした私になにも残らないことは知っている。あつく濡れそぼった指先が、冷たさに曝されて、水滴を、ひとつとりこぼす。
ゆらゆらと不安定になびく水面下に手を食べてもらうと、後ろめたさがふわふわと抜けていってくれるので、心地よかった。指に沿って跳ねて、泡が剥がれて、波紋を描くのが夢のように綺麗だった。

雨が一晩中、これでもかと床を叩き、窓がぴしぴしとざわめく夜があった。なにも怖くないのに、シーツの中がずっと冷たかった。軽快な音がしたあと、君はメールの文の中でさえひどく動揺して、窮屈そうに泣いていた。
覚束無い足許をぐらつかせて、ビニール傘の半分くらい、肩を濡らしていた君は、目元に泣き跡をもってきては、私にすがった。持て余したものを、残り物を温め直そうとするみたいに、私にくれた。総て私が与えてほしかったものばかりだった。
―――おれ、彼女と別れたんだ、振られたんだ。「いい人だったね」って、それだけで愛の境目をつくるのは卑怯なんじゃないの。
―――なあ、どうせなら、おれを慰めて、ぼろぼろにして。
君と私は、まあまあ上手くやっていた友人だった。私が身勝手に抱えきれない好意をよせていたまでで。いつのときかは、曖昧に保ったバランスが頽れることも覚悟していた。君も、私なんかで自分を壊そうとしてるんだから、卑怯だと思った。勝手だと思った。けど、私は、ひどく長いキスをした。私もたぶん卑怯だった。唇がひりついて痛かった。底なしの貪欲を刃物みたいに突きつけては好き、なんて軽々しくぼやいた。君のことなんてどうでもよかった。
はじめて、君が、私の前で、気持ちいいって、ぐしゃぐしゃに泣いた。やっぱりかわいいなって他人事のように思った。私は私でいられなくなって、それでも君を壊してしまわないよう、断片的な理性を掬っては、うなじに優しく歯をたてた。
そのとき、君のまなじりに浮かんで、頬をなでた熱も、私にとどく頃には冷たかったことを思い出した。

そういえば、冷凍庫に型くずれしたアイスがあった。途端に、さっさと冷めた浴槽を抜けだす。甚だばかみたいだと思ってしまえればどんなに楽だったのか。凍りつきそうな床に膝を落としたら、冷たくて痛い。冬だった。
ああ、知ってるか。君としたときの、ローション、まだ残ってんだ。あのとき、君の体温は、さっき浴槽に溜まったばかりの水みたいだった。うわべだけは冷たくて、繋がりすぎたら目眩がする。君だけ奇麗になっちまって、私はまだあの行為を、丈の長いズボンみたいに引き摺っている。

馬鹿なことを考えては、また浴槽のドアに手をかけた。薄くて、やや透明な袋の剥がれたアイスは、半端に溶けていて、形あるのに奇妙だった。こぼさないように手を添えて、口で咥えた。食んだ。あまくてあまくて、胃が爛れそうなほどにあまくて、苦しい。甘さに殺されそうになるなんて心外だった。
鼻がつんと痛い。細い月がぼやける。指先が小刻みに震える。
ぬめった床につま先が触れる。ずっと冷たいままの浴槽に溶けかけのアイスを放り込んだ。

また楽しくなって書いてみました。

10/30/2022, 9:32:38 AM