もう一つの物語
店を出ようとする背中に追いついて声をかけた。
ちょっと待てって。どうしたんだよ。
振り返った彼女の、鋭い視線が僕にぶつけられた。
なんであんたが来るの?あいつは?
まあ、僕もあいつが追いかけてくるべきだとは思うけど。お前が完全に無視してるから、代わりに聞いてきてって言われてさ。仕方なく。
視線が一層厳しくなった。
ぼ、僕に当たるなよ。とにかく、理由は?
彼女は僕を睨んだまま、渋々口を開いた。
さっきあいつのインスタ見た。
で?
端っこのテーブルにグラスが2つあった。片方に口紅ついてた。
……あ、ああ、そうか。ううむ。
決まりでしょ。浮気。
いや、待て。実は今日の宴会芸のために女装の練習をしていた、という真実の物語が……。
あるわけないでしょ。なに?あんた、あっちの味方なの?男はこれだから……。こういう時にかばい合うよね。
待て。わかった。一応、確認してくる。待ってろ。
僕は階段を上り、3階の宴会場に戻った。
他の同僚に捕まらないようにこっそりとあいつに近づき、さっきの話をした。
ゴニョゴニョ。
ゴニョゴニョ。
わかった。待ってろ。
僕は急ぎ足で一階に降りて、あいつの言い分を伝えた。
あれは、あいつの姉のグラスだってさ。だから完全に誤解なんだって。よかったな。
だが、彼女の視線はますます厳しさを帯びた。
お姉さん、確か結婚してアメリカに住んでるはず。
え?あ、ああ、そうだっけ?
そうだっけって、あんただって知ってるでしょ。
怒りが渦を巻いている。このままでは、何故か僕もその渦に巻き込まれそうだ。
わ、わかった。もう一回、もう一回だけ確認してくる。
僕は、駆け足で階段を登った。
ハァ、ハァ。ゴ、ゴニョゴニョ。
ゴニョゴニョ。
そうか。い、行ってくる。
一階に戻り伝えた。
お、お姉さん、離婚して戻ってきたんだって。住むところ見つかるまで一緒に住むって。
……本当に?
本当に。さっき僕が、お姉さんに電話して確認した。だから本当。よ、よかったな。か、完全に無実だ。
そうなんだ。なぁんだ、そうならそうと言ってくれればいいのに。
先程までの怒りは霧散し、表情に薔薇の花が咲いている。
じゃあ謝んなきゃ。わたし戻るね。
彼女は、颯爽と宴会場に戻っていった。
僕は、息を切らし、足を震わせながらまた3階へ戻っていった。
へとへとになりながら、席に戻った。どうなったかなと気になって視線をやると、周りのことなど気にしない、ラブラブなふたりに戻っていた。
なんなんだ。なんで僕がこんなにへとへとにならなきゃいけないんだ。
ちょっとイライラしながら、お猪口を傾けた。
大変でしたね。
声のした方を見ると、後輩の女性が労うように徳利を差し出してきた。
やあ、これはどうも。頂きます。ほんとにさ、自分達でなんとかしてくれって話だよ。
でも放っておけないんですよね、先輩は。
まあ、数少ない友人だからね。
フフッと後輩は笑った。柔らかな視線だった。
先輩って優しいんですね。
いやぁ、それほどでも。
あ、あれ?この雰囲気は……。
もしかして、もう一つ、新たな物語が始まったりして……。
10/29/2024, 10:53:28 PM