『終点』
ある日、その男はどうしても列車から降りる気になれなかった。それは、端と端が繋がったフィルムのように廻り続ける人生に嫌気が差したとかいう、酷く文学に侵された下らない理由などではない。
確かに彼の人生は下らなかったが、それでもその駅で降りることを選び続けたということは、彼の人生における数少ない誇りの一つだった。そして実際にその選択は正しく、その駅で降り続けるということは、現代人にとっての完徳に違いないのであった。
だが、今日という今日ついに、彼は疑問という堕落に片脚を踏み入れたのである。それは前述の通り彼のビデオ録画の如く日常に対してではない、それであれば彼のような生粋の現代的完徳者は、そのような真理への挑発すら、自らの糧にしてしまうだろう。
だからここに言う彼の疑問というのは、それよりももっとくだらなくて、もっと怠惰で、それでいて最も高慢で、無意味かつ真理的でなくてはいけない。
つまり彼は、列車から降りるということを疑ったのである。実のところ、彼は降りる気にならなかったのではなく、最初から降りぬために列車に乗ったのである。
そうして彼が、眠ることも、目覚めることもせずに、ただ列車を味わっているうちに、列車は当然ながら一つの駅に辿り着いた。そして、もうその列車は、次の駅へ向かう気は無い様だった。
その駅は、大きくも小さくもない、実につまらない駅だった。列車の座席に腰掛けたままの男は、居眠り客を起こして回る車掌の足音に気が付いた。男は車掌に、ここがどこか尋ねることにしたが、車掌に声をかけてから、思いなおしてそれをやめた。
名前を聞いてみたところで、男にとってその駅が終点以外の何ものかに変化することはないと考えてのことだった。
その代わりに男は、車掌にこう自慢した。
「これからこの列車は、次に行かぬために走り出すのだ。この私のように。」
車掌は、こちらを一瞥したが、特別彼の言葉を気に留めるふうでもなく次の車両へ歩き始めた。専ら彼の関心は眠っている客であって、その大いなる目的の前にあっては、目覚めたる男の独り言なぞに用はないのであった。
男は、この列車は毎日、今日の男と同じような決意を持って生きているのだと感じて、列車と離れたくないと感じたが、そういうわけにもいかなかった。
男は渋々プラットホオムに降りた。寂れているが、特別叙情的に寂れているわけでもないその駅は、一つの階段の他に、隣接する全寮制のお嬢様学校への学生専用連絡通路がひとつ、門を閉じた状態で設置されているだけの、やはりつまらない駅だった。
振り向いて、列車の走り去ったあとに残った、左右に続く線路を見る限り、この駅がこの電鉄の一番端の駅ということではないようだった。
その事実は男に、あの行くには遅く、帰るには早い、無意味な列車が、一層無意味に向かうという意味を持って走っていたものであったと思わせたようだった。
そして男はその姿と自分を重ねて、このつまらない駅に、辿り着かぬために辿り着いたのは自分くらいのものだろうと、密かに誇りに思ったのだ。
そして男は、駅の外に出た。
そこに広がるのは、やはりつまらない景色であった。それは男の思うつまらなさを、あまりに巧みに写し出した景色であったから、その様を記そうにも、記すべき点が一つも見つからぬほどであった。
だからそこには、純粋にただ景色だけがあった。
そしてその景色を横切ったのは、これまた純粋に女学生としか言いようのない女だった。
どうやらこの女は、隣接する学校の生徒らしかった。
その帰郷は、全く無意味な時期の帰郷であったから、男にもそれが、すぐになんらかの凶報によるものであると察しが付いた。
男は女を追って、駅に引き換えした。
これから帰られぬことを知るために帰ろうという、女のそのアンビバレントを見届けるためである。
今日の男は、珍しく矛盾を受け入れる心があった。
しかし、男の意に反して、女学生はやってきた列車の写真を取ると、すぐに帰ってしまった。
男は少し不貞腐れたような声で一言つぶやいて、折り返しの電車に乗った。
「電車は乗るものだ。」
そしてすっかり興が削がれた男は、少しも眠ることなくいつもの駅まで列車に乗ったのだった。
そしてその日はもう、男は電車には乗らなかった。
男の半端な堕落は、ただそれだけのことであった。
だがしかし、やはり男が堕落者たる所以は、ただそれだけで十分なのであった。
8/10/2023, 10:54:17 PM