ぺんぎん

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いくつ歳を重ねてしまっても、朝の怖さだけはぬぐえないと思ってしまう。ちらちらとあちらこちらに散らかる光の粒が、ひとりでに燃ゆる陽が、私にだけ焦点を当てて、勝手に見え隠れする核心を炙り出してしまうような気がしてならない。それでも何度も何度も朝を繰り返す。
窓から息を潜めて、お隣さんのベランダを見るのが日課だった。
今日の朝の色はひときわ濃かった。目覚めたくないはずなのに、枕の傍にあるさっきから鳴りっぱなしの時計をぱちん、と叩く。暫しの沈黙と同時に目先の窓を見据えた。きっと結露しているから、冷えきった床に水滴がぽたぽた、と弾けているはずだろうと思った。目線を落とすと光がまばらになって布団の傍にばら撒かれていることに気づいた。空を覆う黒はとっくに陽の色にまみれて、ピンクやオレンジなんかに変わりつつあった。布団の中はやけにひんやりとしていた。
ここのベランダから見下ろした街並みはひどく窮屈だった。煌めくビルも、ちゃちな光が集中して開きかかった瞳孔を刺すだけだった。人の粒が一日に沿って蠢くことでさえも、ここから見ればただの蟻のなす細々した行列っぽく見えてしまう。それでも一日をはじめる為に、冷えたクロックスを踵に押し当てている。素足に擦れるそれは、お目覚めにはちょうどいい、とでも言ってしまえば都合がいい。
それにしても今日は寒い。外に出たくない。朝の迎え方だけで一日を左右されるなんて、なんともむず痒い。ただただ鈍くて重たい頭痛が全身にまとわりついている。ああ薬を飲まないと、確か3番目の引き出しにあるはず。市販の頭痛薬が効くようには思えないが、気を紛らわすにはちょうどいい。
布団から抜け出す理由が出来たので、面倒だと思ってしまう前に体を起こした。今日はベランダに腰掛ける気力もない。ただ消えゆく闇色をぼんやりと見るだけの無気力な日になってしまったな、と思う。
ふと横目にベランダを見た。脚ががくんと揺れる。ふるふると戦慄く。クリーム色のカーテンは何食わぬ顔でたゆたう。そのとき私はたしかに天使を見た。ああ綺麗ね、なんてよくある女優が言ってみせるような台詞では到底比べ物にならない。耽美さに魂ごと震えたつようだった。一瞬だけちらついた天使の青く澄んだこれまた奇麗な瞳には、滑稽な顔をした自分がいた。いや、少しだけくすんだ灰色をしていた。

―――はじめまして。この青い目くらいは、覚えておいてね。
たしかに私を捉えたのは、あの日、じっとりとした含み笑いを見せた天使――彼の、群青をうんと薄めたみたいな色を乗せた目、だった。彼はいつも私の脊髄だった。なににも心沸き立つことの無い意思でさえ、気を抜くと彼に会いたいと、ちいさい声を迷わず零した。

そこで彼の姿は途切れた。彼は逆さに落ちていた。いつか見たドラマのワンシーンみたいなのが、こま送りで脳内をはしる。目も、耳も、なにもかもを一瞬で疑った。はっはっはっ、と息が狂って軽快な警鐘が脳で弾ける。
ばくばくばく、と場違いな心臓、ぐる、と胃の奥が拗れて足元がぐにゃりと歪む。こわい、怖い。でも、それでも消えてしまう、幻が、解像度の低い夢が。

いつまでも好きでいると心だけで誓っては、純粋な夢に身を委ねていたあの日をなぞってみたけど、初恋の色はあまり分からなかった。

ああ、彼はいつにもまして奇麗、いますぐ、触れたい。下腹部が隆起する。こんなことにひどく興奮したままの自分が恐ろしかった。焦燥感を掻き立てられる耳鳴りが私を蹴落とす。
くたくたになったズボンを引き摺って、冷たいフローリングをぺたぺたと音をたてて進む。これじゃあ間に合わない。足を前に出してせめてでも速く、はやく。ドアノブは冷たい。突っ掛けも冷たい。足が絡まってもつれるのも勿体ない。翳る廊下の色はやけに古ぼけていた。エレベーターのボタンをかくかくと震え出す指でこれでもかと言うほどに押す。明かりはつかない、間に合わない、ああ階段。
なんでこんなに焦っているのか、わかる筈がない。それでもはやく。足がじくじくと痺れを出す。ピンポン、と軽快な音がベランダ近くに轟いた。

