[40代アスペルガー症候群左片麻痺の生き方]
<普通の事が出来なくなったあの日>
アスペルガー症候群とは、人との関わりやコミュニケーションをとることが苦手だったり、興味や行動が偏っていたりするなどの特徴がある40代出来損ないの生き方をブログで発信する事で、こんなおっさんが頑張ってるなら、自分も頑張れると勇気と希望を与えるブログにしたいと思いブログを始めました!幼少期から人嫌いで人見知りで変わり者な僕は、学生時代は良い思い出は一切なく、生き辛い日々しか記憶になく、高校中退後足早に社会に出て働いた。出来るだけ接客を必要としない仕事を探した。因みに仕事をする事は大好きだった。どんな仕事もした。色々仕事を探していく中で一人で仕事を熟す時間が比較的多いトラックドライバー業を選択したのが23歳の時だった。職場は数回変わったがトラック業は10年以上続ける事が出来た。トラックドライバーのおかげで、メンタル、フィジカルは、成長したと思う。一人で仕事が出来人と関わらず仕事が出来た事と、運転する事が好きという事が続けられた理由だと思う。発達障害も、成長と経験と共に、あまり気にならなくなったので、少し接客にも挑戦しようと思い、運転技術と経験を生かそうと思い大型二種を習得し(株)京阪バスに就職した。地獄の始まりはこのあたりかなと思う。長時間拘束と運送する物が荷物からお客様に変わった事から、気を使い神経が擦り減り疲弊してきた。同時に結婚したのが36歳の時。就職、結婚生活の慣れない環境変化のストレスから、自殺未遂、半年で離婚。精神崩壊。調子乗ってしまった、自分が悪かった。実家にも入れて貰えず車中泊生活。このままの状況から抜け出さなければと焦り何とかしなければと思いTOYOTA自動車にエンジン組み立てライン工として、働き始め愛知県にあるTOYOTA寮で生活をした。この時丁度ガソリンエンジン車からEV車の生産移行によりリチウムイオン電池工場にヘッドハンティングされ、リチウムイオン電池の放電、充電の検査員として働いたのが生涯最後の仕事。
夜勤上りの三月起きたのが夕方。飲み物がなくなり、近所のドラッグストアに飲料水を買いに車を走らせ、ドラッグストアに着き車を駐車させても、なかなかこの日は駐車に手こずり、20年以上の運転スキルと逆にペーパードライバー並みの駐車スキル。この時点ですでに脳梗塞が発症。泥酔している感覚に襲われ、頭{やられたな}とすぐ察知して店員さんに助けを呼ぼうとするが何も出来無い。何とか自分で119番に電話し、家に帰ろうとするが、帰り道と運転の仕方を思い出せないまま、家の近く迄車をかろうじて走らせた。今から思うと事故が起きなくて良かったと思う。静岡の近くで救急車を呼んだが不運にも救急車が出払っている為出動出来無いと告知されるが、
愛知県豊橋市から救急車が手配されたみたいで辛うじて助かった土地感が無いので案内してくれと理不尽な事を救急隊員に言われ、必至で意識朦朧の中、住所を説明した事を昨日の出来事かのように覚えている。もう少し早い処置をされていたら、後遺症も軽くなっていたかと思うと悔やんでも悔み切れない。悔やんでも治らないので。生きているだけで丸儲けと思うようにしている。豊橋市民病院に救急搬送され半年間急性期でリハビリ入院する事になる。トイレは尿道に管、オムツ車椅子生活を半年間後、急性期から脳梗塞リハビリ専門病院に転医し、1年半リハビリ入院。とりあえず麻痺は治らないが右手を使い片麻痺の身体に慣れる事に専念し、QOL向上を目指しリハビリに集中した。リハビリはきつかったが、自由に生活する事を夢見つつ厳しい現実も突き付けながらリハビリに励み、退院する事になるが帰る所が無く強制的に施設グループホームに収容させられた。人権無視の金儲けの福祉施設から抜け出したい一心で福祉サービスは頼らず、賃貸を探し、一人暮しを悪戦苦闘しながら生活していたが、障害年金だけでは、賃貸の支払いが厳しく市営住宅へと移って4年が経過し、今に至る。その間、就労支援b型ではたらいたが、障害者の世界、福祉サービスに順応出来ず全て辞める。自分は一人で考え行動するしかないと考えパソコンを学びこれを仕事にしたいと思い、プログラミングをオンラインで学び、色々学び、最終的にウェブサイトの作成に関わる仕事がしたいと具体的に目指す方向も決まり、今後オンラインでレッスンを受ける予定があるので楽しみだ。一般企業の障害者枠のリモートで働く事が目標なので、楽しみです。必ず出来る事を信じ、成功する迄やれば、失敗にならないので、例え失敗しても立ち止まらず進み続けたいです。
8/11/2024, 1:09:38 PM