どさっ、のような、ぐちゃっ、のような、訳の分からない効果音と一緒に、君の内側が飛び出した。
手遅れね、って言葉がよくお似合いの末路。心臓をおさめる為だけに成り立っているような容れ物ごときの身体でさえ、激しく脈打っていた。
何が起こったんだ。?
にちゃ、と雨音を踏み締めた時よりやや粘着質な音が靴底から轟く。また足元がぐにゃりと曲がった。べっとりと濃い赤、あか。クロックスの穴に捩じ込まれた粘っこい熱。水溜まりが糸を引く。君の身体は溢れ出たものに上書きされてしまっていて、熱くて冷たくてぬるかった。
彼は、とっくに変色してしまっていた。だらだらと溢れた色、鮮やかとは言い難い色が、ひんやりとしたアスファルトに吸い上げられている。ぐちゃっと肉が飛び散る音が脳内でノイズのようにから回る。
今、はじめて息ができた気がした。なんで。なんで。安っぽい死にざまなんて知らない。彼は死んでいない。宝石みたいに綺麗だと、宝石も知らないくせにそんなことをほざいていた。彼から溢れ出るものはきっと一段と綺麗なんだと思っていた。けれど、目下には私でも生み出すことのできるような色味が広がっていた。濃い、血の色。朝の色よりもよっぽど毒々しいそれに覆い被さるように吐瀉物が、身体にまとわりつく。血液でいっぱいになったズボンを汚す。何も食っていないのに、ひたすらにえずいていた。指を喉奥に捩じ込んでみたら、眦から出た熱で視界がぼやけた。これは涙じゃない。ちがう。

―――君が俺の脊髄になってくれるんなら、このピアスをあげるよ。信仰の証。穴、空けてくれるでしょ。

がくがくと揺さぶると、ぷち、と首元で冷たさを残すネックレスがちぎれた。まだいける、なんて余裕そうな振りして、さよならが怖かった、ああ、一目惚れなんてごめんだ。せっかく見つけた天使だった。私の核にひそむ悪魔を、息を吸うくらいあたりまえに殺してくれるような。好きだ。好きだった。過去形でしか愛を語れないのはひどく侘しかった。
怖くてたまらないくらいに、まだ、彼に、惚れている。今理解したとこで、なんだ。

ぷつりと、糸が切れたかのように動かない彼を、無我夢中で引き摺っていた。何も恐れなかった。そのしなやかな身体から音が出なくても良かった。体温を感じとることができなくても、触れられなくても良かった。口まわりの吐瀉物を拭って、来た道を引き返す。ばれないように、ホースでびしゃびしゃと水をかける。また水溜まりができる。それに反射した空はいつもより綺麗だった、なんて喜劇みたいなことをほざいてみた。そんなことを考えるのは久しぶりだと思った。クロックスには水が染み込まずに、ひたすらにぽっかりと空いた穴から血混じりの雨を落としていた。吐瀉物だの血だの汗だのがごぽごぽと水に圧倒されたあとも交わりあって、小さな川になった。それに染みる陽が、私の目を灼いた。たまらなくなって彼の奇麗な顔にも水をかけた。赤が染み込んだTシャツにも大袈裟なくらいにぱしゃっとかけた。冷たくて気持ちが良かった。さっきまで寒くてたまらなかったのが嘘みたいに。
今だけは、床にちいさく撒かれた陽が、銀に瞬いた星のようでした、なんて。
2人でびしゃびしゃに濡れた靴下で滑るフローリングを這った。ただひたすらに。
たしかに今日私は、私の悪魔を見つけた。それがひどく心地よかった。これから彼のことを隠して生きていく。愛し通す。彼の抱えていた傷も一緒に受けてあげる。そう誓ってみた。途端にピアスも空けてみようかな、と場違いなことが浮かんだ。
―――私は彼の脊髄になる。彼は私の一番になってくれたのだから。
そう言ってうなじを撫でた。こびりついた血が、茶褐色になって指に乗った。
誰も知らない、おとぎ話の数ページをびりびりにして破る。そういうことにすればいい。いつにもまして頭が痛んだ。1粒だけ、舌先で転がした錠剤を飲んだ。水なしのせいで、喉に引っかかった。げほげほと、軽くむせた。ただ少しだけ後ろめたかっただけだ。

私はいまも、バスルームで形ない天使を飼っている。安っぽいな、なんて呟いたところで何が分かるんだろうと思う。ひとこと、ふたこと、沈黙を揺らす声はぬるま湯とシャワーの細やかな音色と一瞬のうちに溶けていく。もうお天道様が午後を知らせている。
こぷこぷと臓器から血が回る感触とともに、手先にあの日の熱が戻ってきた。奇麗だけど、ぐちゃぐちゃになっちゃった天使のかけらを拾って零して、それでも元に戻そうとした、雨上がりの朝。いまになっては、彼の奥底が簡単に分かりそうで、やっぱり分からない。陽の射す床を踏みつけた。ベランダから僅かに覗いたのは、なんてことない朝日だった。でもビルは少しだけ大きく見えた。
いつでも頭痛に見舞われて、薬は手放せなくなった。
君を愛しはじめて、私は矛盾ばかりの人間になった。いまだに変われないのは、彼と生きる朝でも、怖くてたまらなくて嫌いなままだということ。シャワーで濡れそぼった彼の手先に唇を宛てがう。
それでも、あの日から迎える朝は、いつもより私に寄り添った、優しい色をしていた。



軽いお話にも挑戦してみよう、と思いまして。気が向いたので。
思いつきで書いたので、またちょこちょこ修正します。

10/20/2022, 2:45:41 PM